今年2009年、佐藤は坐禅するこころで新年を迎えました。
それは「ばたばたするんじゃねぇ!」。禅の教えに導かれて、メディアミックス&ソフトノミックス/は創立から20年、21世紀の初頭の現在のただいまを生きています。
それは20年間の相変わらずのこころをもって、創立30年へ向けて相変わらずの姿勢でお客様と共に歩んでいきたいと考えております。
真正パートナーシップを更に進め、松下幸之助先生のことばにもあったと思いますが、
「好況よし、不況もまたよし」の精神で臨んでいきます。
この大転換期をどのように生き抜くか。
平成21年1月6日 日本経済新聞1面の「世界この先」岩井克人東大教授の意見が、わが国の大方の考えだと思った。
「……だが、統制経済やナチズムというゆがんだ現象が生まれた。人間社会は経済的自由を抑圧できないことを多くの犠牲のうえに学んだ。
いまや中国共産党ですら資本主義から逃れられない。チャーチル英首相はかつて『民主主義は最悪のシステムだが、これに勝るシステムはない』と言った。経済では資本主義がそうだ。……資本主義を守るには自由放任主義というイデオロギーから離れ、政府が中心的な役割を果たさざるをえない。それが今回の危機の教訓ではないか。経済学者のハイエクは『共産主義の亡霊』と言ったが、自由主義の亡霊はもうひとつの先祖返りともいえる。規制を強化し継ぎはぎしながら何とか資本主義を守るしかない。
……あまり変な規制をかけると将来的に問題が起きる。国がすべてを統制することもできない。規制をかけたとしても、それを逃れた新たな金融商品が必ず生まれる。これがベストというものはないかもしれないが、継ぎはぎしながら規制を加えていくという現実主義しかない。(投機抑制のために国際金融取引に課税する)トービン税も含め、いろいろアイデアが出てくると思う」
EUにおいてもう少し厳しい規制をかけるような意見が出るだろう。これは大企業中心の輸出企業の話で、内需中心の経済に関心をもつぼくたちにとって、またぼくたちの生きる道を求めていく。
ぼくたちは小さな魚(マイクロビジネス)でもある。大企業と生き方が違う。
小さいが高等な生物でありたいと思っている。
知識産業経済を推し進めていくが、大企業の規模の産業から知識を工作する小規模な企業がある。
知識による価値の創出を目指し、現下の多様な規模の出版業界の存在に学ぶ。
ぼくたちは新しい組織としてこうした知識産業社会で、どのように生きていくか。
P.F.ドラッカー先生の『未来への決断』(ダイヤモンド社刊)84頁
「自分をマーケティングする」で、先生は次のように言っている。
「今後、新しく登場してくる問題が、パートナーシップや提携関係のもとにおける諸々の関係のあり方である。これまで組織のエグゼクティブたちは、「命令する」ことにあまりに慣れてきた。何をしたいかを考え、それを部下に受け入れさせることに慣れてきた。」
「しかし、外部委託の受託者であれ、ジョイントベンチャーの相手方であれ、あるいは少数株主となっている企業であれ、パートナーシップにおいては命令することはできない。信頼を得ることしかできない。ということは具体的には、もはや「自分は何をしたいか」からスタートしてはならないということである。
正しい問いは「彼らは何をしたいか。彼らの目的は何か。彼らの価値は何か。彼らのスタイルは何か」でなければならない。ここでもまた必要とされているものはマーケティングの考えである。マーケティングでは製品からではなく、顧客からスタートする。
私は前述の三日間のセミナーにおいて、このような新しい組織と新しい社会をなんと呼ぶべきかを尋ねた。初め彼らは「自由型社会」と答えた。しかしややしばらく考えた後、「ネットワーク社会」という答えが返ってきた。(1995年)
「編集者は何をしたいか。編集者の目的は何か。編集者の価値は何か。編集者のスタイルは何か」でなければならない。と佐藤は読みかえた。パートナーシップのあり方を学ぶ。
工場で機械を使って働く労働者は「次に何を行なうかだけでなく、いかに行なうか」も機械が指示する。工場労働者は「何を行なうか、いかに、いかなる速さで行なうか、指示される」。
ドラッカー先生はこう言っている。
「彼らの地位は、彼らの前身たるブルーカラー労働者、すなわち昨日の労働者と比較して、さして変わらない。むしろこのことは、彼らが現代社会における社会問題のひとつであることを示している」と。
現下の金融恐慌は何を物語っているのか。アメリカの現下の苦悩から構造的問題から新しい動きに期待している。わが国経済の構造へ新しい気づき、問題意識は対処的視点でさまよっている。国会ではこの「社会問題」が政治問題化しようとしているが、未来への姿が欠落している。佐藤はアメリカの知識労働者の動きに注目していく。
知識労働者の仕事は生産手段であるコンピュータに向かって、いかに仕事を行なうべきかも、どんな仕事を自らの知識を適用して行なうべきか、コンピュータは教えてはくれない。知識資本なしにはコンピュータは生産的たりえない。知識労働者を監督できない。
