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History of Transcriver
トランスクライバーの歴史

『1999 現代用語の基礎知識』トランスクライバーの用語掲載記念論文

ヨーロッパにおける速記者の歴史と異なった
トランスクライバー(Transcriber)の歴史(スケッチ)


 ぼくたちは「どこから来て」「どこへ行くのか」。
「録音を文字化する」とは説明文であって、センテンスでもある。短い構文でもある。
 わが国にはdictateディクテートという動詞は存在しない。言葉がないのだ。ヨーロッパにおいて、ディクテ(仏語)ディクテーション(英語)が派生した。
 日本において、未だ、談話筆記は概念用語として成立していない。ヨーロッパの歴史を学ぶことから、ぼくたちの仕事がはじまる。それは筆記職人の歴史からはじまる。古代エジプトとメソポタミアでは書記という職業が全盛時代でもあった。書記という仕事とその貢献が社会の経済的政治的仕組みに不可欠だった。
 文字の大系は複雑であり、長期間学習によって獲得される高度の技術であった。この書記scribeという職業は高い社会的身分を享受できたばかりでなく富裕で特権をもった階級出身の人たちが志願し、またこの人たちの心を捉え、そのことが書記という仕事に輝きを与えた。
 世襲的職業へとなっていく。息子が父の仕事を継ぐ。メソポタミアでは、子どもたちが読み、書きできるようになったのではなく、ごく少数の者しかできる境遇でしかなかった。
 紀元前2000〜1750年頃のシュメール書記学校というのがあって、この学校の記録では、高官上級官吏書記聖職者の息子が生徒として挙げられ、富裕な人の養子となった貧しい少年や孤児がときたまいたとされている。
 エジプトの書記は特権的生活を送り、自分たちは他の人たちよりも上に立つ者と考えていた。
 古代エジプトは手工業社会で、書記職人は専門職以外の仕事は要求されていなかった。
「苛酷な労働から身を守るため、文字を覚えよ」と新王国時代のエジプト人はいった。
 王室書記の神的規範はトト神、すなわち、トキの頭をした神々の書記であり、神話によれば、文字の創案者であった。書記は聖職者や役人と同じようにかなりの権力と影響力を振るい、高官でさえも、奉納用や埋葬用の彫像に自分を書記として描かせた。
 古代エジプトの壁画やパピルスの挿絵、彫像では書記は立っているか、ひざまずくか、うずくまりぴんと伸ばしたキルト上で書字のために部分的に広げたパピルスと書字用パレットと手や肩からさげた公職の印をもつ姿が示されている。
 書字法の習熟はたやすく得られなかった。
 生徒は厳格に訓練され、書記学校で長い年月を過ごし、自己の書字様式を作り出すまえにまず、もっぱら文書や書字様式を模写しつづけた。彼らはまた、しばしば、会計、税の査定、数字書簡作成、その他補助的仕事も勉強した。交易、経済、農業、時を数える年に関する事柄、最も重要な仕事であった灌漑水路を掘る労働力の調整と管理、主な祝祭や行事の施行、実際には、宮殿と神殿と民衆との全体との相互のつながりを書記集団の能率如何に権力は依存していた。
 メソポタミアの書記は軍事上の遠征に同行し、通信や計算書を書き、食糧や装備を支給する補給係として働き、あるいは戦利品を記録し、殺した敵の数を数えたりした。古代のエジプトやメソポタミアではこの職業的書記に依存していた。
 文字の発生と読み書き、書記の存在を俯瞰した。文字は権力の執行や記録と結びつきここに書記の存在があった。
 読み書きが限られていた社会つまり、少数の人間だけが読み書きができる社会では、交易においても船荷の積み降しの時に受渡される注文票、受取証、領収書などの取引書類は船と積荷か遠い海から渡ってくる魔術的道具だったのである。中世の北欧のフサルク文字、ルーン文字も、字の知らない者にとっては魔術として魔力のあるお守りとして用いられた。
 ヨーロッパ全域に書記職人文字文化が発展していた。
