メディアミックス&ソフトノミックス
Mediamix & Softnomics logo
ご挨拶
ごあいさつ
経営理念
会社の窓 マスコミ取材
組織図 マンダラ
事業領域
在宅ワークとSOHO
トランスクライバーの歴史
採用情報
キャリアデベロップメント
ディクテの仕事場
制作スタッフ
About Company
経営理念
2006年SOHO知識労働者の歴史的現在――長い不況からの脱出

 2008年(平成20年)、メディアミックス&ソフトノミックス/は20周年を迎えた。
 代表である佐藤正明の会社創設はどのような思いをもっていたか。20年目の総括として、それはある人にとっては「なぜ、アニメを描いたか、なぜ、文学をしたか」と同じである。
 なぜ「会社の今を描いてきたか」。
 ある人は自分は自分にまとわりつく影のようにそこから逃れられないで、その物象化を「芸術」や「文学」といったが、こうした行為は自分の根源性から生まれるものだと勘違いしている。永遠に人々の、共に働く者のこころをつかむことはできない。ここには共感への賛歌はない。
 彼の芸術について根源性論者は「君の根源性は何だ?」と問う。
 君の根源性をどう描いたかを問う。
 佐藤正明は生の社会的営為を、会社設立を通して実現しようとした。
 そういう意味でメディアミックス&ソフトノミックス
/は、参加するスタッフ全員の働きとして実現してきた。クライアントやスタッフと経営の中枢の一体となった取組みは「企業の資産」であり、クライアントには余裕をもってサービスを、働く者へは誠実で対等なパートナーシップを実現し、共に経営に責任をもつ中枢の感謝の気持ちを実現できるよう努力している。

 生物学の歴史的論争を俯瞰した。生物と環境との関わりとは相互の関係であって、ここにはどの生物も独善(触媒)では生きていけない。「われ思う、ゆえにわれ在り」と考えるのではなく、考えることを考える(物象化)、生き方を通して、それは人類について考えるのではなく、人類史について考えることを考え、今を、現代を、プロセスとして、目前の社会現象をプロセスの集積として捉え、政治や経済や社会や家族や自分の環境的課題(サーカマスタンス)を受け入れて生きていく。
 環境には適応すべきか? 環境を受動的に受け入れるのではなく、積極的に生命(いのち)をかけて自分のものにしていく。そこですべての動物は、植物も含めて、受動的に適応していったのか? 
 生命の歩みは「環境」を選択するのではなく、積極的に生命(いのち)をかけて新しい環境の場に基づく生き方(相互の関係)を生み出す。生きようとする生命(いのち)の生き方(変容)を求める。それは自己への学習をくり返す。
 一般に独立自営業者の生き方とサラリーマンの生き方とは違う。そこには環境の相違がある。
 先進国においては脱工業化社会といえる知識産業社会を迎えて、コンピュータと知識を保有し産業としては小さいが小規模の経済活動ができるようになった。将来、産業として発展していくだろう。自らの「生き方」を生み出す契機がインフラとして形成されている。
 前向きに積極的であるか、受動的であるか、自ら環境の場をいかに捉えるか。
「環境とは」とか、「環境は」とかの発想ではなく、個から環境と戦う本能(生命力)が必要だ。
 ぼくたちの生き方とは、動物は本能に基づいて巣作りという生産をするが、多くの根源性といえる本能に基づく遺伝子の発信(存在)ではなく、学習や訓練を通して学ぶ精神である積極的な環境の変化への「気づき」の力(能力)を持つことだ。生き延びるために学習する生命の力に基づく知恵に依存する。知恵とは気づきである。それは選択ということばがふさわしいか、といえば知恵を生み出す生命の力で自己の有といえる。自己の有とはスピノザのいうことばだ。それは環境に適応するのではなく、双方向の、環境と個の相互の力が作用する生命の力といっていい。ここに動物や植物は、場に根ざした学習する自己の変容と成長を予感する。
 しかし、自己の変容(変革)の大きな力は、G.ルカーチもいうように「外部からの力」による。教育と学習、訓練が変容をもたらす。
 動物も植物も「われ思う ゆえにわれ在り」とは考えないだろう。環境とは社会のことである。社会と共に自分は在る。
 そしてその自己の内的な対応をしていく生命(いのち)がけの生命力が変容の力となっていく。自己の内的な力からだけではけして生まれない。ある分野では「ことば遊び」をしている。それは動物、植物においては変異でしかない。相互の関係が変容を生み出す。
 こうして形式は分化する。新しい形式(種)の誕生である。文化の形成である。