そこで各種媒体へ向けた新しい事業モデルに対しても、「編集者は何をしたいか、目的は何か、編集者の価値は何か、仕事のスタイルは何か」を【仕事を知る・学ぶのステップ1】【やってみてわかる学習と訓練のステップ2】【私にもできる適用のステップ3】にWebへ投稿された指定の業務に関する知識情報を整理(マニュアル化)して、知識労働者を支援すべきで、それは編集者の「仕事に期待する成果」を描き、この成果を標準化したい。マニュアルは常に気づきをもって工夫・カイゼンしていく。
それはどんな知識労働も仕事の専門性に対して、小社の、自分たちよりも編集者の期待する価値を提供できない存在であれば、一般に「知識労働者」は「あらゆる意味で無益な存在」といえる。「知識資本」による適用は生産的たりえない。「知識労働」による価値は生まない。
組織の装置と知識労働者は互いに必要とする。この知識産業社会での「新しい「緊張関係」は知識労働者の工作する知識を活かすための「極上の機会」であり」、自己実現のもっとも近いタイミングをスタッフへ提供(キャスティング)するだろう。知識労働者は知識を生み出し、本局(知識労働者の働く組織の装置)はその知識を生産的(成果・価値)なものにする。知識労働者の所得の増大へつながる。知識労働者にはことばと文脈を、本局はどんな人間か、どんな仕事をするか、どんな成果をあげるかに焦点(キャスティング)を合わせる。昨年8月以降厳しい品質第一でキャスティングしてきた。
パートナーシップをさらに広げていくのも、編集者のパートナーとして、どのようにぼくたちの仕事を広げ、深めていくか。
ここにぼくたちの気づきを仕事に付加したい。ぼくたちの仕事の工夫とカイゼンである。パートナーシップは顧客のために何ができるかを常に考えていかねばならない。真正パートナーシップを創造していく。
ぼくたちは在宅ワークが前提なので、どんなことができるか? 編集者のご相談に対応できるよう努力します。
■ドラッカー先生の正しい考え方を受け入れている。他の研究者の研究成果でも業種に合った研究成果を正しく適用し、正しく発展させ、よりよく経営するための工夫やカイゼンの視点を学ぶ。こうした点で、ドラッカー先生との表現に添う上記は佐藤の文章ですが、著作権上、表現は的確であったかといえばドラッカー先生の表現をなぞっている箇所もある。
たとえば「顧客志向」という、なんだかわからない方便である無意味な表現は単なるスローガンにしか聞こえない。あまりにも宣伝文句に聞こえる。ぼくたちは顧客(編集者)に何ができるか、の立場に立ってドラッカー先生の論理的な分析と表現を正しく受け入れた。協業(コラボレーション)の考え方とは全く異なる。パートナーシップ(協働)の諸々の関係のあり方である。考え方も佐藤と同じだ。ドラッカー先生のことばに忠実でありたいと思った。
いわゆる特許や著作権の取扱いに関して、この不況後は産業や経済へ論理的な知識が企業経営に適用されるようになるだろう。マネジメントはますます重要になる。マネジメントを正しく理解し、論理的で科学的な研究も進むだろう。特許、特許でいいのか。マネジメントの思想や定義にもとづき佐藤はドラッカー先生に忠実でありたいと思っている。
メディアミックス&ソフトノミックス/を正しく発展させたいと願っている。
やましい研究や研究会からは学ぶものは何もない。ここを超えていかねばならない。
大学教育は都合のいいことをやっているのではないか、と感じる。そして考える。「テキスト相互連関性」とは、人間社会の歴史とは何なのか、と。
いまのところ産業社会における技術の、あるいはデザインの広告関連についても一切魅力を感じない。どうでもいいことだ。佐藤が生きていくことにまったく関係はない。ことばのご馳走がおいしい。
本局では創業以来、スタッフに「(仕事を)お願いできますか」と聞く。スタッフも都合が悪ければ、パスする。日常、命令したことは一度もない。けれどテーマによっては、専門性の適材適所で強引な相談をする時もなかったとはいえない。急ぐ時は仕事を持っているスタッフにお願いする場合が多い。
ぼくたちのディクテの日常性というか、そのプロとしての専門性に本局が期待しているのは、著者の深い知識を受け入れる力というか、佐藤はディクテで「ことばをはめる」だけのことだと考えているが、10分20分とディクテの時間を考え込んでむだにしないことでもあるが、ここに仕事の楽しさや難しさがあるが、それを超えていく力をトランスクライバーに求めている。
たとえば佐藤も事業を始めた頃に、「騙され」たが、談話中に唐突に経済の「たいしょうせい」という発話がなされた。「経済の対象性」とディクテされた。佐藤はこの唐突な発話は「経済の対称性」ではないかと、トランスクライバーに尋ねた。このディクテ原稿は昨年12月に納品したものだが、トランスクライバーのプラクティースディクテーション用に、原稿づくりのための練習であるが、ノーベル物理学賞を受賞した小林・益川先生の「対称性の破れ」ではないかと思った。さらりと言われている。こんな談話をただ「はめる」ことが多々ある。
