時代は変化していく。前回「仕事場の声」に投稿してから3カ月が経ち、前回投稿したのは、
仕事のこころを育む、仕事の原理と知識の性格の変化に直面する
――P.F.ドラッカー先生『テクノロジストの条件』(ダイヤモンド社刊)から
で、思考する意味でいままでとは異なる視点が必要かもしれない。
大学四年生の息子は、9月から就活に入る。今年4月から体験研修を終え、卒研に入った。卒研の執筆に、最近では朝4時までかかって、歯医者へ連れていくにも朝8時過ぎの待ち合わせもドタキャンされ、まぁ頑張っているのだろう。二回目の約束で会うことができた。ロマンスカーの中で卒研の書き方について感じたことを、息子であるがゆえに息子に分かりやすく話した。
だいたい以下のような話である。
作業療法学はまだ歴史が浅い。試行錯誤して今日があるだろう。
まず、現実的・歴史的本質は試行錯誤の事実の事例から始まった。作業療法の現場の集積から共通の課題として、筋肉の働きが中心だが、その理論的集積が始まったと思う。
大学で事例を話され、理論的集積である「教科書」(作業療法学テキスト)の学習を教授から受けたと思う。息子から聞いたが腰から上が作業療法学の分野で、腰から下が理学療法学の分野だという。
人間社会と人間社会史を学ぶには、「人間とは何か」を学ぶ。資本の論理を学んでも人間とは何かの全体像を学ぶことはできない。人間社会史は人間の身体と精神の有限的認識と精神の無限について、人間社会史がどんな姿が望ましいか? 資本の自己運動が人間とは何か、に答えているかというと、人間とスポーツ観戦の関係のようなもので、人間自体ではない。社会と人間の断絶(格差)を固定的なものとして容認するか、否か、何人も人間の尊重を通した個々人の行為として、そこには法律の存在もあるだろう。そればかりか、食の安全や職の安全、社会の安全など、生活インフラの安全が保全されて、少なくとも21世紀は人間が築いた豊かな文明を享受できて、芸術や文化も享受できて、当たり前といえるだろう。
ここでは人間の身体に焦点をしぼる。今回テーマである問題解決(ソリューションsolution a way of solving a problem or dealing with a difficult situation)
念のため、
solveとは、to find a way of dealing with a difficult situation
dealingとは、business activities the relation that you have with sb in business
病院で病気を治してもらう。
息子に事例から始まり(現実的・歴史的本質)、事例の集積(理論的本質)をとおして他の患者に適用し、それは作業療法学の有用性(実践的本質)となる。
疾患を治すのにイデオロギーはいらない。ただ病理に向き合うことだ。病理とは社会病理であり、身体の病理でもある。
平成22年8月下旬頃、日刊工業新聞の記事を記憶している。ものづくりの会社で「ハードウェア;ソフトウェア;ハードウェア」(正・反・合といいたいのだろう)の思考でものづくりをするという。ハードウェアは道具としての実像である。ソフトウェアは理論的な虚像(鏡)であり、新ハードウェアをつくっていきたいのだろう。
ソフトウェア(利用技術)の多様な展開は今後の方向になるだろう。
顧客は想定された理論的な機器の機能(働き)に、たとえば炊飯器の単独目的と異なった新しい使い方、電子レンジを使った料理の幅を広げる楽しい使い方、こうしたハードウェアの思いもよらない使い方を顧客は開発していく。物としての道具は思いもよらない使い方を開発する。ここにはそのものの独自の進化の完成系を求める。これを仮に西欧哲学の伝統をスタンダードな設計理論とすると、奇を衒うアイディアという思いつきだけでは完成された設計理論にならない。インターナショナルな道具になるか、ならないか。佐藤はよくたまげたものと言うが、いつの時代にもアイディアが忍び込んだ。設計の基礎理論には正統な理論に基づいていなければならない。ここでは課題と問題の相違がある。
課題解決を超えなければならない。問題の設定は予期せぬ事柄に対する働きに対応できるかどうか、経済システムも含めて、広い意味で社会に対応できるかどうかである。
機械を買って課題解決したとしても、ものづくりは経済のソフト化、サービス化に遅れをとってしまう。なぜなら価値を生み出し続けることができないからだ。お役に立っていけないからだ。
わが国経済は新興国仕様という目先の儲けることだけでは、本物のものづくりの壁にぶちあたる。
IBMが各種業界のビジネスインテリジェンス構築へ向けてウェブによる分析の方法論を設計、製品化したが、これは弁証法を適用した。普通の考え方でスタンダードな理論であるが、いかようにも独自の働きによる目的を抽出することができる。こういう意味でインターナショナルなのである。
人間の五感の物象化をツィッター(思いつき)で集積していく。鏡とは神道において鏡であり、自己精神の鏡である。鏡とは、完全なる神である。弁証法においては統合せねばならない。統合とは目的をもった分裂を予感する。こうして部分が配置されていく。
機械を買って問題解決(ソリューション)をしたとはいえない。人間の本性に根ざした技術は時代を超えていく。
課題と問題の相違がここにある。
経済システムの「最悪にして最善とは」バランスによって許されるものではない。いろんな意見もあるだろう。ICTではリスク管理が、様々な企業のリスク管理がいわれているが、経済恐慌はこれらリスク管理の「外」にあるのか? だからどうするのか? ソリューションできないのか? 経済システムは自生力を失って延命している。生身の人間の理性が管理の外にある現実を制御する。
人間は人間の生み出した社会悪にただ呆然としているのか?
唯一、問題解決できないものとして、この経済恐慌があるのか? だからどうでなければならないのか? 資本の論理を阻害するものとして、こうしたリスク管理を拒絶している。これは人間の犯罪ではないのか?
しかし、多様な立場からコンセプトの未来は語られる。ただ佐藤は極めて抑制的に思慮深く「当たり前で相変わらず」を行動の指針にした。
いまは神なき(野蛮な)世界なのか? ドラッカー先生は直接に言及することはなかった。
今後のトランスクライビィングにおいても問題解決へ向けた内容のものが多くなるだろう。医療や医療経済、日本経済新聞「経済教室」において先行したアジェンダ(議題)となっている。歴史的現在はこのアジェンダを構成するものとして課題解決と、一方問題解決、社会問題の解決がある。資本の論理では社会問題は解決できない。
身体の疾患に病院では診療科がある。そういう意味で佐藤の生きる道はこの病院の診療科を新たに生み出していくことが、ビジネスの種であり、それを育てていく楽しみを持つ。
佐藤にとって大学一年生はドグマからの解放であった。どうやって過去であった現実から脱出し、だから自己の体系として「生み出し」、ソリューションは新たな知の創出による自己の世界の獲得でもあった。
ホームページ訪問者へ言いたいことは、仕事ができるとは、ひとつの工程の、全体を見渡したソリューション(問題解決)なのである。流れ作業の中からソリューションの仕事の思想は生まれないという未来の予感だ。未来の仕事の技術はこうしたソリューションの知識を物質化する知識と技術だと言いたい。4時間働いてなんぼ、というふうにはならない。早く気づくことだ。自分の力で新しい仕事を獲得してほしい。今までの仕事感で「わたしできる」と思ったら、おちこぼれになる。自己紹介のカードづくりから、腰をすえた仕事観が求められる。一歩前へ、求道的労働観だ。「当たり前で相変わらず」は大競争の中にある。野性のらんらんと光る目玉と自分の仕事を守る沈黙の中で抑制的で思慮深い知識労働者を求める。これが「当たり前で相変わらず」のこころなのである。
スタッフから夏休みが終わって、以下のメールが届いた。
子どもたちと一緒の夏休みは楽しいひとときを過ごしたことだろう。
中学生ともなると家庭という巣から飛び出す羽ばたきの練習を始める。両親の同化模倣をとおして大人になっていく準備が始まる。
ある人格は14歳で大人になるが、普通、子どもたちは成人する頃になるとアイデンティティの自己の模索が始まる。自分の人生という道を歩むために不安が行き交う。両親を信頼して同意、不安、反抗など情緒不安定になる。自然な子どもの姿だ。親として子どもが一人で悩み、考える大人になっていく訓練も始まる。両親の愛を一身に受けたいと、親にあまえる。両親にとって素直なこころに育って、子が成長していく姿を見る。
いつも学校から帰ってきたら「おかえりなさい」と言いたい。思春期には親の愛と子の求めるあまえに十分すぎるほどのコミュニケーションが必要だ。
スタッフからこのメールがきて、いつもの平穏な夏休みが終わり、家庭の愛のぬくもりを感じた。
しかし、職場に囲い込まれると子どもとのコミュニケーションも十分にとれない。多感な子どもの思春期は子が自分の未来を必死に探している時だ。就業時間が固定され、両親とも職場に囲い込まれているとすれば、それは子どもにとってけして望ましいことではない。
ぼくたちは自分で労働時間を決定することができる。納期を厳守すれば自由な意思決定力で、自己権力をもって生活と労働の裁量をしながら毎日生活(労働)している。
家庭生活と労働の融合こそ、女性にはやさしい働くシステムといえる。外からの影響によるストレスもなく、夫のように身の背後にドスが光っていることもない。陰謀もない。
平和な日々なのである。これを守っていくことが当社の仕事だと思っている。
夜、家族が就寝してもPCに向かって仕事をしている。そんな人もいるだろう。自己権力を持つということはこういうことだ。毎日仕事をしている。それは自己のマネジメント――務め、責任、実践という明日を仕度していく生き方なのである。人生という道だ。
ご無沙汰しております。
おかげさまで、今日3人を元気に学校に送り出すことができました。
私の手のやけども、少し跡が残ってるだけできれいに治りました。
長いお休みをいただき、ありがとうございました。
夏休み、子どもたちとずっと一緒に過ごし、暑い中怒ってばかりでしたが、
発見や改めて感じたことなどいろいろありました。
我が家の子どもたちは3人とも年齢より幼いタイプで親にべったりなのですが、
とくに中学生になった長女は、外では穏やかでお友達とも仲良くやっているのに
家では非常に情緒不安定になることが多く、スクールカウンセラーの先生にも
ここ数年ずっと相談にのっていただいている状態です。
一般的に、これくらいの年になったら親からだんだん離れていくと思うのですが、
長女は下のふたりと同じくらい、もしかしたら下のふたり以上に私を常に求めてい
て、
いろんな意味で非常に手がかかり、神経も使います。
もう中学生になったのに……と思ってしまうときもありますが、やはり求められてい
るうちは
できるだけそれに応えてやりたい、話を聞いて、と言われたときに話を聞いてやりた
いし、
少しでも安定した気持ちで日々を過ごせるようになってほしい、と強く感じました。
こういう形で子どもに関われるのも、中学生の今が最後のチャンスなのかな、とも思
いました。
親を強く求めてくる今の時期は、子どもたちが家にいる夜や休日はできるだけ子ども
たちと
いてやりたい、と考えています。
非常に勝手なことを言っているのはわかっておりますが、子どもたちが大きくなって
から
後悔しないよう(すでに今の時点でも後悔してることは多々ありますが)、精一杯
子どもたちに向き合っていきたいと思っています。
今しばらく、子どもたち最優先での生活になってしまうこと、どうかお許しくださ
い。
本当にわがままばかりで申し訳ありませんが、こんなスローペースでもお仕事は続け
ていきたいと
思っておりますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
男親にも子育ての権利があるはずだ。しかし、その権利を行使できない人もいるだろう。
でも、多くの女性であるスタッフも常に自然体でありたい。自分の裁量ですべてを支配する。職場に囲い込まれることは、別世界なんだよ。毎日快適な生活であるように!
日刊工業新聞 平成22年8月12日
地球規模の課題解決へ
総合工学
工学の知を統合 学者が提言
「社会のための科学」重視
専門知識と広い視野持つ人材を
工学の全分野を横断的に結びつける「総合工学」という新しい学問領域が定着しつつある。5年前に“学者の国会”と呼ばれる日本学術会議に総合工学委員会が置かれ、社会へ提言してきたためだ。地球規模の課題解決に向け、工学分野で知の統合が叫ばれたと同時に、科学者に社会貢献の意義が深く根づいたことが背景にある。新しい工学である総合工学の概要を紹介しよう。(藤木信穂)
重点8分野カバー
内閣府に置く日本学術会議は文科系も含め、日本の84万人の研究者集団を代表する組織だ。同じく内閣府に属する総合科学技術会議とは、「車の両輪」の関係にある。複雑化が進む科学・技術の課題に取り組むため、2005年10月に発足した第20期から総合工学委員会が設置された。「社会のための科学」という視点を強調した、学術会議の大改革といえる。
総合工学委員会は既に、学術会議で最大規模の委員会だ。対応する分野は、工学の基礎から応用物理、宇宙航空、海洋船舶、計算科学、資源・エネルギーに加え、リスク学や経営工学にまで及ぶ。工学全般の課題は無論のこと、科学・技術全体の問題も扱う。例えば、科学研究費の区分である「総合工学」分科よりも範囲は広く、第3期科学技術基本計画に照らせば、重点8分野をほぼカバーしている。
科学的根拠与える
学術会議は7月中旬、第1回シンポジウム「総合工学とは何か」を開いた。総合工学委員会委員長の矢川元基東洋大学教授は「総合工学は言葉としては浸透しつつあるが、使い方は千差万別だ」とし、総合工学の概念に最も近い、設計工学の草分けである吉川弘之科学技術振興機構(JST)研究開発戦略センター長が、「『現代の問題群を解決するために必要な行動に科学的根拠を与える知識』を総合工学とする」と定義づけた。
Σ型の人材育成
総合工学の普及をにらみ、吉川センター長は「基礎研究は日本学術振興会、応用研究はJST、開発研究は新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)と分散している研究費配分機関(ファンディング・エージェンシー)を集約すべきだ」と話し、井上孝太郎JST上席フェローも「国の財政支出の仕組み(ファンディング・システム)を改革し、課題解決型の研究をもっと増やせないか」と提案する。
広い視野を持った人材の育成も総合工学の狙いにある。柘植綾夫芝浦工業大学学長は「イノベーションの創成には、縦と横の統合で社会経済的な価値を創造するΣ(シグマ)型の人材が欠かせない。深い専門能力と全体を俯瞰(ふかん)する力を持ち、さらに共創できる人材を育てるべきだ」と言う。副委員長を務める小舘香椎子日本女子大学名誉教授は、若手や女性研究者にも総合工学の活動を広げるほか、女子大に日本初の工学部を設置する構想などを描いている。
基礎学問習得が先
世界的にも、99年に国際科学会議(ICSU)と国連教育科学文化機関(ユネスコ)の共催で世界科学会議が開かれ、「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言(ブダペスト宣言)」のなかで、社会のための科学の重要性がうたわれた。地球温暖化など社会に及ぼす問題の解決に、総合工学が果たすべき役割は大きい。
初代委員長を務めた後藤俊夫中部大学副学長は「総合工学は工学の知を統合する中心的な分野だが、決して固定化されたものではない。包含する分野や境界を柔軟に変え、時代が求める課題を取り上げていくことが望ましい」と考える。
ただ、言うまでもなく、統合的な知識だけを獲得すればよいということではない。総合工学の研究が最も進む東京大学でさえ、北森武彦工学部長は「まず工学の基礎学問を習得するのが先で、学生が研究するとしても早くて修士課程の終わりからだ。大学は本来、専門を深める場所である」と念を押す。もっとも、総合工学の普及で工学がまとまり、生物学や医学、社会科学などとの融合が進めば、社会のための科学により実践力が伴うことになるだろう。
総合工学とは
認識科学←理学――あるものの探求
↓ ↑
知的・好奇心
総合工学←学術
価値・目的
↑ ↓
設計工学←工学――あるべきものの探求
エンジニアの技能仕込む
中高生に工学教育
博士も見直し必要
日本学術会議総合工学委員会委員長(東洋大学教授) 矢川元基氏に聞く
―総合工学が生まれたきっかけは何ですか。
「世界中の工学教育の現場で、過去半世紀の間に積み重なってきた反省がある。コンピューターの黎明(れいめい)期から、米国を起点にして、実践的な設計技術よりも、解析技術の方が格上だと暗黙のうちに認めてきた実情がある。しかし、解析だけでは最適化による設計が肝要のエンジニアの技能は身につかず、現場でモノづくりができない。この反省に基づいて、設計学を礎とする総合工学の概念が米国で生まれた」
―今、なぜ総合工学が重要なのですか。
「人材育成を見直す意味合いが大きい。昔の工学部は土木や鉱山、機械、電機などと区分けが大きく、産業と直結する人材を社会に送り込めた。だが現在は工学が細分化し、世の中のニーズも多様化している。それにもかかわらず、日本の博士課程教育は専門分野に閉じた人材しか育ててこなかった。総合工学では専門知識を持ちつつ、他分野とかかわることができる、インターフェース(結合力)を持った人材を育てる目標だ」
―総合工学を取り巻く課題はありますか。
「学術論文だけで評価しがちな今の大学に、総合工学的人材の育成を目指す新たな評価基盤を作らねばならない。また、中学生や高校生にも、世の中に役立つモノをつくる『あるべきものの探求(工学)』を教えるべきではないか。物質などを探る『あるものの探求(理学)』一辺倒の現在の教育はいびつだ。日本のモノづくりの未来がかかっている。その工学の中で最も工学らしい概念が、『総合工学』であると言えるだろう」
ソリューションということばがある。ふつう問題解決と理解されている。
1980年代、佐藤のサラリーマン時代に杉並区に事務所を構えていた営業コンサルタント、お名前は忘れたが、はじめて「問題解決営業」ということばを使った営業研修をされていた。この時代の問題解決とは、どのように佐藤が理解したかというと、たとえば本局にある47インチ液晶大画面TVに現在コンピュータが接続されているが、このコンピュータを取り外してiPadに取り替えたいと思っている。はたして接続用端子がどうなっているのかもよく分からないが、応募者の面接用の会社案内と事業案内、社内諸規定などを、これまでの応募者に提供、発送していた文書を主にページめくりして、これまで応募者の面接は一人2時間程度の面接時間であったが、できるだけ面接時間を短縮したいと思っている。
社外の営業マンにこの悩みの問題解決をどのように話すか、営業マンはテレビ端子とiPad端子を確認して、そのテレビとiPadをつなぐ結線をつくってほしい。このコンテンツのページはある程度編集されていなければならない。それは自前でするとして、この悩みの問題解決を相談したいという課題をもつ。この程度の問題解決営業と理解していた。
当時のビジネスはハードとソフトの単純な関係であった。
佐藤が気づいた時には、「ソリューション」ということばであった。それは情報化社会の進展と深く結びついていた。プロポーザル営業ということばもあった。
いったいソリューションとはどういう用語の概念内容をもっているのか? 今回のテーマはこのソリューション(問題、課題解決)という枠組みを知ってもらいたいと思った。
企業では課題解決、政府は社会問題の解決でならなければならないと、それはドラッカー先生のいうように、コンセプト(concept)概念、考え、広告では新着想、既成観念を破る考え方、コンセプションにも由来する。資本の論理によって社会諸階層の断絶(格差)を社会的な課題の解決として、はたしてできるのであろうか? 資本の論理から発生した社会緒階層の社会的断絶(格差)問題は資本の論理によっては解決できえないと考えている。資本の論理を社会政策と新成長戦略に結びつけたのが菅首相である。
しかし、佐藤は、「人間に対する愛」の好意をもった立場から距離感をもってみている。
ここでもソリューションとは大きなことばの広がりをもったことばではあるが、ことばの本質的概念はコンセプトに由来する。はたしてそのようなコンセンサスがあるのか?