 書記職人の文化scribal cultureがつづいた理由の一つに、初期の筆記用具の物理的な性質がある。表面のなめらかな機械づくりの紙や、比較的長もちのするボール・ペンなどあるはずもなく、初期の書き手は、もっとずっと扱いにくい技術的な用具を手にしていた。筆記面としては、乾くまえの粘土板や動物の皮革(羊皮紙、仔牛皮紙)があった。皮紙の場合には、脂身と毛をそぎおとしたあと、何度も軽石でみがき、白墨で白く塗らなければならず、また、まえに書かれていたテクストをこすり落として再加工することもしばしばあった。(再生皮紙〔パリンセストpalimpsest〕)。そのほかにも、樹皮、パピルス(ほかの筆記面よりは上質だが、高度技術文化の基準から見ればまだまだ粗い)、乾燥させた木の葉や植物、ロウを塗った木版があった。ロウ板は、しばしば蝶つがいでとじて二つ折書字板diptychにされ、ベルトに付けて携行された(こうしたロウ板はメモ用紙であり、再利用のためロウは何度もひきなおされた)。さらには、木の棒や、さまざまな種類の木や石の表面も筆記面として使われた。〔要するに〕紙のたばを売っているような街角の文房具屋などなかったし、そもそも、どんな紙もなかったのである。書く道具として書記職人scribeが手にしていたものには、さまざまな鉄筆、ガチョウの羽(今でも「ペン・ナイフ」と呼ばれているものを使って、くりかえし先端を割き、とがらせなければならない)、毛筆(とくに東アジアで)などがあり、そのほかにも、筆記面に刻みをいれたり、インクや塗料をぬったりするためのさまざまな道具があった。液状のインクは、さまざまなしかたで混ぜあわされ、中空の牛の角(「インク角inkhorns」)などの酸化しにくい容器に入れて、いつでも使えるようにされた。また、東アジアでは一般に、毛筆は、水彩絵具を使うときのように、水にぬらして、かわいた墨の塊のうえにつけて用いられた。
 このような筆記道具を使いこなすためには、特殊な熟練技能が必要であり、しかも、すべての「書き手」が、長い文章作成ができるように開発されたそうした熟練技能をもっていたわけではかならずしもなかった。〔たしかに〕紙〔の発明〕は、書くことを物理的に容易にした。紙は、シナではおそらく紀元前2世紀までにはつくられ、紀元8世紀までにはアラブ人によて中東にひろめられていた。しかし、ヨーロッパではじめて紙がつくられたのは、12世紀になってからにすぎなかった。
 1500年代になって、談話筆記というやりかたを支えているのは、声にだして考えを展開するという、声の文化に由来する根強い心的習慣であるが、筆記技術の〔低い〕水準も、そうしたやりかたの一因だったのである。中世のイギリス人、オルデリック・ヴィタリスは、肉体的な行為としての書く行為は、「全身の労働だ」と言っている。ヨーロッパの中世を通じて、著作家たちは書記職人をしばしば雇った。書きながら文章を練る、つまり、ペンを手にしながら考えをひねり出すことも、もちろん、とくに短い文章を書く場合には、古代からある程度はおこなわれてきた。
 ディクテーション(談話筆記)が社会的に形成されるようになったのは、16世紀のイギリスにおいてであった。イギリスの貴族たちは、筆記職人を雇い、あるいは読み書きができる貴族の子女に手伝ってもらった。ディクテーション(談話筆記)の職業的確立への胎動である。職業的書記scribeと呼ばれていた。いわゆる速記者と区別される。
 日本においては、「読み書き」と言うが、それは中国や朝鮮から渡来した漢文書を読むことから、わが国における文字の歴史が始まったことであった。まず始めに、「読む」があり、次に「書く」が続いた。日本人の「思考軸」は、「読む」「書き」「話す」「聴く」の順番になる。大和朝廷を支えたのは部民制というべき専門職集団であった。古代朝鮮の高句麗・新羅・百済から渡来した渡来人は氏族の全体の30%をしめていた。種々の知識・技術・文物の解説者であった。渡来人の一つに「史部」(ふひとべ)という文筆関係の専門職があった。船賦、屯倉、税を記録させた。そのうちの一人、百済系渡来人の王辰爾は船史の一族であったが、572年5月高句麗の国書を読み解いて天皇から賞賛され、「今より殿中に近侍せよ」と命じられた。わが国においては「読み」「書き」が順番になる。一貫してわが国文化の主流である。