トランスクライビィングの楽しさと難しさは著者の唐突な「発話」にディクテ原稿を平常心でディクテしていくことだが、この仕事の楽しさはここにもある。難しいから楽しいのだ。
編集者がディクテ原稿に不満を持つことは、ディクテ原稿の中身がどのようにディクテされたか、編集者は「評価」できる。しかし、編集者を同音異義語のディクテで「変換ミスその他」に無神経であることは、トランスクライバーの罪なのである。笑って済まされることではない。執筆にあたり迷惑もかける。書籍のクォリティーを高めるためにも、仕事とはスタートから完成まで制作工程が一流のプロがかかわることによって、その品質は保証される。そのトランスクライバーやコンポジショニスト、校正者のプロ性が問われるとは、素人ではないという仕事を最終工程まで編集者は選んでいるだろう。
ぼくたちも素人仕事の同音異義語に「騙されて」――財源の移譲を財源の委譲となっていた。15年前だった。学内の学生か院生がワードプロセッシングのアルバイトをしたのだろう。校正事故を起こしたことがあった。
すでにその書籍が発行されたが、その責任は大きかった。出版社に多大の損害を与えてしまった。その反省の記憶は今後も仕事の難しさに真剣に取り組んでいきたいと思っている。
今回の問題は談話のことばを「はめる」だけだが、知の背景には、うっかりミスの類から、能力の不足まで、これまでスタッフの知性を測定してきた。本局のキャスティングに期待があって、編集者の信頼を得てきたが、大きな意味でいうと、この緊張の関係が優秀なスタッフに支えられてきたことと、スタッフが仕事と真剣に向き合ってきたことだ。そしてそのために本局が成すべきスタッフに対する十全な支援とは何か、それは知識産業社会で求められる知識労働者に対する尊重があって、はじめてそれは成り立つ。
トランスクライバーには「騙されるな」というように表現して気づきを喚起している。
本局で感じることは、他の企業では仕事とは命令することだと思っているのではないか? 企業文化の違いを感じる。ぼくたちの仕事は、命令して成り立つ仕事ではない。監督して成り立つ仕事でもない。
仕事が入って、出ていくが、毎日仕事をしている。そこでやはり蓄積しているのは、カネではない。スタッフがここに気づいて自己実現だと思った時、企業としての事業の生命力はここから溢れでる。
パートナーシップの本質は他にもある。
ドラッカー先生も言うように、提携関係のもとにあるいろいろな関係のあり方とは何か? 顧客は協業(コラボレーション)と思っているようですが、本局はパートナーシップ(協働)の立場に立つ。立場の違いは何を生み出すか? ある一面で経営の姿勢(貢献)でもある。事業承継についてもここを教育しなければならない。ドラッカー先生のパートナーシップに対する視点は、佐藤の考えているわが国企業社会において経営者が適用しにくい側面があるだろう。これは、これこそメディアミックス&ソフトノミックス/の企業戦略といってもいいだろう。ドラッカー先生から生きる力をいただいた。これが上記の■となった。
ひとえに編集者からの「信頼を得る」ことしか、ぼくたちは生きていけない。インデペンデントキャピタル(独立資本)の生き方である。
いかにして長期継続的な関係が生まれるか?
ここで創立30年へ向けて相変わらずの10年を歩いていくが、相変わらずとは自己精神が対象化された気づきがこの中につまっている。成長してきた理由だ。
相変わらずはまた身の丈大、分相応の経営者として経営の形式である「経営の憲法」で正直、率直、誠実、個性を発揮して、インデペンデントキャピタル(独立資本)として経営の道を歩んでいく。パートナーシップのあり方はここからスタートしている。
株価(市場)はどんな経験も確かな共同体の良心(規制など)の教訓になることはできない。過ちを犯し続けるだろう。資本の凶暴を「継ぎはぎ」(規制)クスリで治すことはできない。手術が必要だ。
モーゼの十戒のように「憲法」に従い、新しい道へとスタッフ全員を導いていきたいと願っている。モーゼの時代の歴史から学ぶ。
「100年に一度」と政府は宣伝文句を繰り返している。上場会社の不況といえるかもしれない。円高で株式市場は破綻している。政治にリーダーシップを感じない。未来の国家像が見えない。意地悪じいさんの格差社会の未来しか見えない。人類の未来が見えないノーベル賞経済学は必ず破綻する。批判を受ける。歴史は常に変化して行く。
ドラッカー先生の声を聞いてみよう。わが国政治再生の時だ。
1998年の不況はほとんど赤字経営から黒字経営へと転換期をむかえていた時だった。
いわゆる「下請支払法」が適用されていない業界だった。
だが、二度のリストラの苦悩の経験は変化に対応する弁証法が思考の最善の方法であった。2009年、二度過ちを犯すことはおばかさんだ。
考えと気づき(形のない思想)が生まれ、そして哲学が生まれて、広く知識を学び、理念(理性=教育)が生まれる。人間社会史の常である。
これがないと知識は道具(良心や真理のない物知り)になってしまい、理念(憲法=理性)で万世一系の経営(統合)はできない。一般の意識(バランス)で生きているのは庶民の「価値感」といえるだろう。