平成22年8月26日 日刊工業新聞
日本学術会議 首相に勧告 基礎の重要性指摘 「科学技術」→「科学・技術」
日本学術会議は25日、基礎科学の重要性を再認識するよう求める勧告をまとめ菅直人首相に提出した。科学技術基本法の見直しなどを求める内容。勧告は同会議が行う意思表明で最も重いもので5年ぶり。成果を重視する政策の方向に待ったをかけた格好だ。
勧告では同法の「科学技術」の用語を「科学・技術」と見直すことを求めている。技術が重視されるという「科学技術」という文言を改めて、科学と技術の区分を明らかにしたい考え。
また同法の「人文科学のみに係わるものを除く」という規定を削除し、同分野も施策の対象とすることを明示することも盛り込んだ。
金澤一郎会長は「最近の政策は成果主義や出口志向を手助けしているようだ。この志向だけだと若い人が容易に結論が出る方向に流れやすくなる」と指摘。産業応用など直接成果に結びつきやすい分野を偏重する流れに懸念を示している。
理工系出身者に文系に対するストレスがある。なぜ文系が評価されて理系は評価が低いのか。
平成22年8月25日 理系離れに一石、文系出身者にくらべ、平均年齢で41歳の平均年収では理系出身者が100万円程度高いという調査結果を京都大学の西村和雄特任教授、同志社大学の浦坂純子准教授らがまとめて発表し、報道された。
社会的な意味における出版業界の存在に対して評価が高まってくることを祈るばかりだが、ここに何があるのか?
一般の人に理解されやすい仕事か、理解しにくい仕事か、の違いである。企業は理系出身者を歓迎している点で、ものづくりの国だと思う。
文系は派手で理系は地味だと思う。ただぼくたちの業界でも仕事の看板はエキサイテングでエンターティメントが一般受けしているだけだ。
いま自分が生きていくのに人様の役に立って生かされていることを何人も知るだろう。駄賃をもらってこの歴史に生きてきた。人間社会というものは、強権により支配したり、支配されるものではない。長い人間社会史は民主主義を発明した。ここには自由と博愛がある。
21世紀の経営は顧客に役に立って初めて生きていくことができる。学問とは何なのか? それが今朝のテーマでもある。
学問が真理の探究であった時代、事物が何であるのか、その本質を求めた。社会も含めてすべてのものの現象には本質、形式、機能・働き、目的がある。
こうしてこの自然の事物も含めて、なぜ、なぜと現象の本質を求めた。求めることは探求という形でことばが定着している。
社会が多様化し、ICT社会になって、そのデジタルの本質は、デジタルの世界が課題解決の思想をもった。情報化社会の到来と密接に結びついている。ひとつの仕事を成し遂げるにもデジタル的な解決が求められる。仕事は課題解決――つまりソリューションをプログラミングできて課題解決ができる。問題の発生から問題の終結、仕事が入ってきて、請求して、お金が入るまでの過程である。ビジネスモデルともいえるし、ビジネスインテリジェンスともいえる。広い意味で社会問題の解決(ソリューション)でもある。これをどのように設計するか、アーキテクチャー(設計思想)ということばも生まれた。アーキテクチャーは技術解決ともいえるだろう。一見、機械的に完結しているように見える。それがものづくりだと思い込んではならない。どんなふうに容易に役に立っていくか、そこに安心、安全はあるか、インターフェースはどうか、インターナショナルな人々の役に立つ共通の理(ことわり)があるか? 独善的なものづくりでないか、佐藤のいう民族共通の生活観念に根ざした物象化があるか。
そこでアイディアとは何か? 思いつき、着想とは違う。高度成長期時代のたまげた製品の発生地はわが国日本の「ものづくり」であった。ものをつくるのに大学に工学部は業種別技術の予備軍をつくってきた。
ここには頭の中の天井が見えて、その天井を越えた無限の宇宙へ羽ばたく無限の精神、有限と無限の哲学的解決をせずに限定された大学の知識を技術にした時代であった。
ぼくたちはこの人間社会が無限の人間としての生きる喜びを感じ、そして平和であって健やかに暮らしていけることを佐藤は願った。だからどうすればいいのか?
社会の役に立つには、目先の問題が解決することではない。そこには天井を突き抜けていく無限へ導く可能性があって、閉塞感のない、どうしたら永遠に生命を与えることができるか、それが学問の新しい目的となったと、佐藤は理解している。
ここには人間社会史という現代という意味の歴史的存在がある。それを近視眼的にこれは、社会科学との工学の対話が必要である。この歴史を突き抜けて未来へいたるアーキテクチャーがあってぼくたちの生活は豊かになっていく。
大学の工学部に行きたいという学生もいるだろう。独善的なものをつくっては産業廃棄物になる。そこには本来事物には人間の道具として極めてモノラルな存在がある。源氏物語の愛の感情といってもいいだろう。この社会が男と女によってできているとすれば、生物的世界観ではオスとメスによって成り立っているが、確かフランス語には中性名詞があるようだが、技術哲学の発展とは人々の役に立つの中に「本来の人間に役に立つ」、人間のものづくりという「原型」があって、技術はそびえたつ。
なにが、たとえば平和に役立つものであるか、なにが人間の生命(いのち)に役立つものであるか、そこには数10年前の生活の時間、生きる時間の合理的な節約であったり、人間に役立つ便利なアイディア商品などもあった。
アイディアとソリューションの間には社会的な解決と個人的な生活の解決の側面もあるだろう。国民の願いを国家的で社会的なソリューションとしてのコンセプトが必要であり、座敷を掃除するほうきと掃除機との間にはソリューションできたとは、いまだ解決した問題とはいえない。
企業においては仕事が入って、どのようにしたら仕事が入ってくるか、どのようにしたら加工をうまく解決するか、だからここに価値が生まれて顧客の役に立ち、だからその報酬をいただくことができるというストーリーが、単純明快な物語として設計されてプログラミングができているか、事業計画の本質である。しかし、事業は時代とともに進化していかねばならない。イノベーションともいう。変化していくがこの本質は永遠に通じ、変わらない事業としてのいのちがなくてはならない。
新聞記事は、「社会のための科学」を重視するという。社会科のための道具でもある。
解釈ばかりしているのではなく、既成概念を破る道具が出現してアッと驚く。
ぼくたちは知の工作者といえる。一歩一歩の前進にしかすぎない。しかし、目的を持たねばならない。それは誕生して三日後に死を迎えるものではなく、永遠にその原型が誕生し、進化していくことで永遠という無限を求める。
もうみなさん佐藤の立場を理解されたと思う。金儲けだの、損した、得しただのソリューションのアーキテクチャーには関係のないことだといいたい。
佐藤は仮に「当たり前で相変わらず」といった。いま生きている人の道といってもいい。
3年前からいっているが、いまの時代という意味なのである。営業方針は時代とともに変わる。
このことを原点回帰という人もいるだろう。創業者回帰という人もいるだろう。
工学に対する思想の一端を社会科学の立場から見たが、経営工学に対する視点も、「人間とは何か」だから企業と組織と道具がどのような問題解決にならなればならないか、ソリューションしなければならないか。
佐藤が求めた過去の職場を全面否定し、もし求道的な労働観に快適を少し感じれば、佐藤はうれしい。快適は求道的なものだ。不満からは生まれない。一致から生まれる。
快適は恋愛のこころにふれるようにワクワクするこころは数学的には理解できない。理解できるとすれば、物質的な損得、都合といえるだろう。一所懸命理解しようとしても松下幸之助先生の書、「道」も理解できない。
人の「道」とは自己のマネジメント――務め、責任、実践をもって明日を仕度していく。
工学者は設備が必要だ。その点で貧乏人は物理学のほうが似合うだろう。それはどうでもいい。こうした社会科のための概念の道具づくりは一生の仕事になる。自分の思いを自分でマネジメントし、そこに明日を仕度していく思いという務め、責任、実践が自分の生き様になればいい。
他の評論を超えて自分のマネジメントにより生み出していくことだ。
最後に社会科とは人間に役立つ科学だといえるが、真理の探究もいいが、専門職にまかせて、ぼくたちは価値を生み出して「役に立って」生きていかなければ生きていけない。
その時、いまだ大義名分は人間の、人間社会史の役に立つ生き方という大きな憲法が必要だ。それがある人は仏法といい、ある人は法というだろう。佐藤は法よりも仏法に近い。仏法に寄り添っている。仏法を中道と考える独善的な世界観にはくみしない。突き抜けていく仏法の枠(道)を駆けていく。
(2010年(平成22年)8月21日投稿)
日刊工業新聞 平成22年8月18日
京セラ相談役 伊藤謙介
(2)経営理念〈下〉
理念の浸透、成長力生む
業績と連動
「理念が希薄化したとき、企業の命運は尽きる」。経営理念を問われると必ずこう答える。
経営理念は会社の目的や考え方を明確にする。社員が理解し共有することで会社内のベクトルがそろい、会社は総力を結集して成長発展へと邁進(まいしん)できる。まさに理念と業績は連動しているのだ。
産業能率大学の宮田矢八郎教授はTKC経営指標を活用した約1万1000社の優良企業へのアンケートを分析。「収益結晶化理論」をまとめ、その中で経営理念の有無と収益の相関を明らかにした。売上高や経常利益が大きくなるほど経営理念を確立している会社の割合が高い。例えば、経常利益が3000万円未満で経営理念を持つ会社の比率は49%だが、3億円以上となれば78%となり相関関係にある。
当社でも相関は明らかだ。リスク分散の一環で、複数の事業部が同じ製品を同じ工程で生産しているが、採算に大きく差が出ることがある。双方を比較すると、理念の浸透度が業績の差となっているとしか思えない。
京都の会社は総じて業績が良く元気だと言われる。自主独立の風土が独創的な技術を持つ会社を輩出する下地だが、経営理念が確立し継承されているからこそと私は考える。日本電産、任天堂、村田製作所、ロームなどに共通しているのは、創業者が健在であったり、理念が確実に受け継がれたりして、成長発展のエネルギーとなっていること。創業以来の精神が額に入れた飾りでなく、社員の中で息づき、結果として他社より一段高い収益力や成長性を実現しているのであろう。
繰り返し教育
経営理念を浸透させるノウハウを問われることがあるが、「繰り返し、エンドレスで教育する」、これしか思いつかない。
京都・山科の旧本社を改装、「京セラ経営研究所」と命名して理念の継承に努めている。ここでは国内の幹部クラスを対象に、2日間の理念教育を、半年に一回のペースで行っている。「心をベースとして経営する」など、およそ80項目におよぶ創業者稲盛和夫(名誉会長)の考えをまとめた「フィロソフィ手帳」をテキストにして、稲盛自身の解説ビデオや経営幹部の講義で学ぶ。さらにグループ討議やコンパという飲み会での車座議論で理解を深める。
繁栄築く礎
この研修のエッセンスを中堅・一般社員から全社員の潜在意識に入るまで徹底して伝える。海外でも米国、欧州、東南アジア、中国の各エリアで同様の研修を実施している。京セラの理念の基本は「人間として正しいことを貫く」。普遍的な理念、哲学に国境はない。
理念が希薄になることが最大の経営危機であろう。だからこそ理念継承の体制を万全にしたい。それが、将来にわたる繁栄を築く礎となることを信じて。
日刊工業新聞 平成22年8月19日
京セラ相談役 伊藤謙介
(3)リーダーの心得
心に「佐渡島」魂に磨き
語り部たれ
リーダーは語り部でなければならない。社員に事業の方向性を示し、夢を与え続け、それを社員がありありと描けるようになるまで徹底的に話し込むことが必要だ。
話すということは魂を転移することである。魂の転移とは、相手の目を見て、熱を込めて自分の思いを伝えていくことだ。相手が腹に落ち顔色が変わってくるまで話し込む。必死に話し相手に伝わったなら、相手の顔は赤くなり話す方は青くなる。リーダーの魂が転移したからだ。
そんなリーダーの魂からのほとばしりが企業の文化・風土をつくっていく。リーダーはその魂をより美しく磨いていくことが求められる。
社長時代、円高で業績が落ち苦悩していた時に、当時会長だった稲盛和夫(名誉会長)に相談した。答えは「業績は経営する人間の器量以上でも以下でもない」という大変厳しいものであった。経営に携わる者の器量が業績に反映するとなると、人間としての器量を上げていくしかない。
「方谷」に学ぶ
人倫の道は先達に学ぶに限る。江戸時代の儒学者である山田方谷は「経世の道も儒学でことたりる」と備中松山藩の財政を人の道を説くことで立て直した。方谷の教えにはリーダーの要諦(ようてい)ともいうべき眼目が多く、中でも「至誠惻怛(しせいそくだつ)」は大事な心得だ。誠意と思いやりを持ち、従業員のため国や公のために尽くす思いがなければ、社員や社会の共感は得られない。
部下はリーダーをいつも見ている。私心ではなく、高いモラルを持って常にぶれることなく決断し行動することで、部下の信頼を獲得し組織の総力を結集できる。
試練克服
「心の中に佐渡島をつくれ」。言い訳してはいけない、困難に背を向けてはいけないというリーダーの決意を私なりに表現した。社長時代の95年に佐渡島で得た啓示だ。円高急進、それまでの1ドル140―150円があっという間に100円を切り、瞬間風速で79円台と非情に厳しい経営環境に直面した。
世阿弥が足利義教に流された当時の佐渡島は絶海の孤島で、追い込まれた世阿弥の心情は思いやるにあまりある。が、その修羅場を経験し克服したことが、後の能楽大成につながったのではないかと勝手ながら推察している。
つまり、絶海の孤島のような絶体絶命の境地に自らを追い込むことで、困難な目標を達成するということだ。また、その修羅場を通じて人間的に大きく成長するということでもある。苦しみ抜き試練を克服したという経験は、目の前の仕事の成果をもたらすのみならず、世阿弥のように次なる仕事の礎となり人生の飛躍台ともなるに違いない。
苦しさの中でもがき抜く、その格闘を超える術と考え方を身をもって知っている。そんなリーダーが輩出する企業こそが真に強い企業であろう。
日刊工業新聞 平成22年8月20日
京セラ相談役 伊藤謙介
(4)ものづくりの心得
求道的労働観、価値に反映
次代に伝える
製造現場の哲学ともいうべき「ものづくりの心得」をまとめている。5年ほど前から作業をはじめ、2011年春の完成を目指している。
経営理念は会社の目指すところを示すが、現場に求められる知恵や考え方も、確実に次代に伝えていくことが重要だ。海外への生産移転や世代交代などで製造現場が急速な変化を遂げている。今こそ身をもって学んだことを後世に伝わるよう体系化しておかねばと作成を決意した。
全国の工場をまわり、創業以来、稲盛和夫(名誉会長)から受けた薫陶や私のものづくりへの思いを社員に語り、現場の意見も入れて50項目ほどに集約した。さらに1項目ずつに解説を加えた。
「ものづくりに誇りを持て」「一瞬の作業に魂を込める」「現場最大、机上最小」など、ものづくりに従事する人間のあり方を問うものが多い。なぜなら、「ものづくりとは人格が反映するもの」であるからだ。製品はいわば製造マンの心の結晶。細部まで完ぺきに仕上げられた製品は、作り手の一分のすきのない生き様が投影された結果だ。真摯(しんし)な生き様が、手の切れるような優れた製品に結実し人々に感動を与える。
作品に込める
大正昭和を代表する陶芸家で「民藝」運動の立役者濱田庄司は、次のような言葉をのこしている。「大皿一枚に釉薬(ゆうやく)を施すのに15秒以上かからない。多くの人が尋ねる。15秒しかかからないのに、なぜ高価なのか。私は答える。皿をつくるには60年と15秒かかっている」。60歳の還暦を迎えていた濱田は15秒で終える作業であっても、そこに60年間にわたる自身の生涯のすべてを込めている、そのために作品は高い価値を持つと言っているのである。
根本にあるのは、「求道的労働観」ともいうべきものだ。道を求めるかのように、一心不乱にものづくりに打ち込むことで、すばらしい人間性を獲得し、おのずから作品の価値に反映する。
その意味で、ものづくりとは無機物に魂を入れる行為とも言えよう。ならば、我々は芸術家と同じだ。安価で大量に製品を生み出すという点を考慮すれば芸術家を超えているのではないか。
現場の宝
ものづくりの環境は変われども、根本精神は変わらない。製造現場には一瞬一瞬の作業に真摯に努力を傾注する製造マンが存在していなければならない。日本の製造業の現場には、血のにじむような格闘で得た素晴らしい「知恵と心」がある。しかし今、その現場の「宝」が急速に失われつつある。これは、一メーカーの問題にとどまらず、この国の基(もとい)にかかわる、ゆゆしき問題であろう。
何としても、日本のものづくりの心を次代に継承していかねば。それこそがいまだ回復の足取りを見せない日本再生の処方箋(しょほうせん)となるに違いない。
日刊工業新聞で8月17日から一面で連載が始まった。「広角」という欄である。
京セラの相談役 伊藤謙介氏。
業績と連動
「理念が希薄化したとき、企業の命運は尽きる」。経営理念を問われると必ずこう答える。
経営理念は会社の目的や考え方を明確にする。社員が理解し共有することで会社内のベクトルがそろい、会社は総力を結集して成長発展へと邁進できる。まさに理念と業績は連動しているのだ。」(8月18日)
ものづくりの心得
「ものづくりに従事する人間のあり方を問うものが多い。なぜなら、「ものづくりとは人格が反映するもの」であるからだ。製品はいわば製造マンの心の結晶。細部まで完ぺきに仕上げられた製品は、作り手の一分のすきのない生き様が投影された結果だ。真摯な生き様が、手の切れるような優れた製品に結実し人々に感動を与える」
次、作品に込める、として、大正、昭和を代表する陶芸家で「民芸」運動の立役者 ?田庄司氏の皿づくりにあたって、一枚の釉薬(ゆうやく)を施すのに15秒以上かからない。15秒しかかからないのに、なぜ高価なのか。皿をつくるのには60年と15秒かかっている。
いまキャリアから一生の仕事を求める風潮も出てきた。佐藤は人の道とはドラッカー先生のマネジメント――務め・責任・実践を日々明日を仕度していくきょうを生きる。人生その繰り返しといってもいい。
「その意味で、ものづくりとは無機物に魂を入れる行為とも言えよう。ならば、われわれは芸術家と同じだ」。
一面で無機物といえる誤植を見つける目は活字や記号に魂(意味と内容)を入れる。ことばの力が魂だ。ぼくたちと同じ行為だ。
「血のにじむような格闘で得た素晴らしい「知恵と心」がある」と言っている。
「根本にあるのは、「求道的労働観」ともいうべきものだ。道を求めるかのように、一心不乱にものづくりに打ち込むことで、すばらしい人間性を獲得し、おのずから作品の価値に反映する」
佐藤と似ているところがある。プロは蓄積した知識と技術の、ここでは経験とはいわない、自分の歴史といっておく。たとえば、洋裁の型紙をつくるのに、思い切って、自信をもってデザインし、切り絵の技術のようにハサミを入れていくとする。素人目には勇気ある断定的な行為にも見える。さばさばと決断と判断が見事な曲線を描くとする。思い切りいいと感じる。しかし、そこには重層的な技術の結晶がある。プロの直感もある。
しかし、誰でもが納得し満足しない。未完を感じる。ここには遠くに思う求道のこころがあると思う。それは自分が生きていることの意味である。
損得があったり、バランスがあったり、そこには打算はない。
こんなことは自然なことだと佐藤は思う。佐藤は経営とは何かを考えている。考えることを考えている。こうして考えていくのだろう。
そして、伊藤氏は、
「ものづくりの環境が変われども、根本精神は変わらない。製造現場には一瞬一瞬の作業に真摯に努力を傾注する製造マンが存在していなければならない」といっている。
だいたい経営理念が企業には必要であることの切迫感すら関係のない人もいる。
経営理念を失うと企業の活力を失う。自分にとってもいえる。自分のいきている憲法のない人を信じることはできない。自己の利益を中心に考える人は、それを憲法と言わない。憲法は誰にでも共通で、そのようなものを私有している人を佐藤は根源性論者といっている。敵なのである。求道的労働観は利潤最大化に置き換えられる。目的と手段の転倒である。
ただ佐藤は正直・率直・誠実・個性といっている。誰にでも共通のことだ。
日本語でいえば「信念」ともいえるだろう。カネを探して拾って歩くようでは求道的労働観を育むことはできない。万能の神がカネになって転倒してしまうのだ。
いま環境問題は人間が生きていくうえで、地球の生物の多様性を認め、極めて抑制的でありながら、そこではケンカごしの競争をして惰性から常に活き活きとしていなければならない。利潤最大化ということが恥も外聞もなく出てくる幼さに常識ある大人の思慮深さと抑制的なこころのあり様が、いま生きていく生き様だと思うようになった。
歴史の衰退から学んだ佐藤の知恵である。愛犬に対しても抑制を超えた愛犬への行為をもてばイヌは狼の仲間だと感じるときがあるだろう。そういう点で生物的世界観は尊重し合うパートナーとのパートナーシップが夫婦関係に投影され、役割分担して男らしく、一方では女らしく、と感じる。オスの働きとメスの働きは役割分担している。巣を機能させるのはメスだ。ここには巣の永続性(保全)がある。それは動物として本能的に明日を仕度していく自己のマネジメントを守っているからだ。人間には生きる憲法という理念がある。
これがないとバラバラに分解して、すぐ倒産してしまうんだよ。
(2010年(平成22年)8月20日投稿)
日刊工業新聞 平成22年8月20日?