 ヨーロッパの歴史を見ていると、まず始めに人間は「話す」があり、次に「聴く」があり、第三に「書く」があり、第四番に「読む」があった。
 転倒する日本人の思考軸は「もの」の本質と形式を正しく理解するためには、事実の本質がなんであったかを理解しなければならない。古代において文字の発生とディクテーション(談話筆記)という歴史をわれわれは持たない。持たないまま21世紀を迎えようとしている。この不幸は何をもたらすか? 日本語としての「話す」「聴く」「書く」「読む」の順番に日本人としての民族的アイディンティティは同化模倣によって日本人性を学習する。ここに日本の教育の危機はないのか? 不幸は深化する。180度の思考軸の転換が求められる。
 わが国において、ディクテーションという言葉の形式が概念として成立しないのだ。また発話や思考軸が、「このようなもの」というように内容説明的になる。内容として多様な文化が日本にあるにもかかわらずである。言葉の形式を持たないのだ。
 一言でディクテーション(談話筆記)と言えない。
 わが国の国語学者であっても「録音テープを文字化する」という内容説明的発想しかできない。「録音テープを文字化する」とう英語表記はTranscribingトランスクライビングであり、Tape-Transcribingテープトランスクライビングでものの本質、ものの形式、ものの働き、ものの目的は完結する。「録音テープを文字化する」という発想はセンテンスであり文章であり概念用語、つまりことばとしてのものの本質と形式はここにはない。
 なぜ日本人は、内容説明的になるのか?

 クランチーによれば、かれが研究した時代においては、「文書documentは、それ自体としては、信頼をよぶものではなかった」。書くことにともなうすべての出費と手間とを十分に確保するためには、以前からの口頭によるやりかたよりも、書くことはよいことなのだということを、人びとに説得しなければならなかったのである。ヨーロッパと日本の文化的相違である。文書が用いられるまえに、たとえば、封地相続人の年齢を確定するために、一般に用いられたやりかたは、多数の人間の口頭での証言だった。1127年、サンドウィッチ港の入港税がカンタベリーの聖アウグスティヌス修道院のものか、クライスト・チャーチのものかという紛争を解決するために、ドーヴァーの者12名とサンドウィッチの者12名からなる陪審団が選ばれた。かれらは「よい証言ができ、年齢を重ねた知恵のある長老たち」だったし、「わしも若いときから見聞きしてきた」。税はクライスト・チャーチのものだ、とかれらは、かれら以前の人間が覚えていたことを、公の場で思いおこしたのである。
〔当事者の〕証言のほうが、当初は、テクストよりもいっそう信用のおけるものだった。なぜなら、そうした証言に対しては、問いただすことができるし、本人に反論させることもできるのに、テクストに対してはそんなことはできないからである(すでに見たように、これがまさに、書かれたものに対するプラトンの反論の一つだった)。文書を〔本物であると〕証明する公証人の手続きは、〔事実の〕証明の手続きを、書かれたテクストのなかでやりとげようとするものだが、この公証人方式は、文字にもとづく文化のなかでも遅れて発達し、イギリスではイタリアよりもかなり遅れて発達した。書かれた文書それ自身も、それが本物かどうかは、書かれたものによってではなく、なんらかの象徴的なもの(たとえば、羊皮紙のひもで文書にしばりつけられたナイフのようなもの)によってしばしば証明された。実際、象徴的なものだけが、所有権を移譲する証拠となりえたのである。