みなさんも自己精神を対象化して、相変わらずのただ今を確かな自分の足音を聞きながら意識的に歩き、前へ進んでいこう。いのちの呼吸としてこの今の道を歩く足先を意識しよう。坐禅のように呼吸を意識するときだ。呼吸を整えるときだ。
相変わらずの自分をみつめるときだ。
お客様の「おしかり」を受けて、しっかりと自分たちの役割を自覚し、「持ち場」をまもり前進します。「きびしい警策」をある時は受けて姿勢を正し、期待に応えます。
「100年に一度」の空文句はいらない。
禅の警策(きょうさく)は、「仕付け」であって「躾」ではない。原理・原則・基礎・基本・ルール・手順・順序に従う。今年はここから確認して出発します。原稿づくりにあたってこころの乱れはダメ。自分のこころをみつめよう。ことばの命と向きあう。編集者から「力がはいっていたね」と言われるような仕事をしよう。
政治、経済、流通、文化、文芸、思想、環境と多様な分野だが、著者のテーマの世界に入っていくと――ことばを探して転がしディクテの世界へ自ら求めていくことは一般企業の社員と労働の密度は異なる。
緊張する時間(ディクテの時間)が経過する。囲い込まれた職場の規律から解放されていること、自ら求める著者の世界へ入っていくことは、こころを空っぽにして著者の世界に集中し共有することだ。
職場労働者の休憩と異なったものとしてのプロらしい職業柄の専門性特有の、坐禅でいえば経行(きんひん)――坐禅が長時間にわたって行われる“休憩”の、まだ著者の世界にいて、ディクテに集中している自分を見つめつつ、休憩といえないかもしれない「間」を長めに適度にもちつつ、それは、ことばを探している自分を意識しているが、場面を転換して私のプロ性の自然体を求めてください。
本局は知識労働者の精神の労働衛生を尊重しています。
トランスクリプション(録音再生原稿)、コンポジションスクリプト、校正ゲラのデットライン(納品時間)に直面するかもしれませんが、編集者のご理解をいただくよう心がけます。力の入った原稿であることが、自分を対象化することの精神の「ただ今」なのです。知は常に飛翔している。考えることを考えている。
論理表現形式(本質・形式・機能(働き)・目的)
「形式」とは何か? どう導き出すか?
1960年安保闘争が敗北し、61年全学連の安保闘争を指導した共産主義者同盟(ブンド)に分派闘争が起きた。安保の敗北をめぐる論争であった。同年春、共産主義者同盟「革命の通達」派東大細胞から最終の『革命の通達』が出た。念のため『戦旗』派、『プロレタリア通信』派、『共産主義の旗』派の四派に分裂した。
あれこれの評論は別にして、革命の通達派は最終号で「マティールから出発せよ!」が出た。
佐藤は20歳の学生だった。ここから佐藤の精神の旅が始まった。エルンスト・ブロッホの『希望の原理』といえる。
当時、頭の中には何もなかった。挫折したのである。ただ生きているだけで、銀座に遊びに行っていた。
大学に入学して社会主義学生同盟(社学同・新左翼)に入った。民主主義科学者同盟(民科・日本共産党)の研究サークル(マルクスの資本論を学習していた)から社学同に活動を集中したが、当時から「知識学生としての学生運動」として、運動を位置づけていた。労働者の労働運動には関心がなかった。日本に新左翼が誕生する過程だった。こうした佐藤の思想は、1988年メディアミックス&ソフトノミックス/の未来が知識労働者の概念として思想的に発展していく。そして、その根底にある思想が、いまも佐藤正明を支えている。
ずいぶん小社の組織を真似されたと思う。
娘や息子は、昔でいえば典型的な「ノンポリ」で、ある日ブンドの先輩が「佐藤、オルグもできないやつが、営業できると思うか?」と言われたが、佐藤は笑った。
ノンポリが組織を真似しても、「仏像つくって、魂いれず」だ。ノンポリにとっては「搾取の組織」をつくったのだろう。
知識労働者の組織を武装するとは何が必要か、それは佐藤の精神的旅と同じだ。
思想を学ぶには、親のしつけから、子どもがどのように学校で学習してきたか、家庭と社会と自分がそこにいる。存在の構成要素とは、その人の人生と社会を切り離すことはできない。
マティールとは物質である。物質とは何か、どのような現象をもつのか? この宇宙をどのように把えていくか、佐藤の人生のテーマとなったが、30歳頃には、論理的に形づくる、表現する物質の運動(働き)として本質、形式、機能(働き)、目的 が起承転結からこの論理表現形式を見つけた。当時佐藤は新しい自分づくりも考えていた。
この本質・形式・機能(働き)・目的は、欧米では知識人の知的表現の私有財産である。
表現という形式である。
佐藤も母親から「うちの子供でないみたい。間違えました」と言って家から出て行くのではないかと、母は嘆いた。「平和を求めているのに、なぜ平和な行動がとれないか」と心配していた。佐藤正明も幼く、社会に大きな迷惑をかけた。母は幼いときから、「人様には迷惑をかけないように」と育てられた。しかし今でも国際社会は“テロ”に対して、どちらも「武力」を行使している。わが国政治は国民の鏡となっている。鏡が歪んでいないか。