事例
術後病衣やミトン付き着衣
看護婦の発案で開発
山本被服、新販路に期待
山本被服(静岡県清水町)の山本豪彦社長は「新しい販路ができつつある」と期待を寄せる。同社はユニフォームメーカー。術後病衣やミトン付き着衣など衣料関連衣装を相次いで開発し、注目を集めている。
術後病衣は08年1月、がんセンターの肝胆膵外科の看護婦の発案で開発に着手した。手術後の患者がパジャマを着ているとチューブが曲がるといったトラブルが多い。これを改善する病衣だ。上衣に深いスリットを入れてチューブを付けたままでも動きやすくしたほか、ズボンの腰の部分に開口部を設け、チューブを通しやすくする工夫をした。現在、同センターに150着納入し、試着をしてもらっている。
また国際医療福祉大学熱海病院の看護婦の発案で開発したのがミトン付き着衣。脳外科の患者は意識不明の状態でも手を使ってチューブを外してしまうことがある。このため手にミトンをはめるが、市販のミトンは自分で外せてしまう。そこでミトンと服を一体化したものを製品化した。手に手袋をはめてミトンに入れる仕組みとしたほか、手袋の手の平側を二重構造にしてマイクロビーズを入れ、モノをつかむ感覚が得られるようにし、患者のストレスを解消する。
7月の国際モダンホスピタルショーで紹介したところ「早く実用化してくれないかとの声が多かった」(山本社長)と評判も上々で、今年中の市場投入を目指す考えだ。
世代を問わず女性の患者も多いだろう。スパゲッティ治療で患者の身体からチューブがぶら下がっている。胸や腰周りなどにもチューブが垂れ下がっている。患者の身内、友人、知人などお見舞いに来て、話し中に看護師さんも来て、治療の箇所の病衣を開いて診られる。特に女性にとってこの病衣は女性の尊厳を守る。身近な問題解決なのである。
この問題解決は医療現場への新しい販路につながるし、新しい事業の芽として事業拡大に貢献する。
女性高齢者の中にはこれまで病院支給の病衣に納得できず、自分で花柄のパジャマを着ている人もいた。病院暮らしに快適さを与えることも必要だろう。
工場のユニフォームから脱しておしゃれであってもらいたい。
問題解決は患者にとって機能的でスパゲッティの対策でもあり、明るい病室にもなるし、患者にとって入院の精神的負担をやわらげるし、治癒への希望を快適な環境の中でもてるようになるだろう。病院側の医師や看護師、検査技師、リハビリ担当者にとっても、明るい病院の未来のあり方を希望するだろう。
政府は医療観光を進めている。外国人に快適な日本の病院のあり方を訴求し、記憶してから話のタネになることもいい。新しい病院のあり方を考えてみた。
(2010年(平成22年)8月25日投稿)
世の中は思考法に関心を持ち始めています。しかし、この思考法とは問題解決のための技術的な思考で考え方が道具になっています。時代の変化に対応できるものではなく旧態依然としたものです。道具には人類の叡智ではなく、流行したり衰退したり、山へ登るための普遍の知識のようなものではなく、日常の生活技術に必要な簡便な知識といえるし、時代が変われば「産業廃棄物」になるような便利な道具としてのアイディア商品(知識)といえるもので、大学のあり方が知識そのものの閉塞感という壁に突き当たっています。そうなんですね。大学院とは「専門知識」の技術を教えるところとなって、なり下がってしまいました。退職する頃には陳腐化します。
日本経済新聞(平成22年2月13日)
ビジネス課題解決
学生が授業で挑戦
日産などと立教大提携
立教大学経営学部は日産自動車など3社と提携、学生が現実のビジネス上の問題解決に取り組む授業を4月に始める。
従来「ビジネス・リーダーシップ・プログラム」として行っていた年間コースに盛り込むもので、4、5人ずつのチームで解決法を考え、企業へのプレゼンテーションまでを行う。議論を通して課題解決のための思考法や経営戦略手法を学べ、企業側も若い層の発想を参考にできるとしている。
日産は2年生を対象に「電気自動車を若年層に販売する方法」の提案を依頼。3、4年生には米アップル日本法人が「携帯音楽プレーヤーの新事業立ち上げと日本市場でのシェア向上」、1年生にはモスフードサービスが「高校生や20代向け販売強化」という課題を与える。企業は特にスポンサー料などは負担しない。
少子化で大学の競争が激しくなるなか、立大は経営幹部層育成のための同プログラムの質を向上させたい考え。担当の日向野幹也教授は「就職率向上や社会で活躍できる人材の育成につながる」と話している。
この担当教授も思考停止症候群の中にいる。ドラッカー先生は、マネジメントとは務め(課題)、責任、実践と言っている。企業の中間管理職の研修コースに問題解決の事例研究があるが、自分の足元の石を除去する思考の「アイディア研究」といっても言いすぎではないだろう。企業も大学も中間管理職の養成を行うことが目的になっている。知識経済社会に対応できない。また、思考法を学ぶといっている。だから本格的なイノベーションが生まれないのだ。大学教育に魅力があるのか?
メディアミックス&ソフトノミックス/では、これまで思考の方法にどう気づくかに視点をおいてきた。
前回もホームページを通してマネジメントの本質についてどのように考えていくか、について述べてきた。日々の毎日の暮らしを通してこのドラッカー先生のマネジメントの本質とは自分の務め、一面で課題でもある生き方そのものであるが、多くの人が直面する課題の問題解決と歪曲して考えてしまう。そして、課題を意識しなければ思考を停止して惰性の中で通過してしまう。
後述するが、仕事workとは「事をかまえてすること」という。マネジメントの思想とは一般的にいえば、生き様そのものだが、仕事に対する心構えをもっていない。仕事とは何か、応募者「作文」の題名である「仕事に対する私の考え」がない。作文の題名を「私の仕事に対する考え」と変えてくる者もいた。くそだらけの仕事観はいらない。採用して最低でも一年二年は再教育する。真っ直ぐ伸びる力を求める。
本来「仕事とは何か?」を問うている。どんな仕事に携わり、器もわかるし能力・経験の範囲、作文から見えてくる実力の可能性、人材として伸びていく考え方、思考方法も透視することができる。こうして人間性を測定する。「作文」は、生きていくのに極言すれば多くのアメリカ人のように働くことがjobになっている。ここには働く環境のすべてが屈折して反射している。一面で資本主義という、ひと言で言えば、こころが商品化し、金儲けになっていることだ。
小社において働く者の人間関係は原則「孤立」している。社内で求めることは自由だ。分かるようにいえば、近寄って来る調子や出世には関係ない。人間関係の葛藤もない。平和であることだ。人が、人間がいつも相変わらずであることに注視しなければならない。
workとは精神の働きそのものの表現であり実現なのだ。本来の人間の仕事とは何かを失っている。佐藤にとってこれは仕事の「理論的本質」といってもいい。
理論的本質は日常のあるべき姿であるし、ここには弁証法による思考と論理表現形式による思考を論理的に組み合わせて、けしてアイディアではなく、本来の革新というイノベーションでなければ目詰まりしてしまう。
事例研究においては観念か、論理的認識から設計が出発したものか、わが国におけるものづくりの技術史に根ざしたものか、設計はどのように行われたのか? 一般のトラブルなのか? 企業においてはトラブル処理が仕事だと考えている管理者も多い。レベルの低い会社といえる。これに答える気力もない。論評できず、である。
論理的認識から、つまりアイディアの類のいわゆる知恵や工夫、多少の改善、器用さを経たとしても原因が出発点にある。この出発点を論理的認識で、「再構成」するか、つまり革新というイノベーションを必要とするか、旧来のボタンの掛け違いという出発点に根ざしたものか、わが国ものづくりと欧米のものづくりの相違といえるが、そして、ものづくりの論理が成立しているか、観念の私的所有物の発想からアイディアとして器用に工夫改善したものか、佐藤にはテーブルをひっくり返さないと対話ができない。本づくりにおいても同じことがいえる。ひと言いえば、コンテンツがいかなる構成物質でできているか。佐藤の好む書籍は勉強になることだ。
わかりやすいとか、丁寧なコンテキストになっているか、とか、観念の私的所有物が思考の鋭角的な反射として思考の光が太陽のように輝いているか、人によって思考の反射は気づきの宝の山なのである。だから、わかりやすいとか、丁寧なコンテキストになっているか、とか、そういうことは邪魔なのである。学ぶことができない。
多くの日本人は自分の牙を研いでいるのか? 佐藤に関心はない。根源性論者が「おめぇ、このあいだ?こう言ったじゃねぇか??」根源性論者の特許である無時間的意識でバカの象徴として牙をむき出し、天下の笑い者になる。時代の変化――事象は半年前と今は環境の変化がまったく違う問題に直面する。根源性論者は人生には自己の観念に変化はない。死ぬまで観念を持ち続ける。誰でも人間とは時代とともに生きているのだ。
何を事例研究のテーマとするのか、ものづくりの現段階と密接に結びついている。
現下の事例として横道にそれるが、トヨタはグローバル企業なのか? アメリカの企業なのか? 日本の企業なのか? 根無し草の無国籍企業なのか?
何人も旅行して、温泉宿の旅先で楽しんでいる時、「わが家が火事になった」と一報を受ければ、旅を中止してふるさと(わが家)へすぐ帰る、という。
今、日米同盟には言及しない。そして、近代経済学者はグローバル人材が必要な時だと考えているようだ。世界には多くの民族が生きている。ナショナリズムもある。日本人が明治維新以来、米欧文化を学び、経済発展し、欧米と同じように経済は成熟化してきた。
欧米へ本格的に進出し始めた1960年代を思い出してほしい。欧米の市民は日本人はめずらしい民族でもあった。日航社員と商社社員は肩で風を切って海外で暮らしていた。
長く海外で暮らすと、ある日自分の顔を鏡で見て、みんなと違うことに気づく。内面的にはみんなと同じだと思っていた。感覚も環境で変わっていく。多くの人は自分は日本人であることに気づくだろう。これは佐藤にとって渡れない橋であった。しかし、橋をかけねばならない。それはこころに母国があるからだ。別なことばでいえば、帰ることができる国である。
グローバル経済は、たとえば保護主義反対といいながら、アメリカ国民は血税を進出した企業の自社製品の販売促進のための資金としても国民が支払っている。
やがて日本国民も自分が納税した国税が、海外から日本に来た外国企業を国家財政(血税)で支援しなければならなくなる。いま下隠しに隠しているが、海外から日本に来た外国企業かどうか、トヨタがアメリカの企業かどうか、と思うか、思わないか、世界は民族紛争の火薬庫だ。自衛隊をどうするのか?
多くの日本人が、トヨタが日本の企業と思っているのかどうか、トヨタは出世頭の息子だと思っているのかどうか、人間トヨタは自分の顔を鏡で見て、みんなと違う衝撃を持ったかどうか。だから外国人労働者に対して、どう考えていくのか?
佐藤の個人的な体験として、からだに流れている血が先祖からの預かりもので、今自分の番を生きていると思った。
民族の血はグローバル経済となじまない。アングロサクソンと仲良くなっても個人的には友情を深めることができる。長くなるので、ここでは結論だけをいう。ぼくたちは日本人として生きていく。それには母国が必要だ。海外進出も出稼ぎで事を終わらせることができるか、他国へ帰化するんだろ! 日本人が世界で生きていくということは金儲けのくだらんことで引きずられていき、みんなの好きなことばでいえば、リスクは誰がとるのか?
日本人は世界の民族のひとつの民族で、経済的に世界を征服するとか、第二次世界大戦勃発の悪夢を見る。世界の民族と仲良く協調し、知において日本人らしく生きていければ、と、佐藤のごまつぶほどもないけど、小さな小さな生き様を求めている。
自分らしくはマネをすることではない。外国から学ぶことはわが国近代史のDNAであった。わが国は小さな国だと思う。わが国らしく科学技術と教育立国を目指し、その点において世界の諸民族から敬意をもたれる生き方を求めるが、それは世界においてどんな日本人であるべきか、それは企業がどんな企業の姿として生きていくか、ここに富士山の気高さを象徴する。
企業経営者は好きな外国へ旅し、旅先でみんなの顔と違う自分の顔を鏡に映して、鏡とは何か? 鏡が教えてくれたことを考えてみることだ。
本題に戻るが、学生に教育する、ということは、思考の土台という基礎を教え、学ぶことである。
事例研究の前提となるこうした思想的前提が経営学の構築においても現代的意味をもつ。わが国「現実世界」の事例研究に思考の土台が根無し草のように浮遊している。
30年、日刊工業新聞を毎朝読んでいるが、大学の動向についての関心をもっている。
大学の務め(課題)に今という時代と未来をいかにとらえているか、学部の創設が就職の目的か、知の創造という社会への貢献か、大学の工学部のあり方をめぐってエンジニアリングの今日的思想的意味など、ぼくたちの仕事に必要な理論構築の留意点。知識の性格の変化がもたらすエンジニアリングの可能性。
いまなら製造会社の今と今の明日を支度していく務め(課題)をどんな考えで、何を始めようとするのか? 製品は「どんな働き(機能)を」市場にどんな考えで何をしようとしてつくられたのか? 製品はどんな知の構成物質によってつくられたか?