たとえば、1130年ごろ、トマス・ド・ミュシャンは、ヒザースローの地所をダーハムの修道院に譲渡したが、かれの剣を祭壇に捧げることによってそうしたのである。ドゥームズデー・ブック(1085−6)〔ウィリアム一世による土地台帳〕とともに、それをきっかにして書かれた文書の量も増大していくが、それ以後も、かつての声の文化に根ざした精神の状態がどんなに根強く残っていたかということは、つぎのウァレンヌ伯の逸話からもわかる。エドワード一世(治世1272−1307)のもとでの権限開示訴訟〔王の前である権限の根拠を示すことを求める訴訟〕において、ウァレンヌ伯は、裁判官の前に、証書charterではなく、「古ぼけた錆だらけの剣」を持ち出し、こう抗議したという。自分の祖先はウィリアム征服王につきしたがい、この剣によってイングランドを手に入れたのだから、自分はみずからの土地をこの剣によって守る、と。クランチーは、この逸話にはつじつまの合わないところがあり、いくらかまゆつばであるとしながらも、この話がながく語りつがれてきたことは、象徴的な贈物がもつ証拠としての価値に疑いをもたなかったかつての精神の状態を証するものだと述べている。
 イギリスの書記の土地譲渡証書にはもともと日付がなかった。これには、おそらくさまざまな理由があるだろう。クランチーによれば、もっとも深い理由はおそらく、「日付をつけるには、書記職人が、時間のなかでの自分の位置をどう示すかというかれの立場を表明する必要があったから」である。つまり、ある一つの準拠点を選ぶ必要があった。では、どんな準拠点を選べばいいのか。世界創造の日を準拠点にしてこの文書を位置づけるのか。それとも、キリストの十字架の日か。あるいは、キリスト生誕の日か。ローマ法王は、この最後のやりかたで、つまり、キリスト生誕からかぞえて文書に日付をつけた。けれども、法王がするのと同じやりかたで、世俗文書に日付をつけるのは、恐れおおいことではなかろうか。今日の高度技術文化においては、何百万もの印刷されたカレンダーや、かけ時計や、腕時計がわれわれに押しつける抽象的に計算される時間の枠のなかで、だれもが日々をおくっている。だが、12世紀のイギリスには、かけ時計も、腕時計も、壁かけカレンダーも、卓上カレンダーもなかったのである。
 印刷物によって、書くことが人びとのこころに深く内面化されるまでは、人びとは、自分たちの生活の一瞬一瞬が、なんであれ抽象的に計算される時間のようなもののなかに位置づけられているとは思ってもいなかった。中世、さらにはルネサンス期になってもまだ、西欧の人びとの大部分は、キリスト生誕から数えるにしろ、別の時点から数えるにしろ、いまが暦のうえで何年にあたるかといったことを日常生活のなかで意識していたとはとても思えない。どうして意識する必要があっただろう。どの時点から計算すべきかもはっきりしていなかったということは、つまりは、そうした問題がささいなことだったということである。どんな新聞もなく、〔製造年月日などの〕日付のついたその他の物資もなく、そうしたものが人びとの意識に影響をおよぼすこともまったくない文化のなかでは、大部分の人びとにとって、いまが暦のうえで何年にあたるかといったことを知ることにどんな意味があるだろうか。抽象的な暦のうえでの年数など、現実の生活にはなんのかかわりもない。自分が暦のうえで何年に生まれたのかといったことを大部分の人びとは知らなかったし、知ろうともしなかったのである。

 イギリスの書記職人の周りにあったいわゆる文化は、今日では想像もできない歴史的時間と人間の知恵があったのだった。
 裁判所は権力の思考方法として論議するときがあるかも知れない。「供述書」「口頭弁論」「判決」という三段階法がわが国の江戸時代から続いている。事物の証明法である。法律ディクテーションは、文書の法的確定を示すもので、トランスクライバーのトランスクライビングTranscribingの正確性を求めるものだ。あなたの心構えとスキルは大丈夫か? あなたに思い込みはないか? あなたは、人格のしっかりしたトランスクライバーか?