こうした国際社会はアメリカの政策により歪みが生まれている。
ホームページに訪れて30分以上滞在してくれている人は、1カ月1,750名を超えている。こうした訪問者に対して、生きる道を解放してあげたいと思っています。
いまの政治は50年先の目指すべき国家像も社会も言えず、政権を途中で放り出す無責任さだ。
学園の○○サークルでも、政治的な活動でも、社会サークルでも「終わる」時は、そのメンバーに未来を見つめた宇宙への生きる印を言って解散するなら、それでいい。
しかし、『革命の通達』派東大細胞は「マティールから出発せよ!」と解散を宣言した。
ホームページの訪問者にも佐藤正明はいつか精神の解放について宣言する時があるかもしれない。顔の見えないみなさんに佐藤正明は小さいが責任を果たしたいと考えています。
みなさんがみなさんの人生に何かを記憶に残ることができたら、と思う。
佐藤は弁証法とこの論理表現形式について青春時代の思索のテーマだった。
前回は形式について尻切れとんぼになってしまって、しかし本来は知識の私有財産なんだよ。しかし佐藤正明も歳をとってきた。若いみなさんに、何かを感じ取ってもらいたいと思っている。
形式をどのように立てるか
モノ(物・量)質の形式(種類)
わかりやすくするために形式とは何か、を種類として把えてください。
もとになる原稿はホームページの「放送リポーティングの進め方」の形式のところを参照しながらお考え下さい。形式とは何かの知識を深めて下さい。
巷では「わかりやすく、ていねいに」というのが風潮ですが、佐藤は誰からも教えてもらっていない。みんな教えて(学校)もらうことが好きなようだ。
たとえば
建物の形式(種類)これはおもに形相による種類だが、
冬ストーブの形式(種類)、時計の種類、書籍の種類、新聞の種類、文学の種類(詩、短歌、俳句、小説( )、戯曲、評論……)、絵画の種類
モノの新しい見方を発見せよ。見方・角度によって形式(種類)は異なる。形式を発見し構成していく(理論化する)、形式を生み出す。モノづくりの職人は自分のつくっているモノにどんな種類があるか、よく知っている。いわゆるものづくりの知識と技術(インテリジェンス)という。本質は現象としてのモノについてことばの働きに気づきのヒントをもらい組み立てていく。
機能(働き)はことばからどのようにヒント(気づき)を誘引するか、論理としてのことばがヒントを与えてくれる。見えない理論的なことも、ことばの働きから見えてくるものもある。思考の力だ。
印刷機の種類、トランスクリプション(録音再生原稿)の種類(インタビュー、対談、鼎談、座談会、講演、セミナー等)、政治の種類、社会の種類、企業の種類、その他、モノ(現象)のすべての種類。
モノの本質(内容)には形式(種類)がある。人間の精神活動による現象の認識には「種類」といわず「形式」という。
形式を抽出したらモノの機能(働き)を考える。モノは生み出す目的が必ずある。ある意味で存在するものはすべて正しい(歴史的現在)。
起承転結は美しい日本語になる? 中国大陸からの伝統がかつて美しかった。
各時代の文化、知識の発展――たとえば交易による文化の外からの輸入、知性の時代性、文明の発展、科学技術に囲まれて人間社会史は知の表現としてことばの文化が発展する。
ことばは知性や知識の反映である。そして時代の風やリズムもあるだろう。
ここでは論理的な思考ができれば理論化もできるだろう。
佐藤の学生時代の東大教養主義がなつかしい。まだ論理的思考が残っていた。
いつのまにか、「あのね、こうしてね、こうなったの」という感想文(起承転結)が大衆文化となった。ビジネスと両立するためには難しい問題を抱えている。
P.F.ドラッカー先生の『未来への決断』(ダイヤモンド社刊 1995年9月7日初版発行)を、この論理表現形式の使い方を参考例とします。どのように使ったら効果的か。
ベストとはいえないが、入門にして、一般的な使い方を模倣し、工夫して自分らしくを出していく。論理表現形式は「入れ物」である。何を入れるかは、あなたの自由だ。
忘れないうちに言っておきますが、小社円相の円相マークは宇宙を表現している。一筆で宇宙を表現すると禅の円相となる。
わが国「円相の歴史」の起源は曹洞禅宗・禅僧によって書かれた『牛飼ひ草』といわれ、佐藤はビデオを制作した。臨済宗の「お寺」に江戸時代からの禅僧の円相、沢庵和尚や小林一茶など含めて拝見した。一茶は円相の左に、「これ食うて茶のむさい」と記されていた。感動したことを覚えている。
時間が経ってこのことばの意味を味わった。「これ」は一茶の円相――宇宙である。「食うて」は「空うて」茶のむさい、とよんだ。宇宙である円相を食うて茶のむさい、とよみ、禅の「空」が人々の日常性をあらわしたかったのだろう、と理解した。一茶の円相のご馳走をいただいた。しかも日本人の生活習慣におりてきて、さらりと一筆した。現代日本人の日常性に空(くう)をあなたは見るか。