ぼくたちの仕事に適用できないか、そこにどんな気づきを形にするか? 組み込むことができるか? 人材育成の今の課題を気づきとして業務の工夫改善にどう活かしていくか、新しく生まれた概念をいかに取り込んでいくか? ぼくたちの経営課題として学ぶ。
ここには生み出す知にこだわりをもつ。日経産業新聞のマーケティングの事例には関心がない。
ドラッカー先生の『ドラッカー経営学用語集』などつくられるといいなぁと思う。
現代精神病理に「言ったことしか理解できない」「わかっている」と思い込んでいる。きわめて言いにくいが、「やさしく誰でもわかるように」という。何も分かっていないのである。かつて「マルクス主義の論客」が用語集を書いた。何も分かっていないのである。俗本の不良本を執筆した。よく能書きを書いたと思う。人々を惑わせ混乱させた。
同じことはドラッカー先生の用語集にも危険視する。マルクスやレーニン、トロツキーに対して「根源性論者」の能書きは当時分かったように精神の宇宙を勝手に描いた。社会に対する反抗心だけが生きる目的であったと思う。反逆の論理はマルクス主義の精神とはまったく関係はない。人間のこころのあり方と生き様がまったくないのである。
ピーター・ドラッカー先生という人間に迫っていくことができるだろうか? 評論の用語集も求めない。人間とは何か? だから社会と何か? だから生きるとは何か? 分かっている者の評論はいらない。分かりやすく丁寧に書かれても、そんなものは使い物にならない。学習にならない。そんな執筆者が多くなった。自分の哲学がマルクスとの間に埋められない距離があったとしても、あなたはどんな生き方をしてきたか? 講壇「ドラッカー先生の経営学用語集」はいらない。気づきなど用語集を座右に置いて整理したいのだ。
いつかコンサルティングについて話したことがありましたが、企業としては倒産の原因になる「コンサルティング」に陥っている。
すでに10年は経つと思いますが、佐藤はピーター・ドラッカー先生を勉強している。
今の若い人に伝えたいことは、「本の読み方、学び方」だ。
ドラッカー先生は、「どんな人間か、どんな仕事をするか、どんな成果をあげるか」と問われている。
まず「どんな人間か?」、人間の原理・原則・基礎・基本にその人の個性の花が開く。
小社の会社理念は正直・率直・誠実・個性だ。ドラッカー先生に学んだのは会社理念が経営組織としてのマネジメントの本質が基軸でなければならない。それはいかに生きるか? 生き様であってほしい。それは発展の原動力でもある。明日を支度していく日々の務め(課題)、責任、実践であってほしい。
原理・原則・基礎・基本とは社会にとって市民にとって普遍的なことだ。たとえば論語を学ぶにもそこに人間を学ぶ。当たり前で相変わらずを目指す、ということだ。メディアミックス&ソフトノミックス/のスタッフは一面で知識労働者です。しかし、市民社会の市民でもある。わが国が新政権になって、企業社会の賃金労働者と日本共産党の労働者の双子兄弟から決別し、まず初めにスタッフ全員が、前提として「市民社会の良き市民」であることを尊重する。市民はいかなるコミュニティーの構成員であるか? 新政権の「新しい公共」の思考軸であり、双子の労働者から決別した知識経済の担い手として自らを自己規定する。
ここには、経営者的側面と労働者的側面の二面性をもつ。政治への積極的参加も「事をかまえてすること」に政治・経済・社会・地域・家庭を基盤とする。
佐藤のことばでいえば、「くそだらけの根源性」はその人の短い人生の私的所有物として歴史の叡智ではけしてない。市民社会にとって無価値なものだ。
やはり世界の人間社会史から人間の叡智を学ぶ。良書と俗本がある。子どもや子どもの思春期、青年期に学ぶべき良書がそばにあることは子どもを育てることにおいて、豊かな環境といえるだろう。
一般的に「人間観」には仏教のもつ仏性の普通の考え方で、普通の暮らしをしている市民である人々といえる。ここには佐藤はドラッカー先生から学んだことはマネジメントとは務め、責任、実践を通して日々の暮らしを繰り返し生きている人々といえる。平凡な日常だ。佐藤はこの平凡が10年、20年、30年と続けていくと、非凡になると思う。自らの明日を支度していく「家庭」を基盤とした生き様が普通の生き様である。そして、明日を支度して生きることに希望と夢をもとう。ある時は激しく、ある時は優しく。
広辞苑では、仕事とは「事をかまえてすること」といっている。意識して務めることだ。英語ではjobとworkとは賃仕事のことをjobといい、task(務め)のことをworkという。子どもを育てることはworkだ。アイスクリームが欲しいから働くというのはjobだ。家庭での仕事は多くの人はworkでしょう。いまわが国で働くことは賃仕事jobになっている。つまり、働くことはjobなのだ。
ドラッカー先生は企業の、企業ばかりでなく、「働くこと」をworkといい、日々の暮らしも含めてworkとは務め(課題)であり、責任であり、実践だと言っていると考えている。
永平寺の作務である掃除は多くの気づかないところも毎日しっかりときれいにして掃除されているようだ。自分の暮らしの隅々までこうした禅のこころをもって暮らしていけば、それは夢と希望をもって明日を支度していく毎日の務め、責任、実践を通して実現するが、佐藤にとって精神的なことのほうが強い側面をもつ。この務め、責任、実践にjobが求める賃仕事と異なった、このマネジメントがその人にとって仕事として実体(信頼)を持ってくると、お金はくっついてくるものだ。このworkの人生という何人にも平等な価値にそれなりのお金がくっついてくると考えている。
お金がくっついてくるということは目的ではありません。結果だ。
早く実感を持ちたい。
つまり、経営理念は何人も日々の暮らしの太い樹の幹として仕事(work)とは務め、責任、実践そのものなのだ。
こんなことはあまり言いたくありませんが、いまやこころが商品化されている。商品とはカネで交換する。こころは貨幣との交換によって成り立っている人が多い。
ドラッカー先生のマネジメントに学び、jobではなく、仕事workをしよう。それは日々の平和な生活自身の中に根づいている。職場の牢獄に囲まれることではなく、自分の家庭を基盤にしっかり日々の務め、責任、実践を実現し、こうした現実の中で仕事をしよう。
個人と組織、jobとworkには複雑で緊密な連関がある。この個人と組織は人間の社会的存在と、極言すれば個人と軍隊を見本とした組織の関係でもある。企業社会の会社組織が軍隊を見本とした企業として現在も続いている。市民社会の良き市民と軍隊を見本とした会社との関係でもある。図式的に存在する多様な会社様態を1,2,3,4,5,6,7,8,9,10……と仮にする。これはレベルではない。形において存在する。企業の規模は「生物的プロセスでは規模は機能によってきまる」(ドラッカー先生)。この関係は人間の社会的存在の意識とでも言おう。様々な意識がある。働く者の意識である。
ぼくたちは家庭を基盤とする意識に焦点をもつ。多くの企業社会と異なった意識を求めた。家庭は市民社会の基礎単位である。いま新興国に現れた工業単純化社会(初期経済成長社会)は農村から都市へと多様な意識をもつ工業(単純)化社会の労働者の意識として精神的、技術的に訓練されていく。わが国では金太郎飴社会を画策した。
一方、先進国では経済が成熟化しており、ぼくたちは知識経済社会を生きていかねばならない。こうした働く者の意識――他の職場で歴史的・現実的に形成されてきた意識を(転職でもいいが)再教育しなければならない。仕事というあるべき姿(理論的本質)の鏡に照らし合わせて、実践できなければならない。2年から3年はかかる。
ついでに、応募者は利口で賢く計画的に仕事をしたいと思っているのか、しかし、禅寺の門のように利口で賢く計画的にはならない。しかし、仕事の基本が分かっていれば、一点突破の全面展開になる。翌月から「給料」が貰えると思ってくる。家庭の家計を背負っている者もいる。人手不足の会社ではない。優秀な人材を求めている。ひと言いえば、猫や産業用ロボットができる仕事でもない。では、何を教育しているのかは成文化しない。
毎朝ウェブの「営業情報」を見て、そこから学んでいくことだ。だからあなたが学んだように屈折して反射した個性の花が開く。どこかへ行きたければ行けばいい。賃仕事が求める「契約書」の発想はない。本局は知識労働者にとって何が魅力か、経営する者が働く魅力をつくっていけない者は企業の永続性に疑問をもつ。常に新鮮な課題を提供している。
そして、何度もいうように、支え合い、助け合って、クジラになって生きていくのだ。
そして、ぼくたちは家庭を基盤とした企業組織のDNA(遺伝子)に根ざしている。これまでも言ってきたが、「まともな社会なくして まともな人間はありえない!」と考えている。
かつての自公政権はこの市民社会を破壊しつくした。家庭とはすべて人間の生きる場なのである。今日の社会問題といわれる教育、医療、介護、環境、そして人間として生きる社会的存在としての労働――明日を支度していく自分の自分によるマネジメント、結婚、育児、愛が満たされる家庭、離婚が地域コミュニティの「インフラ」(形として近代史における民族の自覚に通ずる自警団へとつながっているか?)、近代経済学がこうした地域コミュニティばかりではなく、こうした社会の基盤ともいうべき「家庭」を破壊し、社会を破壊し、国家財政を危機に陥れ、人々の生活の基盤を奪い、社会問題ばかりが発生している。
子どもを育てる地域学校とPTA活動にも企業は認めようとしない。Job労働者は仕事workをしているスタッフを、「仕事をしないで家庭にいる」としてPTAの役員をおしつけPTA活動から逃げ回っている。Job労働者とは会社の社員としておこう。Jobとは会社でするものだと信奉している。小社は設立してもう20年も経つが企業社会の古代人であるかのようだ。
特別に記すが、自分の自分によるマネジメントができれば一般企業と比較はしたくはないが、毎日5、6時間を仕事の時間と推定する。Job労働者は囲い込まれて土・日は休日日だ。やはりぼくたちも夫の休日の影響を受ける。子どもも家にいる。子どもの成長にもよるが、優秀なスタッフは月収30万円前後にはなる。Job労働者にとって所定労働時間よりも短い。単純に比較できない。しかし、いわゆる「残業」している人はいないだろう。
地域コミュニティの市民としての社会的存在やあり方まで企業として吸収しようとしない。反社会的存在である。企業は市民社会の良き存在たれ!
近代経済学者はなお経済成長戦略がないとわめいた。だが、ぼくたちはいまどこから出発しなければならないのか? これらの諸問題は社会的に解決しなければならない現実を見ようとはしない。近代経済学は発展の遅れた発展途上国に必要であった。いまやその使命を終えようとしている。
ぼくたちは22年前、家庭を基盤とするSOHO独立自営業者(在宅ワーカー)を組織することから出発した。家庭を破壊して経済(産業)も社会も組織も成り立たない。
ぼくたちは時給を意識した出来高制から出発したが、「働く意識」(work)は「成果主義賃金」(job)まで多様な意識が存在する。
だが、近代経済学者はこれらの社会問題を個人的なこととして経済のあり方から排除しようとする。企業にとって都合の悪いことだ。けして社会問題の発生の原因を見ようとはしない。歴史の発展が事柄の萌芽・成長・発展・衰退・衰滅・残滓であるとすれば、残滓の段階である。
かつて佐藤は古い、伝統的な学問を見ていた。それがかつての東大安田講堂闘争の端緒だった。当時海外にいて日本の新聞で知ったが、いま大学のあり方が総括されなければならない。そして、笑って皮肉まじりに言うのだが、「近代経済学者が大学側から首切りされて大学を追放され、ホームレスになっていくことに悲しみをもたない」。このような悲劇の思いという意識の衝突を国会の論戦は不毛しつづけ、論調もこうした人々の「社会問題」が押しつぶされている現実に愛のことばもない。国民は国会から根源性論者を排除せよ。
ぼくたちは家庭を基盤とした意識の、当たり前で自然な姿でありたい。
この意識を構成するjobとworkの意識の関係が具現化される。個人が企業の軍隊を見本とした組織との関わりが意識として現れる。会社の多様な意識のあり方は関わりの意識といえる。しかしそれは意識が存在するにすぎない。
別な言い方をすれば意識が家庭を基盤としつつも、そこに仕事workの「事をかまえてすること」のあり方を教育し、生活と労働が融合し、だからメディアミックス&ソフトノミックス/のスタッフは親に対して娘であり、夫に対して妻であり、子に対して母であり、そしてトランスクライバーであり、コンポジョニストであり、校正者でもある。毎日その場、その時を変身している。いつも家庭で「生活」している。この意識は毎日の各人の暮らしに根づいている。家庭を基盤としている。余裕をもって、距離感をもってお仕事を意識する。
多くの人は知らない。ここから生まれる意識の強さを知らない。
ある編集者は「佐藤教」とメディアミックス&ソフトノミックス/を言った。
当たり前で普通のことを毎日ウェブで繰り返している。大切なのは現実の経営の苦しみを背負って当たり前で普通のことにこだわることだ。一般的にいえば、こうしたこころと誠意は知識労働者に敬意をもった一貫した態度が、何年も続けば自ずと経営戦略が定まってくるし、好況も不況も相変わらずでありたいと願っているし、スタッフもこうした社会の風に直面し、「あの人はそんなことまでしてくれたの」という「底力」を出してくれるものだ。一丸となって、それは企業としての力で原動力にもなる。やはり感謝が生まれる。
家庭に賃仕事jobの意識を持ち込む者もいるだろう。ぼくたちはドラッカー先生の広いマネジメントとしてその本質に立脚している。ここに家族の生活の意識があるとすれば、賃仕事の意識に立つか、市民生活の意識に立つか、意識は自由だ。会社の様態は1,2,3と10まで内容をもつ。市民社会において存在するにすぎない。民主主義の下で新政治が市民社会へ新しい希望の光を照らした。社会的課題として施策が展開されようとしている。
ぼくたちは生来歴史的に市民社会の市民として日本国の国民になった。企業社会とはひとつの企業でもあるし、それを雑把にみる移り変わる企業社会でしかない。そんなものを固定して考えることのほうがおかしい。精神において成り立たない。近代経済学の限界はここにある。G.ベッカー教授の経済学も人間の生の意識を経済論理で描いたことが人類史の不幸につながった。
小社設立から1年後の翌年、平成元年の8月吉日に会社案内をつくりました。
平成22年1月末、マイケル・ジャクソンのDVDを購入した。テレビで観たが、終わりに会社案内の扉のイラストを思い出すことになった。
「地球の環境を大切にして 人と人の夢を仕事で結び 21世紀の子どもたちに仕事の心を伝えます」をリードとした。このイラストはMJのイメージと連帯する。
モータウンから何を感じていたか、ジャクソン5の頃ですが、佐藤はソウルミュージックを聴いていました。モータウンからソウルを受け入れていました。
マイケル・ジャクソンはソウルからモータウンヒーリングミュージックへ渡ろうとしたのではないかと感じました。知覚的認識といえるかもしれません。
惜しい人が亡くなったこと、残念です。今、世界の若者はソウルからヒーリングへと生活の感覚、それは知的感覚そのものだと思いますが、ぼくたちの知の本能の中にヒーリングがあるのです。平和の中で世界の若者たちと共感する。激しい感覚のリズムでした。
ギターを弾くギタリストにM.Jは「君がいちばん輝くところだ」と、ギターの弦の「キー」「ヒー」と注文し、その激しく叫ぶようにギター演奏し、MJが性器近くに両手をあてて性器が勃起する激しい演奏のダンスは計算され、洗練された自然で、ある精神の激しい感覚的高まりを共有した。
みんなも自分のリズムを内面において「働く唄」「仕事の唄」という感覚の遠い魂を見つめて、今を経過するリズムを掴み、今を演じよう。この唄のリズムは今の、仕事を受け入れる自己との諸芸術、知覚的認識、暮らし……のすべてが自分自身だ。みんなも自分の音楽があると思いますが、しかし、音楽の好みにも影響されると思いますが、佐藤は魂として意識下にある激しいエネルギーとでもいおうか、きわめて知そのものの感覚といおうか、それらが佐藤を包んでくれる。形があるもの、形がないもの、それは自分の五感が発達しているもの、発達していないものの中で呼吸している。
佐藤にとってモータウン音楽とは知が全開し、激しく生きれ!と教えてくれた。M.Jは舞台でのダンスだったが佐藤はかってデモであった。今は日々生きていく魂(覚悟と生き様)でもある。
ドラッカー先生のマネジメントの本質と一致していることだ。今、生きている時代(時間)に生きれ! 自民党と公明党の党員は「無時間的意識」で眠っている。自分の牙磨きをしている。今は、何が起きているかが分かっていない。音楽における時間は個人的な「時間」で、連帯する延長の時間ではないのだ。一つの世界ではなく、バラバラに分断されている利己的な欲望だけが渦巻いている。国会議員として人格の下劣さに呆れる。日本全国にテレビ中継された。
60年安保闘争の共産主義者同盟の分裂と敗北の原因がわが国政治で再現されている。原因はどこにあったのか? 自民党も公明党もブンドと同じ原因で政治総括ができていない。
そうだよなぁ、根源性論者は時代の変化とは一切関係なく、無時間的意識で根源性の牙を磨いている。わが国国民の不幸になってはいけない。佐藤のこだわる理由はここにある。
だから、ぼくたちは「選択」して生きていくのではない。どうやって「生み出して」いくのか、選択の進路は論理的に従属する。生み出していくことは知の創造である。根源性論者は得するのだろう選択を選ぶ。自分で生きていく力がない。現実に苦しみ、そしてもがき、誰でも自分の道を生み出し、見つけ出して生きている。
ブンドの敗北の原因はこれら「人間観」であったと佐藤は総括している。
だから、連帯できないのだ。諸民族と連帯できないのだ。不幸は続いている。
世界と連帯するM.Jと絵画的イメージが一致している。マイケル・ジャクソンのDVDを観て、「Heal the World」に共感した。テレビでのM.JのDVDは終わった。かつて、ある友は酒は悲しいときもうれしいときも裏切らない、と。だが佐藤にとって酒は舌で味わうことはしない。希望として天空の雲の上を昇りたいのだ。人間には二つのタイプがある。
わが国に仏教伝来があったそれ以前、仏教の聖人は自力本願と他力本願について分かっていたと思う。文字通り理解していいと思う。人間には二つのタイプがあるのか?
ここでは自分たちの子どもをどう育てるか? 親が子どもをどう育てるか?
育児書は氾濫している。自力本願の子を育てるか、他力本願の子を育てるか?
育児書をパラパラめくってみると、すぐ分かる。強い子とか、弱い子とか、そんなことは関係ない。ただ困難に立ち向かう激しい強いこころを親は育てることができるか?
20代でこどもを育てることはむずかしい、と思う。自分たちがどう生きていくか、自分はどんな人生を生きていくか、育児書を選ぶ力が今の親にあるのだろうか?
佐藤の求める育児書は精神的なものだが、行間がすきだらけでそこへ子どもが逃げ込む、安易な生き方、言ってはいけないことだと思うが、どうやって自立する強い精神を子に与えるか、自分が強くこの社会の現実と向き合い、それは学歴から生まれることではなく、本能として身についた、やはりしつけが、自分が自分で人生を切り拓いていく独立した精神を、はたして親は子に与えることができるだろうか? 義務教育の教師の「素質」に気になるのは佐藤だけではないだろう。独立無援には石橋を叩く孤独な自己責任がある。
そして結論として、workに生きる力とjobに生きる生き方と、やはり二つのタイプがある。
お母さんの背中を子どもたちに見せて、子どもに仕事のこころを伝えよう。
イラストは漫画家高橋さん(石の森章太郎先生の門下生です)
本来、博物館はどうあるべきか、子どもたちに衝撃的な関心を与えるのも展示の仕方である。それは仕事の喜びがこの生産現場にあって、どのように仕事をしているか、自分で興味を持つことでもある。
一般的にメディアで取り上げられるのはメディア関連の仕事と話題になった仕事に従事している職業人が多いが、市井の職場や伝統産業の仕事場やテレビの組立工場でもよいが、どんな仕事場で、何を考えながら仕事のどこに関心をもって、どこに仕事の喜びを感じ、親のように仕事をしたいか、いろいろな仕事を見つけることであるが、子どもはどこに関心をもつか、展示は演出しなければならない。
今回、佐藤の手術も、医師による医療精密機器(道具)による医術と操作(オペレーション)の成果だったと思う。病院のチーム医療を体験してきた。
ここにはすべての現場には、生産の工程と仕組みがある。ここに一貫して流れているのは、生産の工程という生産の仕組みだ。ひとつの現場を見てみると、こんなふうに工夫してこの部分の仕組みが成り立っていることに気づく。それを生産の関係と生産工程を仕組みとしてとらえ、その時代の技術の精華が精神の物象として表現されていることだ。こういう博物館は日本にはないだろう。
佐藤もイスラエルで西暦以前の機織機(はたおりき)の古代の生産と分業システムの展示を見たことがあった。これは極めて社会科学的な視点であるが、モノづくりの視点と統合させて展示されるとおもしろい。ここに当時の分業という意味がドラマチックに物語(ストーリー)として描かれ、展示(演出)されている。
当時としては進んだ最新の生産現場であったことが分かる。自分はこの仕事がしたいという夢が与えられるのか、人間の物象化が欠落した博物館ではおもしろくない。あるひとつの工程に焦点をあて、全体の仕組みに制限があったとしてもどんな工夫と技術がそこにあるか、仕事が楽しいという夢を子どもに与えることができたらと思う。
マルクスのいう物象化は日本人にはわかりにくい。西欧とアジアとでは物象化の観念は異なる。トランスクライバーのイギリス人のTさんはある国立大学のポスドク後、国立大学研究員を、その後私立大学へ勤務し、ある現象を見て日本人はどんなことをイメージするか、そのことばの集積を分析している。国立大学では心理学的なアプローチから物象化を研究している。しかし、大学側に理解していただけるだろうか? 日本人らしい物象化を把らえようとしている。西欧においても古い物象化の観念は開発途上国、後進国の人類学的視点から哲学的アプローチをしてきた。宗教のその観念(怯えや怖れなど)もある。封建制と現代とは、この観念には多少の世代による相違がある。佐藤の学生時代はアジア的生産形態としての概念があったが、研究者本人が物象化についてよくわかっていない。
博物館で見る物象化について述べてみたい。人間社会のことばにならない観念像である。
西欧においては当たり前でなんの疑問もない。古来からの人間社会の習わしであったのである。物象化の人間の観念とは、たぶん男と女の生産工程(分業)の役割分担にみることができる。観念が習わしとして含有している。小規模な生産現場において仕事の流れは男の仕事と女の仕事(分担)の役割があった。仕事を出すのは男の役割、それを受けるのは女の役割。
グローバル社会になってアジアにおいても変化していくだろう。だがどの民族にもよく理解される側面(観念のかたまり)をもつ。男の役割と女の役割による生産工程(分業)の立ち位置が決定される。
「出したもの」を「入れ」るのは女の役割、「入れたもの」を「出す」物象化の原理は男の仕事と女の働きの納得できて理解できる生産工程の配置が必要である。
「出したものは入れねばならない」、次に「入れたものは出さねばならない」、こうしてつないでいくのも延長の概念である。物象化の本質という。生産工程・生産関係が人間の観念の「意識」の土台となることが多い。生活に根ざしている。子どもの環境の自然や土地柄や場所、両親の影響という家庭環境において、子どもの意識はつくられていく。
この物象化の観念は電子機器の結線によくあらわれている。インターナショナルな製品になる。outからinへ、inからoutへ、こうして延長していく。この「入れポン、出しポン」のリズムをつなげて、目詰まりをおこしたら転換させなければならない。転換の出す人は男の役割、入れる人は女の仕事、こうして役割をつないでいく。転換は知恵と工夫が必要だろう。イノベーションはここに生まれる。「出して」目詰まりをするのは不健康だ。対策をとらねばならない。
人間社会はつながっているが、仕事を取ってくるのは男の仕事、それをさばくのは女の仕事、金(カネ)を入れて男が集める、こうしてぐるぐるつながっている。
ドラッカー先生の形態的世界観は物象化が根底にある。デザインなどの芸術の知覚的認識、人文・社会科学などの観念や概念的認識、社会生態学なども含まれる。
理工学系の研究者によって生物の構造と本能に結びついた諸器官の物象化から気づき、ヒントや関心をもち、創薬が生物の形態から諸器官の働き(機能)を人間の疾患に対する有効な新薬としての研究をしている。いろいろ新薬が開発されようとしている。
ロボット工学者がロボットを開発している。形態に現れた生物の形をヒントにして、地震災害へ対応する災害ロボットも開発されている。
これらは物象化の本質といえる。広い意味で生物的世界観でもある。デザインされた毛皮(化学繊維)をコートにして着こなすのも形態的世界観の現われだ。
21世紀わが国に生まれた生物的世界観、形態的世界観といえるだろう。
企業の研究所は知識経済の拠点となり、ものづくりが人間社会の知による発展の場に変わる。技術の基礎・基本から新製品の知をデザインする知のあり方が問われる時代になったのである。
20年前、ぼくたちは社会生態学に学んでいる。
生物多様性の年だが、国際社会が問題意識をもって多様な生物的世界観が生まれるだろう。人間との共生は生物が知の源泉として生物の物象化にもとづいて、人間の暮らしが自然の保護や生物多様性など工業(単純)化社会と異なった新しい人間社会史のあり方を模索し始めた。ここでいう工業(単純)化社会とは、わが国の高度経済成長期と考えてもいい。
知識経済社会は広義にとらえ、知のあり方も事物の物象化として知識の性格も変化し、こうして物象化は手段となる側面も出てくるだろう。
物象化の観念の働きは、芸術家と彼の作品から学ぶ。
日本社会においてこうした観念が希薄だが西欧においてはかつては意識的だったと想像する。西欧における強固な専門職意識は日本人の総合職意識との対比において顕著に現れる。わが国において西欧の観念的な合理主義の移入が総合職を生み、このほうが経済合理的であるのかどうか、西欧のこだわりとわが国の合理的カイゼンが西欧に逆流しているのかどうか、根無し草のことばの原理主義が移入され日本的に定着していく。形があって形のない観念が広がっていく。
西欧において男女平等は役割を意識した土壌の中で平等の権利が生まれ役割分担していく。男女平等参画社会という概念はどこから生まれたのだろう。佐藤には自然に生まれたとは思えない。
「対等なパートナーシップ」の把握においても多くの日本人的観念に違和感をもつ。本局において子局(女子)との「対等のパートナーシップ」とは、この概念を守る・保護するのが本局の仕事。保護されるのは子局。保護するのは「仕事を出す側」「保護されるのは受託側」。悪意があるかないかは別として、利用するからアウトソーシングになる。観念が形をつくる。本音を測定せよ! 政治的なパートナーシップはどうあるべきか? 相互の信頼をいかに生み出すか? 同盟をうたうならどのようなパートナーシップの姿か。民主政治では国民が決定する。レディーファーストはいかに生まれたか? イスラム社会ではどうか? アジアでは? 現代人間社会で概念的には男子と女子は真に対等なのである。歴史的に獲得してきた。概念を分析することはできない。形が結果だ。
西欧においても16世紀には貴族の子女は読み書きができた。この歴史的側面は16世紀まで生産工程に影響を与えただろう。ルノアールに本を読む二人の少女の絵画がある。階級社会であったし、こうした要因も生産現場の特徴を示した。博物館の分業のおもしろさは時代の歴史的な背景もある。博物館づくりには時代考証も必要だ。子どもたちが学べるようにしなければならない。映像を超えた刺激を演出しなければならない。
世界へ進出するわが国企業の生産現場はどのようにつくられていくのか?