 森鴎外の小説『高瀬船』で、
『高瀬船は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこでいとまごいをすることを許された。それから罪人は高瀬舟に乗せられて、大阪へ回されることであった。それを護送するのは、京都町奉行の配下にいる同心で、この同心は罪人の親類のうちで主だった一人を、大阪まで同船させることを許す慣例であった。これは上へ通ったことではないが、いわゆる大目に見るのであった、黙許であった。
 当時、遠島を申し渡された罪人は、もちろん重い科を犯したものと認められた人ではあるが、決して盗みをするために人を殺し火を放ったというような、獰悪な人物が多数を占めていたわけではない。高瀬舟に乗る罪人の過半は、いわゆる心得違いのために、思わぬ科を犯した人であった。ありふれた例を挙げてみれば、当時、相対死といった情死を図って、相手の女を殺して、自分だけ生き残った男というような類である。
 そういう罪人を乗せて、入相の鐘の鳴るころにこぎ出された高瀬船は、黒ずんだ京都の町の家々を両岸に見つつ、東へ走って、加茂川を横切って下るのであった。この舟の中で、罪人とその親類の者とは夜通し身の上を語り合う。いつもいつも悔やんでもかえらぬ繰り言である。護送の役をする同心は、そばでそれを聞いて、罪人を出した親戚眷族の悲惨な境遇を細かに知ることができた。しょせん町奉行所の白洲で表向きの口供を聞いたり、役所の机の上で口書を読んだりする役人の、夢にもうかがうことのできぬ境遇である。
 同心を勤める人にもいろいろの性質があるから、このときただうるさいと思って、耳を覆いたく思う冷淡な同心があるかと思えば、また、しみじみと人の哀れを身に引き受けて、役柄ゆえ気色には見せぬながら、無言のうちにひそかに胸を痛める同心もあった。場合によって非常に悲惨な境遇に陥った罪人とその親類とを、特に心弱い、涙もろい同心が宰領してゆくことになると、その同心は不覚の涙を禁じ得ぬのであった。』
 口供を口書したと言っている。人間社会と社会システムの中で生きる「ことば」は、人間社会のコミュニケーションとは何であるのか――と考えさせられる。
『ディクテーティング研究』第6号で、明治時代言文一致運動を背景に傍聴筆記者が登場、自由民権運動を背後から支えた。明治40年になると渋沢栄一先生が『昔夢会筆記』を着手、『徳川慶喜公伝』へと談話筆記は続く。談話筆記は速記から区別された。そしてぼく達は戦後録音機の登場を待つことになった。
 いよいよトランスクライバーの登場である。
 トランスクライバーのスタンバイを傍聴筆記とよんで復活してもいいかも知れない(日本語表記)。トランスクライバーを談話筆記者と言ってもいいかも知れない(日本語表記)。ディクテーションは速記者と区別される。グローバル・スタンダードの時代、トランスクライバーTranscriberの歴史は書記職人scribeから始まり、わが国戦後の録音機の登場を待ってこうして、トランスクライバーが誕生したのである。scribeの原義は筆記者、書記、聖書の、あるいは律法の謄写に従事する聖文学者、新約時代の法学者と規定される。scribeからTranscriberへ、Transcriberの原義に由来するこの意味をかみしめよう。世界史の中の日本という歴史の重みをかみしめて仕事をしようではないか!
 ぼくたちの子どもたちに日本語談話筆記教授(法)がまたれる。それは、わが国における教育革命の核となるべきものです。そして、21世紀はグローバル・スタンダードの時代、内容説明的な日本語を一度英語に置き換えて、新しい日本語表記を発見する。日本語で考えるな! 英語で考えろ! の意味はこの作業を続けることなのです。用語辞典はぼくたちの生活と仕事を豊かにしてきました。そしてぼくたちは21世紀の生活文化を豊かにしたいと考えています。言語の本質は文化である。それは知性の構図でもある。グローバル・スタンダードの本質はモノ(ことば)の本質・形式・機能・目的を見い出す日常生活(労働)の実現なのです。世紀末、大転換期の意味とは思想史的には、このパラダイムの変化なのです。
『1999 現代用語の基礎知識』1418頁にトランスクライバー(Transcriber)が用語として認知されました。「録音再生原稿(テープ・トランスクプリション)を制作し、文字化したり、電子化(ワープロ)して入力する人」と規定されています。
 トランスクライバーの皆さんと共に歩んだ長い年月、わが国において、『現代用語の基礎知識1999』の社会的な認知に感動をおぼえます。

【参考文献】
『文字の歴史――起原から現代まで』 A・ガウアー著 矢島文夫・大城光正訳 1987年12月25日 原書房
『声の文化と文字の文化』 W・J・オング著 桜井直文 他訳 1992年8月10日 藤原書店
『国語 3』中学校国語科用 平成9年2月5日 光村図書出版

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