禅(ZEN)の平常心に高い知の「空っぽ」を見た。西欧における「無」とは違う。西欧の思想性は現象として存在を認識する。存在の消失をみる。だが禅の空っぽではなく、そこに矛盾が残っている。禅は宇宙のように果てしなく大きく存在の「ただ今」を意識するが、宇宙であるこの世界の人生とは空っぽの円相がそこにある。
NHKアーカイブス――NHK教育テレビ「宗教の時間」日曜日朝6時半放送の「牛飼ひ草」を観てビデオをつくった。佐藤の母の父は、曹洞宗禅寺の住職だったが、佐藤のこころの中では祖父に贈った。
円相は秘蔵されている。静かにしておいてください。
日本人としてこころは一つである。
この論理表現形式は西欧文明の「知」の創出の表現形式である。
書棚でこの書籍を探したがなかったので、1月7日夕方、ダイヤモンド社様の編集部へ在庫を尋ねた。いつもお世話になっている編集者が電話口に出ていただき、倉庫に書籍の在庫が1冊だけあることを確認しました。そして、手元に到着したのは1月9日でした。
お礼のメールをしました。
いつもお世話になっている編集者でしたので、とても書きにくい側面もあるのですが、ホームページの訪問者に佐藤の思いを一般的にお伝えしたいだけで、何かの参考になればと思うだけです。
60年安保の学生運動は佐藤にとって知と身体の合一による知の燃焼でもあった。
松下幸之助先生の哲学は家庭と学校で学んだ少年期の基本的な人格形成と同じものを感じる。会社の設立をもって、この思いは新しい精神的旅でもあった。
ドラッカー先生を知ることにより新しい知への探求と感激を覚えた。
松下幸之助先生の哲学を土台に、ドラッカー先生の知を「接ぎ木」した。それは株式会社メディアミックス&ソフトノミックス/の建設だった。
1988年は株式会社としての存在を選択した。
佐藤がもし青年だったら、ドラッカー先生を訪ねたいと思った。やっと知の師匠をみつけた。ドラッカー先生のすべてを学びたいと思った。そして、生きていこうと思った。
生きる力をドラッカー先生に求め、そして知への好奇心をかきたててくれた。
8年間におよぶ病気と9年間のサラリーマン生活は社長から「浦島太郎のようだ」と言われ、企業社会を基礎から学んだ。新しい世界でもあった。
メディアミックス&ソフトノミックス/を設立したのは、佐藤47歳の時である。
「適当には生きていけない」のが佐藤の性格で、会社の設立で佐藤は、佐藤自身に真剣に向き合った。会社の設立とは生きていく力の建設でもあった。
わが国経済は情報化社会へ向かおうとしていた。
ひとこと余計なことを言うが、真剣に金儲けの哲学を学ぶよりも佐藤本来のどう生きていくか、どう佐藤自身と知を結びつけた仕事を自分のものに獲得するか、新しい佐藤正明の建設だった。それは報酬とは仕事に対する結果であって、知と労働を結びつけた新しい組織の実現だったのである。ここから生きていく力が生まれるか、時代は新しい時代の幕開けの時期で、どうやって生きていくか、当時、産業としての集積はマスコミ出版業界だった。悩みや不安がなかったとはいえない。
貧乏人の佐藤が出発するにはSOHOの形式しかなかった。起業する人が誤解しているのはSOHOでは銀行に信用がつくれないと思い込んでいる人もいるが、一般的にいうなら、信念というか、しっかりやっていこう、それはけして儲けることに比重を移す考えではなく、信用される生き方だと思った。それはどこから生まれてくるか、それは家庭と真面目な勉強と、やはり信用されない人格では独立はムリだと思う。
企業社会というか、出版業界を佐藤は知らなかった。マスコミ出版業界をだいたい知ることができるまで20年かかった。
P.F.ドラッカー先生『未来への決断』(ダイヤモンド社刊 1995年)
(本質規定)
I部・マネジメント(77頁)
6章 ネットワーク社会におけるマネジメント(ダブリの原稿が一部ある)
(本質と機能(働き)の両側面がある。どうするか? ドラッカー先生の問題提起の視点もある。そうした意味で、本質規定といえるし、機能(働き)規定ともいえる)
組織社会の方向転換(本質規定)
外部委託
提携関係の増大
組織と雇用の構造変化
II部・情報型組織
7章 組織社会の到来(89頁)
数百年の一度の大転換
創造的破壊
変化のためのマネジメント(機能(働き)規定)
もう一つの破壊的側面 (機能(働き)規定)
組織の社会的責任
「組織」の出現
知識労働者と組織の関係
監督されえない存在
*****************************(形式規定)
チームによる組織
あらゆる組織の手本
前例のない組織社会
新しい組織の誕生
8章 チームの三つの類型
チームに対する過信
三つのチーム
野球型チーム
サッカー型チーム
テニスのダブルス型のチーム
*******************************(目的規定)
チームを選ぶ意思決定
これら三つの型のチームは、いずれも真のチームである。しかしそれらは、行動様式の点で、あるいは、何を最もうまく行なうことができるか、何を行なうことができないかという強みや弱みの点で互いに大きく異なる。