このような生産工程が描かれた物語が呼びかける博物館であってほしい。
まったく単体(道具・工具等)がバラバラに羅列展示されていては、生産工程の仕組みは見えない。道具である工具をどのように選んで加工するか、工具の使い方とその知識と技術が展示されていなければならない。
当時のお仕事がどんな知恵と工夫で行われていたのかを、博物館が展示しなければ学習にならない。夢のある子どもの見学に応えられるような展示の工夫が必要だ。
(平成21年9月21日 「営業情報」に投稿)
ドラッカー先生は、「知識と技能では変化のスピードが違う。スペインのバルセロナ近郊の博物館にはローマ時代末期の道具が展示されている。それらのほとんどが今日のものとはほとんど変わらない。今日の技能者にも一目でわかる。かつては一七、八歳までに修得した技能で生涯やっていけたということだった」。古代を学ぶことと、現代的博物館とでは学習する視角は異なる。現代の生産現場の生産チームが形成されていく過程(歴史)を見学のポイントとして描くことも大切だろう。
中高校生のモノづくり教師の育成について東京学芸大学で来年度の教育活動として製造現場を実体験できるコースを開設する。子どもの職業観を育て、技術史や工業デザインといった専門知識を教育するという。
小学校、中学校の修学旅行に変化があってもいい。「見学のしおり」をつくることもこのコースにあっていい。現代博物館といえる企業の工場を見学することもあっていい。
多様な知識が知識経済社会をつくっていく。地方から都市を修学旅行の日程に入れてもいい。子どもたちは新鮮な刺激を受けるだろう。
大人が海外へ行って受ける刺激のようなものを、子どもたちに与えなければならない。
ここではものづくりに焦点をあて、テーマが学べる博物館であるので、「仕事って、どんなこと」、「なぜ仕事するの?」、「こんな仕事をしたい」と思う刺激を与えることが大切だ。
こうした刺激は「仕事はどんなふうにするの」、「仕事でどんなものをつくるの」、反対に「こんなものを私もつくってみたい」、「こんな自分になりたい」、「どうしたらこの仕事ができる自分になれるの」、未来の希望を子どもたちに気づきを与えることが教育には必要だ。
誰でも成人に近くなると「私は誰か」と自問するようになる。
この問いのない時代は同化模倣の時代である。同化模倣とは生活習慣で食事の仕方から入浴の仕方、そこから使われることば、男子と女子の習慣が仕事場にも現れてくる。
物象化と同化模倣は子どもが成人になっていく過程でもある。そして、その民族の成人になっていく。家庭の環境を超えて自問していくのも、この時代である。
「私はどう生きるか」、生きることへの問いかけも始まっていく。
しかし、これ以前の小学生にものづくりの何を教えるのか?
平成22年1月20日日刊工業新聞は、「iPS細胞に倫理的課題」で「生殖細胞の生成はもっとも倫理的な課題になるとし、基礎研究として進める中で最終的に精子と卵子を受精させて調べる可能性がある」と、報道された。
なんでもそうだが、この新聞記事を「近代経済学者に倫理的課題」と読み替えてもいい。
チャーチルはこの経済システムが最悪のシステムと言われたようだが、取り扱いにはどこに哲学的で倫理的な視点があって、自ら悩み知識の性格が手段にかわろうとしても、そこに人間の生を見てどのように設計していくか、実は子どもの教育とはこの出発点を失ってはならないだろう。
どうやってものづくりを通して子どものこころを養生していくのか?
出発点がわからない。
ドラッカー先生は、「最近、企業や政府の計画立案において、シナリオの果たす役割が大きくなった。シナリオもまた知覚的な認識である。もちろん、生態系なるものすべて、概念的な分析ではなく知覚的な認識の対象である。生態系は、全体として観察し、理解しなければならない。部分は全体との関係において存在するにすぎない。
今から50年前、バーモンド州のベニントン大学の教養課程において初めて、絵画、彫刻、陶芸、音楽などの芸術が、自ら創造するものとして教えられた。大学教育の伝統に反することだった。厚顔にして異端のイノベーションだった。しかし今日アメリカでは、ほとんどの大学がそれらのものを教えている。
40年前ほとんどの人たちが、抽象画を認めなかった。今日では、現代絵画を展示する美術館や画廊は、おそるべき盛況ぶりである。それらの価格は記録を更新する一方である。現代絵画の特質は、絵を描く者が見るものを表現するところにある。それは描写ではない。意味である。」(『イノベーターの条件』246頁 ダイヤモンド社)
佐藤の直感に先生は大きな問題を提起しているのではないかと思った。
それはこれまでの西欧哲学に代表される論理的な分析的な概念文化にアメリカ人が何かを感じとっている。それは断言はできないが、西欧人の「もがき」なのか、ある直感を嗅ぎ取っているのか、概念世界から解放を求めているのか、ドラッカー先生も現実社会に対して芸術家の直感を感じ取ろうとした市民の知覚的認識という感覚にふれて、あえて記述したのか、現代という時代の市民の観念のざわめきなのか、本来なら芸術がいちばんよく表現してくれる。
ここにはことばはいらない。しかし、言語的に認識しなければならない。
アメリカの家庭には芸術を求める市民のざわめきが、現実的な経済的を超えて精神の在る、そこを見つめているのか、芸術家が何者にも拘束されない精神の自由にこたえる現実があるのか?
子どもたちにこれを伝えたいのだ。しかし、伝えることばを佐藤は持たない。
日刊工業新聞2009年(平成21年)10月30日
モノづくり教師育成
東京学芸大、来年度コース開設
初等教育に演習科目 製造現場も実体験
【立川】東京学芸大学はモノづくりを教育活動として企画できる教師を育成する教員養成コースを2010年度に開設する。小学校の先生を目指す初等教育教員養成課程に各学年10人の定員枠を設ける。講義を選択性とし国語や算数などの学生にも門戸を開き、教科を超えた横断型の講義を予定する。企業とも連携しモノづくりの現場をカリキュラムに取り込むことを検討している。
新設した「ものづくり教育選修」は4年間を通してモノづくりをじっせんしする演習科目を設ける。自らの設計や部材の調達を行い、子ども向けのモノづくり体験授業を構成できる人材に育てる。
技術や美術、建築を専門とする大学教員6人が指導し、遊びや学びの中にモノづくりを取り入れ、子どもたちが創意工夫する仕掛けの作り方を身に付ける。具体的には、竹とんぼや凧(たこ)など玩具を自分で作って遊ぶ面白さを伝える仕掛けのほか、社会科目で習う土器や古墳を実際に造ることで学習を深める仕掛け作りができる先生を育てる。
子どもの職業観を育てるために技術史や工業デザインといった専門知識も身に付ける。企業の協力を募り講師の派遣や工場見学などを行い、職人の技能や技術のシステム化など製造現場の最新事情に触れる機会を設ける予定だ。
文部科学省の「質の高い大学教育推進プログラム」に採択され、08年度から国内外でモノづくり教育の調査を開始。フランスやスウェーデンの活動を取り入れ、専門家を海外モニターとして専修科目を評価する体制を構築している。
日刊工業新聞(平成21年12月22日)
SRS・ラボズ・ジャパン
音の広がり立体的に
3Dオーディオ技術で対日攻勢
音響製品や携帯向けなど 組み込み需要開拓
SRS・ラボズ・ジャパン(東京都新宿区、八巻明社長、03・3345・6720)は、音の方向や広がりを立体的に再生できる「3D(3次元)オーディオ」技能を日本で展開する。2010年から知的財産(IP)をライセンス供与するかたちで、営業活動を本格化する。臨場感ある音を実現する技術として、テレビや音響製品、携帯電話向けなどの組み込み需要を開拓する。
3Dオーディオは聴取者の正面、背後、前方左右、後方左右から包み込むように音が聞こえる「6・1チャンネルサラウンド」を実現する。再生機器がスピーカー二つの構成でも後ろから回り込んで聞こえるようにして擬似的な6・1チャンネル環境を再現する。
3Dオーディオの仕組みは、放送機器からデータを送出する際に、最大6チャンネルの音源をエンコード(符号化)、2チャンネルのデータに変換して伝送する。2チャンネルのデータは従来のステレオ方式の放送機器や伝送機器で送出でき、このデータをテレビなど対応機器で受信した後、元の6チャンネルにデコード(複合化)して再生する。送出側と受信側との間は低帯域のインターネットを介しても可能だ。
営業活動では11年の量産を計画する新製品に対し、仕様が固まる前段階で採用を促す。薄型テレビのほかパソコン、携帯電話、車載用機器を重点的に攻略する考え。
IPを半導体チップに組み込む形で提供する。採用製品は「SRS」のロゴを表示し、音質の良いブランドとして認知させる。イベントなど開き、一般ユーザーへの告知活動も本格化する。
SRSは米カルフォルニア州に本社を置く、音響処理技術の研究開発企業。10月に日本法人を設立した。音響音声技術をライセンスとして供与。IPは150以上を保有。IPをさまざまに組み合わせることで、パソコンやテレビなど製品分野に適した31種類のソリューションをもつ。
現実社会の情報一般というか、プログラムされていないものはデータという。このデータを「どのようにしたいか」、というプログラム??バイオテクノロジーにおいてはタンパク質といい、たとえばすでに発行された書籍のリニューアルによる再発売の元になる著者の書籍は、「データ」にすぎない。ぼくたちは取材第一稿としてトランスクリプションをつくっているが、データはトランスクリプションといえる。
一方、トランスクリプションからプログラムして産出されたもの、ここでは専門業務によって産出されたものは問題解決としての一般にソリューション(編集)といえる。
ぼくたちはこんな仕事をしている、そこには営業種目があるが、お客様の多様な願いである目的の事業をソリューション(問題解決)といえるし、メディアミックス&ソフトノミックス/にもソリューションの働きで収益をあげている。
ソリューションの目的は、今日、デジタル化による方法である。
取材第一稿としてのソリューション。古い書籍のデジタル再生原稿は編集前(プログラムされていない)のデータにすぎない。
このデータというバイオテクノロジーにおいてはトランスクリプションをどのように料理するか、それがプログラムである。このプログラムをつくることが新規事業ともいえるし、新製品の生産方法ともいえる。こうして商品として実現することをソリューションともいう。
わが国のものづくりの特徴はかつて欧米人が日本人に「これを考えてやってみれ」と言われると、器用にアイデアを出して実現してきた。論理はなかった。いまわが国の製造業の自慢のできない理由は、論理がまったくなくて器用にものをつくってきたという日本人の知恵と工夫である。欧米人においてはその器用さに驚き、この文化の複雑怪奇な民族の知恵に驚いたことだろう。こんなものは伝承できない。しかし、やってきたのである。
日本人のものづくりの不思議と佐藤は思う。論理とは別世界の出来事だ。
設計技術者は他社の発売された商品を分解し、その方法を真似た。器用にアイデアと改善、工夫、知恵でものをつくった。これは大企業において過去の出来事であったかもしれないが、今は欧米とわが国の知識と知恵の交換は身近な関係にもなっている。
しかし、なぜ欧米人と日本人には相違があるのか、それはただひとつ、思考の論理が違うことに気づいていない。わが国の技術・技能者は科学的な知識の学習によって器用さだけではなくなった。
まず論理においてトランスクリプションとトランスレーションの整理をすべきだ。
頭に現実がこびりついてそれが生き方そのものになっている。佐藤は一般に弁証法である現実的・歴史的本質、理論的本質、実践的本質へと三段階の思考を一瞬のうちにアウフヘーベン(止揚)した思考をしている。あるいはものには本質・形式・要素・目的によってものはつくられる。炊飯器、洗濯機、掃除機など。つくられることをソリューション(問題解決)という。何度も言うように、ソリューションとは(新)事業種目に数えられる。
この項のテーマは論理的な思考を適用することによって、「情報をプログラムをし」ソリューション(問題解決)することである。
新型インフルエンザに関する情報を集め、新型インフルエンザにどのように適応することによって健康を守るか??自分で考えをまとめることである。自分の考えである目的がどのようにしたらソリューション(問題解決)するか? 疑問があったら専門家と相談する。相談の仕方は前回弁証法の適用を公開した。
たくさんの情報の中で特定したほうがいいが、自分が身体の調子が悪く近くのクリニックへ行ったとして医師にどのように症状を訴えるか、その訴え方をありのままに、正岡子規の「写実」的でもいいし、現実をあるがままに描写する。医師は診察の経験と傾向、医学的知識(ちょっと難しいが、理論的本質はさらに弁証法第二段階で同じように現実的・歴史的本質、医師の知識である理論的本質、そして医師の診断である実践的本質)で判断してくれる。
自分に分からないことは専門家に聞いてみる。自分で調べても調べられることはあるだろう。自分の判断の指針にもなる。
この弁証法と論理的思考を組み合わせて適用しながら考える。
自分の観念とベタついた思考のことばではなく、自分の外からの知識を学習する。外からの知識の自己への注入以外、自己をけして変革することはできない。
細かくいえば、企業の営業マンになるにも文系と理系の融合した知識が必要だ。
新聞記事がこうしたことを教えてくれる時代に変わっている。
今回は物象化の観念についてテーマとしたが、観念と認識の相違をもって読まなければ混乱してしまう。芸術と認識は異なる。
なぜメディアミックス&ソフトノミックス/には女性が多いのか? 事業の出発も1988年以前のOLを経て、結婚され、子どもも保育園や幼稚園、小学校といくようになって家庭にいた潜在的な高学歴女性を組織することから始まった。しかし、佐藤の観念には物象化の思想を認識していく過程でもあった。女性の特性を活かし、しかし、今日まで女性を一切特別視しない。独立・自立した市民の働く場であって、ここには佐藤の言う物象化の論理を生かした。この論理とは認識されたもので、「入れたものは出さねばならない」「出したものは入れねばならない」この論理が循環していることである。そして、顧客に届けていく論理になっていることだ。組織(組織の装置)が、目詰まりなく自然に循環していることである。好循環をうむ力になる。力とは原動力だ。
佐藤には西欧における物象化の観念が論理の土台となっている。
ドイツやフランスの思考の文化というよりもアメリカ人の思考の特徴についてホームページへ投稿した文章の書き方の特徴というものに若干の関心が生まれてきました。
日本人の思考停止症候群のひとつに「バランス」と「足して2で割る」独特の思考方法について思考停止症候群の特徴と考えていますが、自民党政治の特徴でした。
自らの思考から突破する思考力をもたず、そこで停止する日本人のものの考え方がどうも気になっています。
ドラッカー先生はマネジメントとは務め、責任、実践といいましたが、このようなことばを使って、羅列して表現していく発話などがこの不況後にはテレビのニュースや新聞のニュースでときどき出会うようになるでしょう。グローバル社会でニュースが国際的になり、外国人の発話がスーパーとして文字化してテレビ画面に現れてくると思います。
パートナーシップとコラボレーションが曖昧なことばとして使われていた時期からコラボレーションが一般的になってきました。コラボレーションは協業ということでパートナーシップは夫婦による役割分担とでも言ったほうがいいと思いますが、パートナーシップの起源についてはホームページへ投稿しています。たぶん佐藤の記憶では、毎年正月に出すSOHO知識労働者の歴史的現在で説明しました。こうした理論はわが国では見当たりません。
今朝のテーマである「ことばの羅列」をもって「コンテンツ」というテーマを説明するのにアメリカ人の思考方法は日本人には何のことかわかりにくかったと思います。
わかりやすくいえば、マネジメントの起源はパートナーシップの起源と同じです。ここには理論的背景は同じですが、こうしたことを簡単にことばを羅列することによってそのことばの世界を表現しようとするのでしょう。日本人はバランスということばを使ってすべて曖昧にします。思考停止するのですが、前回投稿した文章のドラッカー先生の著書に医者は独身では開業できなかった。結婚した既婚者の医師が夫婦二人で開業できたことを話されていますが、SOHOといってもいいでしょう。パートナーシップの起源であり、マネジメントの思想が根付く関係ですが、ホームページにある「組織の価値、使命、目的であるビジョン」ということばの羅列がその組織のミッションと目的を表現しています。マネジメントは夫婦関係としての務めであり、二人の、パートナーの責任であり、そして実践だと言っていますが、マネジメントの概念が日本人にわかっているかというと、わからない人が多いと思います。
ここには思考の働きには本質、形式、機能・要素・働き、目的があって現象は自然界や社会で運動という働きを行っているのですが、やはりこうした見方が前提になければこうしたことばは羅列できません。人間の感情によってものを見ていけばさっぱりわからない観念の世界で現象の世界ではありません。結局、佐藤は日本人の書いた日本語の書籍からは気づくことはできなかったでしょう。佐藤は最近の日本人の思考停止症候群が病気として気になっており、ここを突破した延長と考える現象の概念把握が佐藤の今朝の気づきです。こうした気づきを積み上げて自分で書いた文章から自分の気づきをさらに発展させることができます。自分の書いた文章が一番自分にヒントを与えてくれます。こうして自分は成長していくのですが、あまり日本人はこうした訓練が足りないような気がします。こうした思考は自分の思想を生み出す契機にもなり、自分の探している世界をみつけることもできます。
そしてもうひとつ、現象の働きは生成、成長、発展、成熟、衰退、消滅、残滓という現象の経過をもつものですが、近代経済学はこうしたものの見方をしません。社会の中の現象には時間が大きな哲学的テーマであり、時間を考えない考え方は空論といえます。こうしてぼくたちは歴史の中にいることを自覚するのですが、歴史を捨象した現象の理解が本質を見失ってしまうのです。
最近の日刊工業新聞の報道によると、生命科学において母細胞の分裂は老化という時間経過の中で娘細胞へ受け継がれ娘細胞の分裂へと遺伝していくようです。老化という時間の経過は現象の変質ですが、細胞の本質が遺伝し、弁証法的にはここに内容(本質)と形式のせめぎ合いがあり、娘細胞の変容を見ることができるだろう。
近代経済学は時間の経過を捨象しているため、思考を停止しているため、論理的未熟をもつため変容の集積がもつ変質を見失って知の敗北をここに見る。
こうした考え方からドラッカー先生の知性に学んだのですが、これらを立体的に捉え、そこにある現象という働き、それは要素であり、機能ですが、ものごとの現象が存在する働きの概念になることばを見つけて羅列していくと、それはそのことばのもつ意味を表現することができるのではないかと気づきました。ここに概念世界の大道ができる。時間という哲学、空間という異なった場所における相違、差異、区別と、ゆえのその統合。分裂が分裂を生み出す論理としての知。結果として自己の働き、完結する機能、実践的本質の働きという老化。今朝はここまで。
(平成21年10月20日 web「営業情報」に投稿、加筆しました)
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わが国の経済は深刻な経済危機のトンネルの中にある。しかし、新しい社会へ向って徐々にではあるが向っていくだろう。ドラッカー先生の予言に小社は従ってきた。そして、考えることを考え、気づき、工夫し、だがドラッカー先生の経営哲学に学んだ。まったく新しい社会にまだ気づいていない者も多い。
いま立ち止まり行かねばならない社会へ向ってふたたび歩き始めようと思う。
佐藤は先月9月下旬、先生のご著書を読み返してみた。
本書の第4部を一読されたい。
第4部 社会か、経済か
第1章 社会の一体性をいかにして回復するか?
第2章 対峙するグローバル経済と国家
第3章 大事なのは社会だ――日本の先送り戦略の意図
日本についての五つの謬説/正しい仮説/天下り問題/官僚の力/エリート指導層の耐久力/民主主義下の指導層/代わるべきもの/先送り戦略の成功/行動の失敗/金融機関の傷/崩壊の危機にある社会契約/系列に代わるもの/大事なのは社会だ
第4章 NPOが都市コミュニケーションをもたらす
都市社会のゆくえ/田舎社会の現実/都市社会への夢想/都市社会のコミュニティ/職場コミュニティの限界/NPOが答え
普遍的な民主政治のあるべき姿について国民の一人として強い関心をもつが、個別企業、個別業界の利益誘導については監視し続ける。
が、政治的発言については極力抑制的でありたい。だが、今後数10年間、自民党と公明党に期待するものは何もない。政治家の魂であり、政治的理念として民主党は新しい政治のあり方を模索されるよう望む。それは新しいNPOの働きである。
知識労働者の新しい未来がここにあるし、立派な働きができる。
この金融危機に反省のまったくない利己的商人と良心のない資本の論理を語る、いわゆるエコノミストの政権接近については極力排除されるよう真の国民本位の政治を望む。
その通り、政治と経済のあるべき関係についてその哲学を探求せよ。
過去の「バランス」から知識経済社会はけして生まれない。民主党の政治理念として、「その価値、使命、ビジョン」に誠実であれ。
ホームページでも一、二度ふれているが、佐藤の青春時代はおもに翻訳書を読んできた。
しかし、日本語から学ぶ思考の特徴はときにひとつの大きな概念で説明し、その概念にある知が分裂し細分裂する論理の思考を停止し、その概念世界として曖昧にしてしまう論理性の欠如におちいっている。この日本語を使って、そこにある言語世界のことばにすべてを収斂してしまう思考停止症候群という日本人の性格を、佐藤は気づいていた。論理性の欠如とはここにあるが、知や感情を平面でその知の分裂の構図を見て、表現ということばのひとつひとつを広く、深く、さらに幅広く、その多様なことばを使って表現していくことに不慣れなのが日本人の思考の特徴だと思っている。たとえば上記の「バランス」は現代の用語として曖昧さのことば(象徴)となっている。知は分化し、細菌のように細分化していく。知的な探求とは知の分裂なのである。
ドラッカー先生は日本人が好むことばという概念の共同幻想の概念イメージにふれないで、概念の世界を用語という固有の概念で羅列していく特徴がある。
先生はこの原稿にも再登場するが、いまここではバランスということばを使った思考ではなく、先生が使ったことばで「その価値、使命、ビジョン」というふうに佐藤は使用した。先生に手伝ってもらったが、日本語を使う「達人」は思考停止症候群におちいって自分の感情の塊りの日本語をみつけているように思える。おもに性悪説論者はこころの深淵な感情の周りを自己防衛し愛撫してことばを探し、これは未来の知識文化を海外に発信していくうえで適切とはいえない。日本文化の伝統なのである。現代文学もここにおちいっている。自己の中にある愛撫すべきものを否定せよ。転倒しているのだ。神の正面を向いているか、神への反抗であるか。人間社会で「愛撫すべきもの」はすべて自分の外にある。あなたが自己分裂して崩壊してもそれはあなたの生き方だ。知と思考の根源はここから発する。わが国における新政権の登場とパラダイム大転換の思想的核心なのである。
民主党連立政権はスタートして1カ月も経っていない。マスコミも対応を模索している段階だと思いますが、しかし新法務大臣に対する思いを述べてみたい。
わが国憲法を中心とした法律体系は人間社会史のあるべき方向を第二次世界大戦の反省から国民も受け入れた。性善説か、性悪説にもとづいて法体系はできている。ここではこうしたわが国における憲法にもとづく法哲学体系と一応しておこう。
千葉法務大臣に言いたいのは、結局佐藤の思索の行き着きつつあるところは、性悪説の取り扱いについて、死刑制度をこのまま温存しなければならないという現段階の歴史的現在の苦悩であることに、結論は「そう考えたくはないが、死刑制度の廃止など早まった行為に出ては不安が大きい」ということである。悲しい社会の現実なのである。
千葉法務大臣がどういう方かよくわからない。
これはヨーロッパにおける市場の取り扱いとわが国の新聞の気持ちや道徳なきエコノミストの現状について、再び経済システムの破綻を繰り返し、それゆえ、今後も国家という破綻が数カ国は出るだろうと危惧している。いまこの経済システムの破綻によって各国は保護主義反対を建前として国民の血税を使って天文学的な血税を投下している。言い分は経済システムの再生、ということだけでは許されない。多くの世界の罪なき人々を苦しめ、それは武力による戦争の悲惨と同等なものだ。それに対する反省のはっきりした声は聞こえない。相変わらず言いたい放題だ。
死刑制度の廃止については慎重であらねばならないと思うその思考上にあるのは、「社会」という冠をつけた市場でなければならないということだ。
そうだよなぁ、道徳や倫理を無視するのが資本の論理だよなぁ。近代経済学のそれで成り立っているような、それは真の自由主義ではない。自分で企業は責任をとったか? 他力本願で株式市場でカネを集めれば解決するよなぁ。
経済の成長戦略がないとわめく。歴史的大転換期に相変わらずの古ぼけた頭で「カネの勘定」だけが人生と社会だとヒステリックに繰り返している。
いまや歴史の流れに抵抗する勢力の色彩が強い。自分たちの言い分を自民党政治はねんごろに対応した。
新しい経済システムの再生のためには国家による新しい経済の「死刑制度」が必要だ。
人間が理性をもって人間として生きていかねばならないこの人間社会と歴史の苦しみをともに生きる苦しみとして、メディアミックス&ソフトノミックス/は自らの生きる道を歩んできた。上記のヒステリックな勢力の中で自分たちの歩む道を探してきた。
ピーター・ドラッカー先生を人生の師として、佐藤正明は生きてきた。
知識経済社会の中で生きていく棲家を手づくりしてきた。
人間に対する愛をもとうとすれば死刑制度は佐藤のこころの底ではほんとうは否定的だ。
だが、性悪説にもとづくヒステリックな声が言いたい放題であれば、「死刑制度」は温存しなければならない。
死刑制度とは国家と人間社会の掟なのである。
また国家の価値、使命、ビジョンがあって、はじめて経済システムは正常に働く。
まずはじめに「カネの勘定」からスタートする商人の不道徳と非倫理について反対に知識経済社会は道徳と倫理をもつ新しい社会へ変わる。21世紀真の自由な社会を目指し、ぼくたちは知識経済社会を建設していこう。
そして、教師を含む学校教育の改革が必要だ。人格教育へと変革せよ! 知識経済社会の土台とならなければならない。知識労働者として教師には「継続的教育」が必須だ。
増大する知識労働者(20頁)
第一次大戦以前は、肉体労働以外で生計を立てている者については、それを表わす言葉さえなかった。サービス労働なる言葉が生まれたのが一九二〇年前後だった。この言葉は当時から曖昧だった。今日、肉体労働者でない者のうち、本当のサービス労働者は半分もいない。先進国社会でもっとも急速に増加している労働力は、サービス労働者ではなく知識労働者である。すなわち、仕事に正規の高等教育を必要とする人たちである。アメリカでは、この知識労働者が全労働人口の三分の一を越えた。実に工場労働者の倍である。二〇年後には、先進国では全労働力人口の四割に達することになる。
知識産業、知識労働、知識労働者の三つの言葉は、いずれも生まれてまだ四〇年である。知識産業という言葉を初めて使ったのは、一九六〇年ころ、プリンストン大学のフリッツ・マクラップだった。同じころ、知識労働と知識労働者という言葉を初めて使ったのが私だった。今日では、いずれの普通に使われる言葉になっている。
しかし、まだ誰も、これらのものが、価値、行動、マネジメント、成果、経済、政治との関連においてもつ意味については、ほとんど理解していない。いまのところ、到来しつつある知識社会と知識経済が、二〇世紀の社会と経済とは異質のものになるということだけが、日々明らかになっている。
知識労働者とは新種の資本家である。なぜならば、知識こそが知識社会と知識経済における主たる生産手段、すなわち資本だからである。今日では、主たる生産手段の所有者は知識労働者である。
知識労働者は、旧来の意味においても資本家である。年金基金と投資信託の所有者として、知識社会と知識経済における大企業の株主、文字どおりの所有者となっている。
知識は専門化して、初めて有効となる。ということは、知識労働者は組織と関わりをもたざるをえないことを意味する。組織とは、多分野の知識労働者を糾合し、彼らの専門知識を共通の目標に向けて動員するための人の集合体である。
女性の活躍(22頁)
これらのことすべてが、特に女性にとって大きな意味をもつ。もともと人類の歴史において、女性の役割と男性の役割は同等だった。サロンの有閑マダムなどは、一九世紀の富裕階級においてさえ珍しい存在だった。畑、作業場、店のいずれであっても、夫婦で働かなければやっていけなかった。二〇世紀の初めでさえ、医者は独身では開業できなかった。予約をとり、患者を迎え、加減を聞き、請求書を書く妻を必要とした。
仕事の内容は男と女で違っていた。男の仕事と女の仕事があった。聖書でも水汲みにいくのは女だった。水汲みの男の話は一つもなかった。糸を紡ぐ男もいなかった。ところが、今日の知識労働の仕事はフェミニズムとは関係なく、男女いずれでも行ないうるがゆえに中性である。
とはいえ、史上初の知識労働は男女いずれかのものだった。一七九四年に、フランスのエコール・ノルマル(師範学校)の創設によって確立された知識労働としての教職は男のものだった。その六〇年後の一八五三年、クリミア戦争中にフローレンス・ナイチンゲールが生みの親となって生まれた二つ目の知識労働である看護は女のものだった。教職が男女双方の仕事になったのは一八五〇年前後のことであり、アメリカで看護学校の学生の四割が男となったのは、ようやく二〇〇〇年のことである。
一八九〇年代まで、ヨーロッパには女医がいなかった。ヨーロッパ最初の女医、イタリアの偉大な教育者マリア・モンテッソーリは「私は女医ではない。医者でたまたま女というだけだ」といった。今日ではこれと同じことが、あらゆる知識労働についていえる。性別と関係なく、知識労働者は専門家である。知識、仕事、基準、評価に違いはない。
新種の知識労働者――テクノロジスト(23頁)
医師、弁護士、科学者、聖職者、教師は、この一〇〇年間に増加したとはいえ、大昔から存在していた。しかし今日では、二〇世紀以前には存在していなかった新種の知識労働者が急速に増加している。それがテクノロジストである。仕事に身体は使っても、報酬は学校教育で得た知識によって決まる。
X線技師、超音波技師、理学療法士、精神科ケースワーカー、歯科技工士がいる。特に近年アメリカで最大の増加を見せた職業が、これら医療テクノロジストである。イギリスでも同じことが起こっている。
コンピュータ、製造、教育のテクノロジストも、今後二、三〇年の間に、さらに増加するはずである。弁護士補助職のような事務テクノロジストも増加する。かつての秘書は、いまや上司の仕事と事務のマネジメントに腕をふるうアシスタントという名の事務テクノロジストである。やがてこれら多様なテクノロジストが、あらゆる先進国において最大の層となり、五〇年代、六〇年代の組織化された工場労働者の地位を占めることになる。
知識労働者の特質は、自らを労働者ではなく専門家と見なすことにある。医療テクノロジストは、時間の多くを患者ベッドの整理、電話の応対、書類の整理など、さほど熟練を必要としない仕事に使う。だが、彼ら自身及び社会による彼らの位置づけは、学校教育で得た知識によって行なわれる。その部分が彼らを知識労働者として位置づける。
したがって、知識労働者には二つのものが不可欠である。その一つが、知識労働者としての知識を身につけるための学校教育である。もう一つが、その知識労働者としての知識を最新に保つための継続教育である。
医師、聖職者、弁護士など旧来の知識労働者のためには、正規の教育が何世紀も前から行なわれていた。しかし、彼ら最近のテクノロジストについては、体系的で組織だった教育が行なわれているのはごくわずかの国でしかない。したがって今後数十年にわたり、あらゆる先進国と新興国において、このテクノロジストのための教育訓練機関が急速に増えていく。
いままでとの違いは、社会人のための継続教育が加わるということだけである。これまで学校は、仕事に就けば終わりだった。しかし知識社会では、学校に終わりはない。
知識と技能では変化のスピードが違う。スペインのバルセロナ近郊の博物館には、ローマ時代末期の道具が展示されている。それらのほとんどが今日のものとほとんど変わらない。今日の技能者にも一目でわかる。ということは、かつては一七、八歳までに習得した技能で生涯やっていけたということだった。
知識は急速に陳腐化する。そのため定期的に教室に戻ることが不可欠となる。知識労働者のための継続教育がネクスト・ソサエティにおける成長産業となる。ただし、それが行なわれる場所は学校とはかぎらない。週末のセミナーへの参加であったり、自宅でのeラーニングであったりする。IT革命の影響も、学校そのものに対するよりも、この継続教育に対してのほうが大きい。
知識労働者の自己規定(25頁)
知識労働者は、自らの専門領域によって自己規定する。人類学者です、理学療法士です、と名乗る。たとえ働いている企業、大学、政府機関を誇りにしていたとしても、本当に属しているのはそれらの組織ではない。彼らは同じ組織にいる他の分野の者よりも、他の組織にいる同じ分野の者との間により多くの共通点をもつ。
知識とは専門化である。彼らは自らの専門分野では高度の流動性をもつ。大学、企業、政府機関を変わることに抵抗がない。今日、知識労働者の帰属意識の回復が論じられている。しかし、そのような試みはほとんど無益である。彼らといえども組織への愛着はもつ。居心地のよさも感じる。だが、その忠誠は自らの専門分野にある。
知識に上下はない。状況への関連の有無しかない。心臓外科医は言語療法士よりも高給であって敬意を払われるかもしれないが、脳溢血患者のリハビリに成果をあげるのは言語療法士のほうである。知識労働者が自らを誰かの部下ではなく自立した存在とみなし、かつそのように遇されることを求めるのはそのためである。
知識労働者にとっても、他のあらゆる人間にとってと同様、金は重要である。しかし、彼らは金を絶対的な価値とはしない。自らの成果や自己実現の代替とは認めない。仕事が生計の資だった肉体労働者と違い、知識労働者にとって仕事は生きがいである。
さらによりよい人生を(26頁)
知識社会は、上方への移動に制限がないという初めての社会である。知識は、相続も遺贈もできないところが他の生産手段と異なる。あらゆる者が自力で獲得しなければならない。誰もが無知の状態からスタートする。
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以下の文章は、宣伝会議『マスコミ電話帖』へ2000年以前に広告した原稿である。いま正確な年号は調べなければわからないが、当時佐藤の理論的立脚点であった。この文章はホームページの「在宅ワークとSOHO」に転用している。この理論的立脚点の背景にあったひとつの思いは、企業内教育を受けた者、既婚者の女性を採用し、35歳から38歳前後、職業生活から10年〜20年離れていた家庭の主婦であった。
独身者は採用しなかった。そして、1カ月の所得が4、5万円は稼ぐことができる可能性のある能力をもった者を採用した。
設立当時、独身者は日中連絡しても不在の場合が多く、すぐに仕事を与え、作業して納品できる状態にない者が多かった。いつでも連絡できて仕事ができる者は主婦が多かった。
しかし、独身者は生計をたて、仕事に依存し、信頼し、能力と実力をもった若い独身者は就職していた者が多かったが、最先端の実用知識を調べるには、当時まだインターネットの時代ではなく、辞書や現代用語辞典に頼ることが多かった時代である。こうした準備もできていた者は少なかった。そして、今日のようにコンピュータの時代ではなくワードプロセッサーの時代だった。
若い独身女性を採用するには勇気のいることであった。生計を依存するだけの能力と実力を求めていた。
この設立時からスタッフは自己の労働によって生計が成り立ち、依存できる力を求めたが、報酬料金その他の決定において二つの問題を抱えていた。
ひとつは仕事を獲得する営業をしていたのは佐藤一人だったし、十分な仕事量を確保しなければならなく、一方では仕事を消化できる能力と実力を求めた。
まだ会社としての力も安定していなかったし、不安も抱えていた。
設立から10年を過ぎた頃から経営も安定しつつあった。
この時代の10年間、女性が自立心をもって在宅ワーカーといえども能力と実力を発揮し、生計が成り立つ力を示すことができたのは数人しかいなかった。
企業社会一般の傾向をもつと思うが、当時は能力と実力を不安視する側面もなくはなかった。小社の力も優秀な人材を採用するだけの力もなかったかもしれない。
当時もいまも一般にサラリーマンの副業観は1カ月の収入が4、5万円という感じを持っていた。最大限妥協できるのはこの範囲の能力と実力だ。
独身者を採用しなかったのは生計が成り立つ力である能力と実力があると決断した時、採用に踏み切った。生計が成り立たない前提が予測されては採用はできない。そういう意味で生計が成り立たない非正規の雇用というのは、現代の新しい社会問題なのである。
以上の課題をもちつつ克服していった。
ぼくたちの仕事場は自宅だ。