これら三つのチームの型を併用することはできない。個々のチームには一つの型しかありえない。しかも、ある型のチームへの転換はきわめて難しい。徐々に転換することはできない。いかに忘れがたいものであっても、過去は完全に断ち切るしかない。以前の上司と新しいリーダーの双方に仕えることはできない。そして、報酬、給与、評価、昇進は、新しいチームでの業績によって決められる。
フォードでは、経理を担当する人間は、新しい設計チームではなく経理部門の下にとどめ置かれた。GMのサターン事業部は、従来の幹部たち、すなわち第一線の監督や職長の権威を温存しようとして新しいチームに意志決定権を移さなかった。しかしこれでは、同じ人間に同じフィールドでテニスのダブルスの試合と野球を同時に行わせるようなものだった。結果は、フラストレーションを起こしただけで成果は何も生まれなかった。プロクター&ギャンブルでも同じ混乱があった。
チームとは、道具である。これまで述べてきたように、それぞれの型のチームには、それぞれ独自の用途、特徴、条件、限界がある。チームワークは「善」でもなく、「期待すべきもの」でもない。単なる「事実」である。ともに働くとき、あるいはともにプレーするとき、人間は常にチームで行なう。
いかなる目的のためにいかなる型のチームを使うかは、困難で危険をともなうきわめて重要な意思決定である。しかもその意志決定は、行なわずにすますわけにはいかない。マネジメントたる者は、この意思決定をいかに行なうかを学ばなければならない。
ドラッカー先生の論文を集めて、構成(編集)されたと思います。編集もたいへんですが、編集技術のひとつかも知れませんが、この論理表現形式では本質、形式、機能、目的に、順に整理すると論理的に理解しやすくなります。英文を日本語へ翻訳するにあたり、この問題(表現方法)を翻訳者も抱えた英文があったと思います。
ドラッカー先生は概ねこの論理表現形式を使っている。
佐藤が今回のこの例文で一般に効果的であると思ったのは、同書116頁8章最後から7行目、
「チームとは、道具である。これまで述べてきたように、それぞれの型のチームには、それぞれ独自の用途、特徴、条件、限界がある。チームワークは「善」でもなく、「期待すべきもの」でもない。単なる「事実」である。ともに働くとき、あるいはともにプレーするとき、人間は常にチームで行なう。
いかなる目的のためにいかなる型のチームを使うかは、困難で危険をともなうきわめて重要な意思決定である。しかもその意志決定は、行なわずにすますわけにはいかない。マネジメントたる者は、この意思決定をいかに行なうかを学ばなければならない。」
ここでドラッカー先生は、もう一度論理的に「まとめ(総括)」ている。
「チームとは道具である」形式は内容(本質)である。道具とは内容である。形式である。チームの働き(機能)は、「それぞれ独自の用途、特徴、限界がある」いかなる目的(目的規定)のためにいかなる型のチームを使うかは(形式=種類)……重要な意思決定である」
先生の文章を解体して自分の論理的な表現技術をなぞることから学んでいく。
「生き方」になるが、自己精神が自分の仕事と離れていては、おじさん、おばさんになる。自己精神が仕事と結びついていれば「一致」できる。生涯の仕事となる。松下幸之助先生やドラッカー先生を学ぶ。
本質規定の基本的領域の基本(現象とは何か)を学ぶ。西欧の哲学はここを超えていく。しかし、普通に考えて、今の自分の仕事に適用していく。まず学ぶこと。次にやってみること、自分にもできると自信を持つこと。このように形式規定についても同じ。機能(働き)の可能性(気づき)について想像すること。目的とは実物の存在理由だ。生命活動と知的労働を結びつけて自分を創造していく。社会的に生き、社会的に共有する自己精神の生命活動といえる。自分のこころと一致する美しさだ。現象を目的として人々の精神的活動を解放する。
技術への過信やアイディア、特に日本人性特有の思想は、中身がないというか「奇を衒う」というか、唐突の「真珠湾攻撃」的発想というか、理性的、論理的でない。
インターナショナルな製品にもなりにくい。
かつてわが国高度成長期は「たまげたもの」をつくった。まだ戦前をひきずった土着の思想だったのである。アイディアが悪いと言っているのではない。モノが論理にもとづいたもの、男と女の身体的機能(物象化)が延長思想としてあるものが存在の可能性を秘めている。世界のどの民族にも理解される。辺境の思想から卒業しよう。
放送番組の構成においても、現象を理解するにあたってこの論理表現形式が有効だ。
これからアジアやヨーロッパへとコンテンツが輸出されるだろう。
日本人はもうひとつのヨーロッパの知性を自分のものとして世界へとはばたいていかねばならない。
21世紀に生きる新しい若い世代への期待
伝統文学思想と新しい文学(文芸)への案内――禅と西欧文明の対話
同じことをいうことになるが、禅の思想を考えてみると、それは中世日本人以来の思想性だと感じるが、多くの日本人は自己精神に現実がベタついている。
論理的な思考をする前提とは何か? 論理的な思考ができない原因はどこにあるのか?