一般企業のように同じことをしていれば同じ結果になり易い。在宅ワーカーなので、1日24時間対応し年中無休であれば、顧客の利便性が圧倒的に高まる。みなと同じ考えでいれば、同じ結果になる。在宅ワーカーの強みをよく考えることであった。みなと異なった区別された相違ある起業の心構えというか、SOHOでは「信用されないか?」。だからマンションを借りるか、それは起業した自分の考えの甘えが信用されない。考えの異なった自分らしい仕事の独自の型をつくることだし、仕事の真似は一切しないことだ。
1998年以降も自宅から外出してワークプレイスへ到着し、打ち合わせや会議に出席し、会社の責任者の話を聞くだけに企業の責任者はそのチームのスタッフ全員を職場に集める。それも電子メールで通知し、注意点の確認を本局へ通知することだけで事が済むことが多い。
専門職チームとして自らの仕事の領域にひととおりの知識をもっている。それでも会社に集まるよう指示される。鈍感だと思う。それは次の理由による。
2000年以前、こうしたことが時々あった。
そのために本局は1時間半の会議に日当(時給換算、自宅から出社、帰宅までの時給日当扱い)と交通費全額を支払った。それは知識労働者を動かす敬意の料金でなければならない。新しい社会がどんな社会か、知るべきもなかった時代であった。
また、ちょろちょろしたヘッドハンターの手がのびてきても相手にしないのは知識労働者はどこに所属し、誰から報酬料の源泉に対してこころにもち仕事をしているか、サラリーマンの多くはここまで想像しえない。
SOHO知識労働者の立場の原則であり、組織化されている意味で、一般企業社会とのコペルニクス的発想の転回といえる。設立時の1990年からこの慣行は続いている。
理論的立脚点に関する発表――
わが国における知識産業社会への幕明けと
2002年 小社SOHO知識労働者(ナレッジワーカー)の歴史的現在
1)SOHO知識労働者(ナレッジワーカー)の本質規定
小社の設立とともに形成の萌芽を持ったのは1988年であった。アメリカの知識労働者の誕生と期を一つにしている。アメリカ「ニューエコノミー」の繁栄は1985年頃つくられた。2001年わが国の現下の不況と同じであった。アメリカ企業の倒産、買収、合併、解体、整理、縮小は失業をもたらし、高学歴知識労働者は職探しの期間中、自ら知識を適用できる仕組みを求め始めていた。新しい仕事は以前より収入が減り、そして以前の仕事より楽ではないと感じた。知識なしには生産的たりえないと思い、知識という資本を所有し、パソコンという生産手段を所有して自己責任において生産できることに気づいた。これがアメリカ知識労働者のスモールビジネス(SOHO)の始まりであった。そして小社のような仕組みを求めた。わが国におけるSOHO知識労働者の歩みは14年目を迎えた。それはこうであった。
パートナーシップ(外部委託による業務の役割分担)で委託を受けた仕事は他の人にその仕事の譲渡はできない――という事実である。知識労働者の名声、専門知識・技術はその知識労働者固有の本質と属性であって、そのまま、仕事の期待される品質の本質と属性を示している。小社で定めた者以外、仕事はできない。また小社で定めた「品質規程」は特別に訓練された者たちによって守られている。
知識は個人、固有の財産で、その名声と専門知識、その技術は、他の人にそれを代位できない。それは手工業的な側面と、企業としての工業的(マニュファクチャー)側面を、人材補強によるチームワークで、多様なニーズに対応してきた。それは、品質に対する対応(保証)、納期に対してはクライアントに、人材育成と訓練によってそれを保証し、また知識産業の基盤の形成とともに価格を一定にする企業化(市場価格の形成)に取り組んできた。これは、知識が資本財の産業として他の産業と区別される相違を持つ。知識が資本財として、情報生産物(成果物)を生み出し、生計を立てることができるようになりつつある。
2)SOHO知識労働者(ナレッジワーカー)の形式規定
知識労働者の本質は、知識とは個人固有の財産で、その名声、最新の専門知識とそのテクノロジーは他に人に代位できないことから、形式が与えられる。
その形式とは、知識労働者(ナレッジワーカー)のあり方として、産業社会が知識経済(ナレッジエコノミー)化し、企業が知識労働者の囲い込みを行うようになった。現実経済のシステムに組み込まれていく。こうして事業化され、生計が立てられるようになりつつあって個人開業届を出し、経営者的であるとともに労働者的であるという二面性を持っている。現実には知識産業社会への幕明けというべき、知識労働者として独立・自立して生計が立てられるようになりつつある段階と現実の「経済」を認識すべきであろう。小社において全員が、自分の知識を資本財として在宅ワークのSOHOから出発した。わが国における知識労働者の現実はSOHOから出発し、1999年、現実的歴史的に存在した。マイクロビジネスの弱小性を自ら持ち、しかし2002年力強く存在しているのだ。
それはどういう意味で存在するのか、というと、知識産業社会の普遍的な、一般的な現象として、知識が利益を生み出す資本財となり、高度専門知識やその高度技術との差異を、大卒程度の一般専門知識とその技術として区別される程度の専門知識とその技術が一般的に現下の産業社会で枠組として設定できる。情報通信機器を操作しつつ情報・知識の生産に従事している者と考えられる。
しかし実際、従事している者の現実は、一流大学、それも選ばれた少数の一流大学の卒業者によって占められている。現実の知識労働者の内実は、特別に訓練された選ばれた者たちである。選ばれた大学の卒業者で占められている。
現実への対応はこうした事実を形成した。一般的には、研究者と区別された知識労働者の区別されうるものと同一視できるものとの知識と技術の知的な衝突である。研究内容や編集内容に深く立ち入り、独立して外部からパートナーとして参画しているが、研究員や編集者は、企業の構成員として内部におり、高額賃金労働者としての一面を持っている。この賃金労働者としての一面と一方、独立自営業者としての一面は、これを区別されうる存在の形式の相違として把え、仕事の内容とこの存在の形式の相違は、対クライアントに対して、高度のコミュニケーションを生み出し、時には知的な衝突と拮抗が協働(共創造)をつくり出している。知識産業のあり方として、SOHO知識労働者のミッションがはっきりと描かれてくるだろう。
われわれは、独立自営業者であるとともに、知識労働者(ナレッジワーカー)と自己規定している。それも多くは女性の知識労働者によって占められている。平均年齢37歳の既婚者である。そしてナレッジエコノミー(知識経済)化は進展しており、しかし、現実の段階を、小社全体を見渡して、「生計を立てられつつある」段階と現実を認識している。自分たちは、どんな仕事を「どう」やりたいか、人生の「生き方」を見つけ出している。そこで半分労働者としての自己規定性は高額所得獲得へ努力しつつ、今の現実を生きている。この現実を直視した半分労働者としての施策と保護の両面が必要である。自分たちは賃金労働者のように場所や時間に拘束されていない。知識自由人の意識を持っている。そして生活と労働が融合している。多様な働き方の先端にいるのだ。知識労働者(ナレッジワーカー)としての存在の仕方、存在の方法、存在の育成・成長、そして存在の問題意識など、自らの力で、その存在を形成しなければならない。そして自ら、歴史的に現実的に秩序と規律をもってSOHO知識労働者として形となって現われていくのだ。
3)SOHO知識労働者(ナレッジワーカー)の要素規定
われわれの仕事を十全に行うには、行動の助けとなるものが必要である。本質規定、形式規定で与えられた固有の働き方には、固有の創造や展開のためにそのルール、手順、順序や支援が正しく行われなくてはならない。
正確に的確に組織的支援が個人に必要である。それは仕事に対して十全な結果をもたらすような助けとならなくてはならない。そして、知識労働者(ナレッジワーカー)は、個人として、組織(の装置)に依存して生きていくのも、他の産業から区別された唯一の存在でもある。ホームオフィスに情報通信機器があれば、第一稿とはいえ知識の適用によってデジタルコンテンツが制作できる。装置産業の製品とは異なる。
この一点を無視したすべての律法は悪である。要素規定の核心は、知識労働者(ナレッジワーカー)へ業務を委託する理論的には、仲買人の、代弁人の、問屋の、代理人の、すなわち、組織の装置の決定的な存在に依存しなければならない点にある。チームワークで納期のある仕事を大量に消化しなければならない。それは、事実として、実際として、生計を立てつつある存在の原動力になっている。この組織の装置は自分たちの所得を確保する仕事の道具でもある。この点は普通の経営者にとって理解しにくい側面であろう。自分たちは生かされて生きていくのだ。アウトソーシングではなく、パートナーシップで仕事をしている。テレビ局の制作スタッフに似ている。
こうして、知識労働者(ナレッジワーカー)として生きていく現実の状態が生まれる。人間が生きていくには酸素が必要なように、この状態をつくり出すことは絶対条件といえる。
組織の装置としての十全な働き、そして機能――スタッフにとっても、クライアントにとっても、規則に従った十全なサービスが、十全な働きを行う強い組織をつくる。組織にとって生きていくために必要な切り離すことのできない酸素でもある。2001年自分たちの課題として所得の増大を目標とした。そして、この酸素としての十全な知識労働者に対する支援として諸手当が生まれた。取材調査費、通信費(電話代)、研究費(資料購入費)、クライアントへのテープ直接受取手当、交通費全額、宅配便立替、職域保険(労災対応)、国民健康保険一部補助、ディクテマシン貸与、FAX、FAX用紙支給、OCR(光学式読み取り機)支給、また個別業務対応の手当として、主任手当、チームリーダー手当、録音不良貢献手当、営業開発謝礼金、など16の実費を含む手当がある。その他コンピテンシー開発のための支援などもある。この酸素としての充分な支援をもって、対等のパートナーシップが生まれ圧倒的競争力を生み出している。
各人の所得額の現実は、上位平均月収50万円〜60万円以上、40万円台、30万円台、20万円台、10万円台と最低5万円台の現実を生み出している。能力と実力、働く環境の差の一面もある。小社の平均SOHO知識労働者の一日平均労働時間は5時間位と推測される。一日10時間の平均労働時間で換算した場合、月収50万円〜70万円ぐらいの位の収入をあげることができるだろう。「生計を立てられつつある」歴史的現在は、生活と労働が融合する環境の中で、労働時間に対する現代人の本音が見える。本質は「労働者」の意識が強い。スタッフを増強すれば経営コストが高くなる。
おかげさまで過去12カ月満杯で稼動し、高原状態の売上げが続いている。出来高制であるが、固定された給料のようだ。意識も賃金労働者に接近し、SOHOという野性はない。組織の装置は仕事を消化し、所得を得る自分たちの仕事の道具になっている。個人としてのSOHO知識労働者に対する取り組みとして、人間性の尊重を重視し、賃金労働者が抱える数々の制約から解放されている。
4)SOHO知識労働者(ナレッジワーカー)の目的規定
自分たちの道へ進もう。ともに歩いていこう。われわれの働きに理解を求めよう。未来の産業のために特に課税を含む関係当局の施策と保護の行政が求められる。
SOHO知識労働者として、知識産業社会の構築へ向けて、働く者の知識産業の労働の文化に貢献したい。わが国政府の構造改革の後にくる未来社会はナレッジエコノミーとデジタルエコノミーの経済要素を主軸とするソフトノミックス(ソフト化経済)社会の実現であろう。経済的なファンダメンタルが形成されていくであろう。
意欲の源泉(47頁)
実はこれら多様な組織形態のもとにある人たちこそ、仕事に満足できなければならない。そのような人たちを惹きつけ留まってもらうことが、人事の中心課題となる。何が役に立たないかは明らかである。金で釣ることである。
アメリカではこの一〇年、二〇年というもの、多くの企業が、知識労働者を惹きつけ留めておくために、ボーナスとストックオプションを使ってきた。そして、すべて失敗してきた。
昔から、手だけを雇うわけにもいかない。必ず人がついてくると言われてきた。だが、人だけを雇うわけにもいかない。配偶者がついてくる。配偶者がストックオプションをあてにしても、減益となって株価が下がれば一文の価値もない。そのとき、本人もその配偶者も裏切られたことを知る。
知識労働者にとっても、報酬は大事である。報酬の不満は意欲をそぐ。しかし意欲の源泉は、金以外のところにある。
知識労働者のマネジメントは、彼らが組織を必要とする以上に、組織が彼らを必要とするとの前提のもとに行なわなければならない。彼らは、いつでも辞められることを知っている。働く場を変わる能力をもち、自信をもつ。要するに、NPOのボランティアのように扱い、マネジメントしなければならない。
知識労働者にとって重要なことは、第一に組織が何をしようとしており、どこへ行こうとしているかを知ることである。第二に、責任を与えられ、かつ自己実現することである。もっとも適したところに配置されることである。第三に、継続学習の機会をもつことである。そして、何よりも敬意を払われることである。彼ら自身よりも、むしろ彼らの専門分野が敬意を払われることである。
これらのことに関しては、知識労働者はかつての肉体労働者のはるか先を行く。参画が強調されるようになりはしたが、かつての肉体労働者は、何をなすべきかは指示されるものとしていた。これに対し知識労働者は、自らの専門分野では自らが意思決定を行なうべきものとする。
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民主党、社民党、国民新党の連立政府は非正規労働者の失業対策と職業訓練、月10万円前後の生活費の支給を検討している。こうした失業に対する社会のセーフティーネットが確立されなければならない。
資本に対する懲罰を用意しなければならない。それは経営者と従業員との間に「冷ややかな関係」をつくり出すことだ。セーフティーネットがどの程度のものになるかに注目している。経営側は優秀な従業員を企業につなぎとどめておかねばならない。これまでの労働文化とはまったく異なる。ドラッカー先生も言うように「NPOのボランティアを扱う」ように知識労働者に敬意をもたねばならない。
どのように知識労働者に仕事の魅力を訴求するか。業務命令で従業員を使うことができなくなる。仕事の魅力以外つなぎとどめることはできない。ドラッカー先生はこの著書の中で、「金で釣ることである」と言っている。だが、知識労働者はカネにも関心をもつが、仕事の魅力をとおして自己実現を求めるようになるだろう。知識労働者を組織全体の一員とみてはならない。それは個として確立された自己実現を最大のご褒美として提供されたときのみ、知識労働者を惹きつけることができる。
この前提になるのは人間に対する限りない愛である。哲学的に万世一系になった諸々の施策になっているか、労働環境になっているか。20世紀の労務体系から21世紀の労務体系へのコペルニクス的転回が必要だ。
その通り利潤追求に走るものは知識労働者から拒絶されるだろう。
経営者と従業員との間の「冷ややかな関係」とは、セーフティーネットが企業の外にあり、企業は倒産の危機にあっても従業員の個人としての生活は最小限破綻しない。当然、企業別労働組合はなんの役にも立たない。衰退の一途をたどるだろう。これは大きな社会的な意味において労働組合の衰退の兆候なのである。
いままでと異なった働く者に敬意をもつ。企業の業績向上とは知識労働者の貢献によってのみ実現されるようになる。
ぼくたちもこれを実感している。優れた原稿のみが競争力をもつ。競争力をもてば売上げは増大していく。知識労働者に分配できる。知識労働者は知識資本という「株主」である。悪貨でなく良貨である。こうして人間に対する愛と信頼が真に醸成されていく社会へと進むだろう。まず突破口として、経営者と従業員の間に「冷ややかな関係」をつくり出していけ。働く者、一般労働者も背中に重荷を背負うな。所有から利用へと時代は変わるだろう。この時代の変化は個の確立と自由な生き方を手にいれることができる。
現下の社会問題に対するセーフティーネット、年金問題、医療問題、介護問題、教育問題、少子化問題、環境問題のひとつひとつの解決を目指す社会へと変貌せよ。
そして、この「冷ややかな関係」とはパラダイムの転換の核心となる。
毎朝新聞三紙を読んでいるが、「いかがなものか」と思う経済団体指導者の発言が気になる。民主党連立政権になってわが国が移民国家になることなく、少子化問題に正面から向き合う。かつての自公政権の犯した先送り政策の誤りに新しい国家像である国家百年の計にもとづき外国人を搾取の対象としてはならない。経済団体は密かに目論んでいた。無国籍国家企業として、どうぞ海外へ向ってほしい。
ドラッカー先生は言っている。「しかし、ネクスト・ソサエティにおける企業とその他の組織の最大の課題は社会的な正統性の確立である。すなわち、価値、使命、ビジョンの確立である」と。目指すべき自らの存在する価値、存在する使命、存在する目的であるビジョンのないものが多い。意地悪じいさんはまず「カネの勘定」から始める。社会に役立つ企業、個人になっていない。
日本経済新聞 平成21年10月10日一面で、中小、零細企業など対象とした債務の返済猶予制度について、返済猶予「評価せず6割」「新規融資が厳しく」(中小200社本社調査)では生意気で利己的な企業は何度目の融資を希望するのか? 利己的経営者の言い分か?