キリスト教は洗礼を受けて聖書の世界へ入り生きていく。
ここで佐藤のテーマは多くの日本人は自分の精神を「対象化」する習慣がない。
佐藤は戦後、義務教育を真新しい教科書で小学校一年生を迎えた。戦後学校の義務教育を受けてきた。民主主義と自由についても自己の中で理解しようとしてきた。
佐藤より上の世代は戦前の軍国主義教育で、たぶん戦後教科書は黒墨を入れて教育された世代だ、と思う。
かつて現実を否定し、現実的に生きていこうと思ったのは、目指すべき自分の生き方と現実との「境界」を意識しながら生きてきた。今でもこの境界に生きている自分を感じる。自己精神とビジネスの境界なのである。禅の修行僧も現実社会から離れた大本山永平寺で修行する。道元禅師は現実社会をどう把えたか?
古代の人は古事記や万葉集も仏教思想になっても現実に生きるには「あるがまま」に生きてきた。
自己精神を対象化するとは戦後わが国義務教育の中で「学ぶ」ということは、どういうことなのか、をとおして佐藤は生きてきた。
自然科学であれ、社会科学であれ、教科書の理念を、理論を学ぶことと自分の生き方を結びつけるには自己を対象化することをとおして、それが戦後民主主義の思想の根幹がキリスト教の文明であったことも、日本人性といえる「あるがまま」のこころでは、真に理解することはできない。方便になるだろう。建前と本音をもつ世代が佐藤よりも先輩の時代だったと思う。その親のそのまた親の家庭で、家庭教育は一般的に100年は遺伝する。
わが国文学史は「あるがまま」の日本人の思想であるといえるだろう。
一方、社会科学や自然科学の技術の発展は、戦後西欧からの技術導入によって論理的な思想が輸入されるようになった。
論理的な思想と「あるがまま」の事実を封印して日本人は戦後生きてきた。
こんにち自己精神を対象化する、という意味が真に学習されていないという現実をそのままにしてきた。
佐藤の青春時代は戦後というこうした戦後思想の、たとえば翻訳書とわが国文学思想との衝突の中で佐藤は生きてきた戦後義務教育を受けた最初の世代だと思う。
自己精神の対象化とは、「あるがまま」のことではない。キリスト教において両親から生まれてキリスト教の洗礼を受けることは聖書の、それは戦後わが国における義務教育の「テキスト」と言っていいが、義務教育で教師から学ぶ日本国民の基礎的な知識だと思うが、キリスト教における洗礼は聖書という人間として理性ある現実生活を求めるものだと思う。
禅とキリスト教は多くの共通点がある。
けして「あるがままの生まれたまんま」ではない。建前と本音(バランス)がないと生きていけないか? 優しいことばが欲しいか? これが日本人の論理的思考の欠落を生む。
日本人が国際社会をリードできないのは、方便の生き方にある。
明治維新の青春群像はこの国をどこへ導くべきか、それがあった。
それは日本人が理解できる範囲内での国家理念であっただろう。
安全保障理事国、アジアのリーダーとしても辺境の思想ではリーダーたる資格はない。
あるべき国家理念の構想もキャピタリストが資本の論理で、わが国未来の姿を構想してもそこに世界に誇れる民族の理念が欠落してエコノミックアニマルとしてはそれでいいのかもしれないが、政治の常道を失った政治は世界の人々からはけして尊敬されないだろう。
カネをバラまくことしか期待されなく、わが国民は三等国民にされてしまう。
グローバルな世界で生きていくには、世界の指導国と共に生きていきたいと思うなら、理念ある政治を目指すべきだし、国民も「あるがまま」でいいとはいえない。
辺境の文学もいいだろう。
わが国義務教育はどうあるべきか、国の指導者が国民の鏡となって政治に向かうにはどうすればいいのか、政治改革は政治家として資質が問われる深い改革であると思う。
政府教育改革の理念すらできていない。未来をどう建設し、どう国民を導くのか、その理念が失われている。義務教育の教員採用に教育者として人格を問わないのは不幸の始まりなのである。教育は人格分裂(建前と本音)を起こすだろう。
わが国伝統思想は固有の文化ではあるが、それが未来の文化であるとはいえない。未来の日本人はそれに気づくだろうか。多様な文化が生まれ、固有な文化として発展するのもいい。レオン・トロツキーの『文学と革命』は革命を理念として読め。文学批評はどうあるべきか? 人間として生きていく、とはどういうことか? グローバルな社会で多様な「形」がある。文学において山へ登ることは多様な入口がある。自分のこころの頂上は一つだ。これは個人的なことだが、自分で解決する部類のひとつだが、だが文学固有の特性は何人も生きる力(ことば)を探すことだ。佐藤は生きる苦悩を学ぶが、他人の自己満足のたのしみはいらない。現実に生きるたのしみの精神的な旅が好きだ。人生は生きる(生活)の芸術だ。生きる「瞬間の絵画の額縁」を意識し、好きなリズムを意識する。人生の芸術感はオーダーメイドの現実の生活だ。印象派が描いた現代の自分を大げさに意識している。ところで文学って何? 生きていることがたのしいのだ。
イノベーションと新しい国家理念を再構築すべきときだ。
地方政府も疲弊している。道州制以前の問題も山積している。この国を変えていかねばならない。
新しい日本の文化はこの気づきの中で統合されねばならない。
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