銀行から「融資資金のご検討をいただけますか」と言われる時世の企業であるべきで、中小、零細企業経営者の資格として皆無だ。民主党連立政権のあるべき政治理念に従うときだ。再び言う。政治家の仕事であるが、ドラッカー先生は「しかし、ネクスト・ソサエティにおける企業とその他の組織の最大の課題は社会的な正統性の確立である。すなわち、価値、使命、ビジョンの確立である」と。
都合のいいときに「百年に一度」といい、喉元は過ぎたのか? 政府に対する政策の発言はこれまでの自公政権とはまったく異なる。
政府政策の利益誘導になれてきたマスコミと企業は経営者としてのこころの置き方が悪い。ローンを抱えたサラリーマンも多いのだ。民主政治のあるべき姿に立て。
これまでのわが国政治と決別せよ。
年金制度の改革をもって「冷ややかな関係」は半分完成する。
ドラッカー先生は134頁で「この四〇年あるいは五〇年というもの経済が主役だった。これからの二〇年あるいは三〇年は社会が主役になる。少子高齢化はそのまま社会的な問題の発生を意味する」と。
まず高度経済成長期に育った年寄りは企業社会から退場せよ。これが社会の癌となっている。
40代の青年から新しい時代を学べ。
つねに経営者たる者、仕事の魅力をつくり出してのみ、知識労働者を惹き続けることができる。
この考えは、小社設立から一貫している。ある会社のように「おい、○○ちょっと来い」とか、こうした類の社内文化は下品な職場となるだろう。知識労働者一人ひとりに敬意をもつ会社に変わっていくだろう。
明治になっても地方では頭の中は江戸時代である者が多かった。働く者を豊かにしてのみ企業は栄える。
組織としての個の確立(58頁)
これらのトップマネジメントがそれぞれの方法で行なおうとしていることは、実はみな同じである。会社としての個の確立である。ネクスト・ソサエティにおけるトップマネジメントの最大の仕事が、組織としての個の確立である。
第二次大戦後の半世紀間、企業はその経済的側面、すなわち価値と雇用の創出において大きな成功を収めてきた。しかし、ネクスト・ソサエティにおける企業とその他の組織の最大の課題は、社会的な正統性の確立である。すなわち、価値、使命、ビジョンの確立である。
企業は生き残れるか。生き残れる。ただし、そのためには変革が必要である。
たとえネクスト・ソサエティであっても、経済的資源を生かすためのものとして、今日の企業に似た何かを必要とする。法的には、そしておそらくは財務的にも、それらは今日の企業とほとんど同じものに見えるかもしれない。しかしそこにあるものは、みなが真似るべき単一のモデルではなく、いずれをも採用しうる多様な組織モデルである。(二〇〇二年)
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アウトソーシングとパートナーシップの相違についてふれたい。
ドラッカー先生は、「ネクスト・ソサエティにおいては、まさにトップマネジメントが組織そのものである。他のものは、すべてアウトソーシングの対象となりうる」と言っている。先生のお考えとの相違点であるが、メディアミックス&ソフトノミックス/は一切アウトソーシングはしていない。パートナーシップである。仕事が溢れてくると納期遅れを出さざるをえない。しかし、やんわりとお断りしている。編集者の希望の納期に沿えない。社内で教育されたスタッフが責任をもって成し遂げる。営業の部門でもアウトソーシングはご法度だ。
それは仕事の知識と技術が社内蓄積できないからだ。たとえば一般企業においても営業部の営業に優秀な営業マンがいるとする。トップは優秀な営業マンに「どのような営業を心掛けているか」。営業会議にはトップ自らが議長となって優秀な営業マンの営業手法を聞きだし、トップ自らが質問し、どのような姿勢で、同席された誰に向ってどんな切り込み方で、どんな返事を期待し、どういうことばを使って、どんなふうに、どのように話しているか? を聞き出す。企業は自社の営業マンを鍛えなければならない。
毎回、営業会議を録音し、その原稿をつくって営業マン全員に配布する。お金のかかることだが営業マンを育て、営業レベルあげて標準化していくと営業成績は向上する。
できたら製造技術部に取材に行き、どこをどのように技術を向上・改善させたか、聞き出し、商品説明ができるようにならなければならない。技術情報は製造現場に聞け。
これらは自社営業の知識、ノウハウ、営業技術として獲得できる。「営業マニユアル」「販売マニュアル」ができる。常に追記し、修正していくのだ。こうしたチャンスを考えると、自社の業務セキュリティのうえでもアウトソーシングは危険だ。
こうした意味でもアウトソーシングは注意しなければならない。
要するに自社スタッフの仕事の知識と技術を常に還元できるような自社体制でなければならない。自社技術にないものもあるだろう。信頼できるところにアウトソーシングすべきだ。
さて、企業としての個と、個としての佐藤は一致している。中継器をもたない。
メディアミックス&ソフトノミックス/はトップが変わればすべてが変わる。そういう意味で佐藤正明自身である。SOHOである。本局は夫婦二人だ。万世一系のガバナンス(企業統治)である。
SOHOの優位性はまだ他にもある。85名のスタッフの「職場」をもつことはどれだけ広いフロアーを賃貸しなければならないか? 現在スタッフ全員が各々の自宅での在宅ワーカーだ。一般企業の考えに立つと、1カ月100万円程度のフロアーが必要だろう。一般的に考えれば年間1,000万円程度にはなるだろう。年間1,000万円以上のコストを削減できる。電気代その他もコストになる。新しい社会と企業は発想がまったく異なる。コストはコペルニクス的転回で削減している、ことになる。
企業の命運はまったく変わったものとなる。それは知識経済社会とはどんな社会か、多くの人はまだ気づいていない。
個人差があると思うが、スタッフの1日の労働時間の平均は5〜6時間程度とみている。報酬料は1カ月20万円程度となる。一般企業で1時間残業したとすると1カ月22日稼動で月収27万円以上になるだろう。
土・日はご主人にとって休日である。やはりご主人が休日計画の主導権をもっている家庭もある。暮らし、生活の多様なモデルは個人差となる。1カ月の所得が20万円をこえるようになるとご主人の態度が変わる。対等の夫婦関係に変わる。真のパートナーシップ(業務分担する夫婦関係)の土台はここからはじまる。女性が社会へ参加し、個の確立として経済的背景をもつ。家庭における夫婦の関係が滲み出て見えてくる。このいまの時代に女性が自立していくには、どんなに教育が大切であるか、しみじみと感じる。
自由で柔軟な働き方とは自分の仕事と自分たちの家庭をもつが、わりきって賢く働く時間をつくっていかねばならない。だがいつも自宅が仕事場だ。最近の統計によると、わが国の女性(主婦)の家庭での雑務は先進国で一番多い。
報道によると「扶養控除が廃止」されるようだ。
「103万円の女の壁」が撤廃される。わが国の歴史においてはじめて男女平等になる。女性は男の抱え込むものではない。家庭も男の抱え込むものでもない。男女平等の高等なことばが現実に実現される。女性の自立が法的実体的に認められることになる。現代における最大の差別であった。未来は家庭においても職場においても実体をもつ男女平等になるだろう。わが国において明治の文学に現れた「個の確立」を手にすることができるのだ。
谷垣自民党の依拠する政治基盤であるふるさとの社会学的な変型大家族制が瓦解していく。わが国社会構造が変わる。年金制度改革をしっかり成し遂げることだ。働く者は企業との契約から国家との社会契約へ変わる。アメリカの医療問題は、20世紀最大の社会問題を引きずり、アメリカの「危うさ」をもつ。
本局の売上げは一定を目指しているが、各人の売上げは出来高制により変動している。だが、給与のように収入はある。大切なのは一定の収入の期待にこたえていくことだ。クライアントの信頼をえて自然体で応じていくこと――ここに相変わらずの姿勢という営業戦略の基本を定める。景気がいいとか、悪いとか、あまり影響されない安定した経営を目指している。
分化する組織(174頁)
規制が要求する費用と労力の他にも、人材派遣会社と雇用業務代行会社の成長を促す要因がある。知識労働の特性、特に知識労働者の極度の専門性である。知識を基盤とする大組織には多様な専門家がいる。彼ら全員をいかに上手にマネジメントするかが、それらの組織にとって重大な課題である。人材派遣会社と雇用業務代行会社は、ここにおいても大きな助けとなる。
アメリカでは、一九五〇年代に入ってからでさえ、徴兵免除とならない者、すなわち言われたことを行なうだけの者が九割いた。徴兵を免除されたのは、何を行なうべきかを言う立場にある者だった。免除されなかったのは、低学歴で技能のないブルーカラーだった。彼らは工場や事務所で反復的な仕事をしていた。今日ではその種の働き手は二割以下である。労働人口の四割を占めるにいたった知識労働者は、上司はいたとしてもその部下ではない。同僚である。自らの専門とする分野では、何を行なうべきかを言う立場にある。
知識労働者は同質ではない。知識は、専門化して成果をあげる。このことは、特に今日急増中のテクノロジスト、すなわちコンピュータ技師、プログラマー、弁護士補助職など知識を基盤とする知識労働者についていえる。そして知識労働者は、その専門性のゆえに、大組織においてさえ少数が散在するにすぎない。
その典型が、組織としてもっとも複雑であって、この三、四〇年間にもっとも急速に成長してきた病院である。ベッド数が二七五から三〇〇の中堅の病院でさえ、直接、間接に三〇〇〇人もの人が働いている。その半数は何らかの分野での知識労働者である。数百人規模の部門は二つしかない。看護士であり、管理部門の知識労働者である。医療テクノロジストの専門分野は三〇種類はある。理学療法士、検査技師、精神科ケースワーカー、腫瘍治療の専門家、手術室の担当者、睡眠治療室の担当者、超音波検査の担当者、心臓病治療室の担当者、その他諸々の知識労働者である。
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病院側も気づきはじめた。
チーム医療の新しい未来がある。検査と治療を分離し、患者も医療チームの一員としてチームに加わり、各専門のテクノロジストによる治療の新しいあり方を目指しはじめた。
出版社の編集者、テレビ局のプロデューサー、ディレクター、病院の医師が、チームのリーダーとして専門テクノロジストがまわりに集まり、チームを組んでこの組織の目的である共通の課題に向う。
出版社の編集者は雑誌や書籍の編集制作チーム――編集者、著者、ライター、カメラマン、照明、校正者、印刷、製本など……、社員、フリー、独立自営業者、派遣社員の専門テクノロジストが集まり、テレビ局ではプロデューサーやディレクターのまわりに製作、脚本、演出、俳優、音楽、撮影、照明、音効、デザイン、大道具、小道具、メイク、衣装さんが集まり、「○○組」としてチームを組んで共通の課題に焦点をあわせる。
ドラッカー先生は、『未来への決断』の中で3つのチームの類型について言及している。野球型、サッカー型、テニスのダブルス型、チームを選ぶ意思決定について言及している。これは新しい働き方なのである。企業社会においては正社員のみのチームばかりでなく、フリーや独立自営業者、派遣社員からなる。ここに専門職として特化しているが働く者の境界はない。正しく評価される働き方に変貌するだろう。
一品料理、コンテンツ業界の知識労働者の働き方――チームの一員として「どんな人間か、どんな仕事(知識と技術)をするか、どんな成果をあげるか」 専門テクノロジストとして参加している。
ドラッカー先生は派遣会社の派遣社員と表現しているが、個人会社、フリーなど含めて知識労働者はエージェント(代理店)の働き・機能を必要とする。ここに共通なのは人間社会史へ提供される精神の創造物である。知識労働者として採用し、一般賃金労働者と異なるところは知識労働者の特性である継続的教育の核心で、自己実現への道のりを歩む「導入教育」そのものだが、労働力の提供――自分の手を貸すが、自分のからだもくっついていく、その労働の対価としてのみしか考えないブルーワーカーと異なる側面であるが、ドラッカー先生も後述されているように「第一のクラネット奏者が指揮者に望む演奏ができるまで、一緒に何度も同じ楽節をリハーサルすることである」「知識を基盤とする企業にもっとも似た組織がオーケストラである。そこでは三〇種類もの楽器が同じ楽譜を使ってチームとして演奏する。偉大なソロを集めたオーケストラが最高のオーケストラではない。優れたメンバーが最高の演奏をするものが最高のオーケストラである」と。この心構えを教育し、本物に近くなるまでには2、3年はかかるのがぼくたちの普通の経験である。そして、入門する前には賃金労働者のにおいをとって来てほしい。
この知識労働者としての前提となる「導入教育」に早く気づいてやっとプロとしてのスタート台に立つことができる。誰でもスポーツの観戦が好きだと思いますが、スポーツ選手が繰り返し汗を流して練習を乗り越えて獲得していく境地に似ている。知識労働者になっていく。こうして知識労働者を育てている。企業価値の本質とは人材(知識資本)なのである。知識労働者として、出版社制作スタッフの定位置(指名されて)を獲得できて、はじめて一人前のプロになることができる。指名される実力、能力がなければプロとして一人前になることはできない。
その通り、チームの一員として加わることができる。新しい働き方とはチームの一員になることだ。「採用」されたからといって仕事が与えられることはないよ。自分で仕事を取り、立派に成し遂げることを通して仕事ができる。
知識経済社会とはスタッフ全員がチームに加わる営業マンであることである。知識資本が会社の業績を左右する。知識労働者に敬意をもつ源泉なのである。
知識労働者は資本である(180頁)
知識労働者の生産性の重要度については強調しすぎることがない。知識労働の特性は、働き手が労働力ではなく資本だというところにある。資本の働きを決めるものは費用の多寡ではない。量でもない。
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企業価値の側面から見ると、調理士が料理するレストランとコックとして修業してきたレストランの料理には修業してきた職場の環境が異なる。優秀なテクノロジストとして働く職場の環境が異なる。この異なった場所における相違・差異・区別された心構え、ここから生まれる特有の知識と技術、気づきや工夫を企業価値として育てていかねばならない。知識労働者を良質な資本として「鍛えて」いかねばならない。知識資本は常に増強していかねばならない。こうして知識資本に仕事がくっついてくる。売上げもくっついてくる。知識労働者には継続的教育が必要な視角といえる。知識労働者の組織の本質とは「学校」であることだ。
雑務からの解放(181頁)
人材派遣会社と雇用業務代行会社、特に後者は、クライアント企業の経営幹部と管理職を規制や書類から解放する。規制や書類に時間の四分の一を取られることは、時間というもっとも貴重で高価で稀少な資源の浪費である。実際のところ、飽きもする。人を卑しめ、おとしめる。身につけるものは、ごまかしのテクニックぐらいのものである。
したがって、彼らクライアント企業が、業務の一本化や、人材派遣会社と雇用業務代行会社の利用によって、雇用、人事関係の雑事から解放されようとするには、それだけの理由がある。しかしそうすることによって、知識労働者との人間関係を傷つけたり、台なしにしたりすることがあってはならない。
実は、書類仕事を減らすことのメリットは、人間関係に使う時間を増やすことにある。企業の幹部たる者は、大学の学部長やオーケストラの指揮者ならば当然のこととしていることを知らなければならない。優れた組織をつくりあげる鍵は、働き手の潜在能力を見つけ、それを伸ばすことに時間を使うことである。
最高の学部をつくるには、将来性のある博士号取得者や講師を、それぞれの分野で一流にするために時間を使うことである。世界一流のオーケストラをつくるには、第一クラリネット奏者が指揮者の望む演奏ができるまで、一緒に何度も同じ楽節をリハーサルすることである。同じことは、企業内研究所の研究部長が行なうべきことでもある。
知識組織のリーダーたる者は、将来性のある知識労働者のために時間を使わなければならない。彼らを知り、彼らに知られなければならない。彼らを導き、彼らに耳を傾けなければならない。挑戦し激励しなければならない。法的には正社員でないかもしれない。しかし、組織にとっては主たる資本であり、業績を左右する存在である。
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小社設立22年目を迎えています。SOHO知識労働者のネットワーク組織であり、バーチャルなカンパニーで本局と子局というネットワーク組織の形態をもってきました。設立10年間は売上げ増強に焦点をあて、小社設立3、4年後にはミリオンセラーとなった『それいけ!! ココロジー』(青春出版社刊)の幸運に恵まれ、本局は多少の印税ですが、ディクテマシン(トランスクライバーがディクテで使う業務用テープレコーダー、プロのテープレコーダーで標準走行)をサンヨー製ディクテマシンを40台購入できました。これは組織拡大の大きな要因となりました。多少の印税を組織拡大に設備投資しました。
設立初期としては当時購入したディクテマシン1台は、サンヨー製は一式40,000円で、ソニー製のディクテマシンBM−76は一式75,000円前後しました。とても購入できませんでした。
編集者のみなさんもご存知ない方がまだ多くおいでになります。それは最近カセットテープでの入稿が標準速度による録音ではなく、2倍速録音、3倍速録音など驚くべき、ぼくたち業務の、失礼ですが、無知と表現しますが、このディクテマシンでは再生できなく、2倍速や3倍速を「標準に録音し直してのみ再生することができる」のですが、この作業が多くなりました。それはメーカー側がモノラルからデジタル機器へ大きく舵をきった時期から続いてきました。モノラルは再生するたびに録音の音質はどんどん低下していきます。そうした悪条件の中でこんにちもお仕事を続けています。モノラルカセットテープは2倍速や3倍速よりも標準速度のほうが音質は断然良好です。
他の業者の中にはモノラル(2倍速、3倍速)からモノラル(標準)へダビングして業務にあたっている業者もいるのではないかと察しています。デジタル格差は二極化しています。
ぼくたちはモノラルカセットテープを直接デジタルの音声ファイルに転換し、本局のパソコンから担当トランスクライバーに直接送信することができるようになりました。宅配便を使わないでインターネットで担当トランスクライバーがダウンロードできるようになって、編集者からデジタル入稿して担当トランスクライバーがすぐダウンロードできるのまで30分でできるようになりました。すぐディクテに入ることができる点で、録音60分あたりのコスト削減に大きく貢献しています。本局では受託単価を下げてきました。納期もデジタルの場合、宅配便を使わない点で納期を約1日近く短縮することができますが、モノラルの場合、本局で音声ファイルに転換する作業もあって編集者から宅配便で入稿し、このモノラルからデジタルへの転換には取材録音時間同等の転換時間が必要です。
担当トランスクライバーに媒体を渡すまでの時間を削減し、納期の短縮には十分気をつけていますが、現在ぼくたちのデジタル技術がそのまま「使えない」場合もあって、本局のさらなる工夫と改善が必要だと思いますが、デジタル技術がストレートに使えるようになると、本局作業の業務の大きな改善につながり、納期も1日以上短縮することができます。
出版社によっては編集総務・管理部などで音声ファイルのアップロードを代行し、原稿は編集者へ電子メール納品しているところもあります。macなどで編集制作をされていたり社内のパソコン体制などの問題もあろうかと思います。
こうした課題をもっていますが、1998年の不況、失われた10年をへて、こんにちの金融危機を迎えています。こうした経済環境の中でぼくたちの業界の改善は、編集者のご協力なしには成し遂げることはできません。
本局では宅配便とバイク便のコストは月60万円平均でしたが、2009年宅配便とバイク便のコストは月25万円平均に削減できました。デジタル技術により大幅に削減しております。編集者からの入稿受託単価の低減に反映してきました。CO2削減に努力してきました。
原稿の品質には十分聞き漏らしや聞き間違いのないよう正確な原稿づくりを目指していますが、SOHO知識労働者にはこの失われた10年間、スタッフには忍耐の経済不況を強いてきました。
設立10数年後になってやっと本局オフィスの整備に着手、SOHO知識労働者の仕事場の本局の現実をみなさんに公開する機会を、設立22年目にやっと果たすことができる機会をもちたいと思いました。まだ年商1億円程度のオフィスですが、住宅地の中にあって6畳とダイニング、4畳半をオフィスとして使用しています。これはSOHO知識労働者の現実の仕事場になっています。アメリカの知識労働者と小社は同時に出発しましたが、比較した場合、あまりに日本的なうさぎ小屋ですが、ここではITの最先端技術、最先端通信技術のインフラを導入し、「知」を生み出すには、こうした最先端技術を活用することによって子局とのネットワーク組織が成り立つ。こんにちの未公開の在宅ワークの技術インフラも公開したいのですが、「見える化」するには工夫も必要でしょう。それは次回にして、ぼくたちの仕事場の現実、ディクテの現場を公開し、それなりの印象をお持ちいただくことができます。
編集者のみなさんにこれまで未公開だったことをお詫びいたします。
事務所の直接維持経費は年間夏は110万円程度、冬は130万円程度(暖房は都市ガス使用含む)です。
今後、本局工事計画は壁紙の張り替え、LED発光ダイオード三原色自然光の照明設置などを計画、業務・オフィスのCO2排出は一般家庭とそれほどの差はないと考えております。
SOHOとはスモールオフィス・ホームオフィスのことであり、不況には柔軟で機動的な対応が全方位に展開できることもぼくたちの強みです。そのうえ本局オフィスは低コストで運営されております。
SOHOとして本局と佐藤は一致しているが、生活と労働が融合している。正の部分と負の部分も同居している。生きることと暮らしの精神において仕事に焦点を合わせている。それは佐藤の生き様といえる。誰でもそうだと思うがSOHOの現実とは「仕事こそすべて」という責任が私的な暮らしを吸収している。
SOHOであるので事務所経費はほとんど会社経費となっている。SOHOの税務上の利点でもあるし、それは生活の私的な部分と法人としての本局の時間や空間の切り離すことのできない関係の中にある。佐藤にとってSOHOは生きていくうえで必要な酸素でもある。
SOHO知識労働者のネットワーク組織の未来のオフィス環境はどうなっているだろうか。
ぼくたちはウェブオフィス(電子オフィス)があるが、電子オフィスは将来インフラがインターネットの通信へと変わる。ウェブオフィスはインターネット回線につながりパソコンにはカメラがついて子局と「顔をみながら電話のようにコミュニケーションがとれるようになる」。たぶん外部との連絡は公衆回線を使い、スタッフと社内というカンパニー内コミュニケーションができるようになるだろう。
現在ウェブオフィス「営業情報」にPDF投稿が多くなったが、容量が大きく対策をとらねばならなくなった。しかし、費用対効果でインターネット回線の使い方を選択しなければならなくなるし、スタッフとは顔をみながら話しができるようになる未来のオフィスとなるだろう。社内のSOHO知識労働者全員も顔をみながら双方向の各々コミュニケーションがとれるようになる。現在、電子メールでの納品のほか、ウェブオフィスを利用した納品もしていますが、電子メール納品は出版社に限定している。セキュリティの進化がどのように進むか、ここでも費用対効果が解決したら、ぼくたちの仕事の現場は大きく変化していくだろう。
高度情報化社会におけるマスコミ・出版業界の裾野を担うSOHOとしてその地位をこの不況時に確立できるよう努力していきます。
フォトグラファー 井上 智之
(2009年10月9日撮影)
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