 当社を設立した1988年、周囲の状況は、社会的インフラの形成とその集積が在宅ワークを可能にした。環境と自己の相互の関係であって、個人的(利己)な営為ではなく、環境を獲得する自己の社会的な協働として社会的に生きていく。
 中間総括として、それはぼくたちの始まりの生物観に基づく社史の視座である。
 ぼくたちは、このわが国の現実の社会(環境)なくして生きていけない。
 しかし、それは現実を受け入れるが、直面する現実と常に距離をおき、よりよい未来を描き(あるべき姿)、距離をおいたところから現実を否定的にみつめ、現実のすべてを受け入れ、それは弁証法的に生きていく。革新的であるかというと保守的な一面を持つ。多くの人は変化に抵抗する。
 社会とはクライアントであり、本局であり、子局のスタッフであり、そうした集団の合作(役割分担)である。そして何よりも、コミュニケーションにおいても自己の変容をしない根源性の影におびえて生きていくのではなく、文学であれ、芸術であれ、自分は触媒であって自己の化学的変化を拒否し、こうした独善が、わが国の、いわゆる「モノづくり」の基調となっている。
 TQCやQCサークルのような「概念」を外に生み出し、そこに気づきや工夫を吸収して成功の事例を「型」として「見える化」することにより、こうした改善は普遍化(止揚)できる。
 これまでも「ディクテノート」「コンポージィングノート」「校正ノート」「ライターノート」として本文から「外」に生み出し、知の創発を試みてきた。こうしてぼくたちの知の存立を目指してきた。
 祥子の提案だが、ウェブオフィスの職名の部屋のアジェンダ(議題・項目)とそのソリューションをナレッジの共有として整理・蓄積しよう。プロセスの工夫、改善は前進する。そして労働生産性を高めていこう。アジェンダとそのソリューションは、物語(ストーリー)となっている。それは分かりやすく理解しやすい。自分の提案やテーマをウェブオフィスから収集しマニュアル化する。
『ライター養成ステップ』1、2のように時系列的に整理し、それはアジェンダとそのソリューションの思考順序が明らかになる。どのようにまとめるか。
「知る、学ぶのステップ1」、「やってみてわかる学習と訓練のステップ2」、「わたしにもできる適用のステップ3」に分け、またアジェンダをKJ法によって目次をつくる。こうして全員ナレッジを共有しよう。
 ぼくたちは、あるべき姿を求めた社会と共に生きている。
 あるべき姿とは社会共通の資産であり、生み出した成果でもあり、文化でもある。社会と共に生きていく。
 文学や芸術の新しい風を求めている。「風」はやがて、すがすがしい空気にかわっていくだろう。



市井(しせい)のおばちゃんから学ぶ弁証法
 バスに乗っていると、次のバス停で、二人のおばちゃんが乗ってきて後ろの座席に座った。
 おばちゃんは家族や知人のことについて話し始めた。友人に「先日、こんな事があった」、とその時の状況、情景が詳しく順序をおって話されている。ある人の会話と行動である。
 そして、「あんた、どう思う?」、「私はこう思う」と話は続いている。
 おばちゃんが求めているのは、会話や行動についての「常識」の価値観だ。
 おばちゃんにとっては「常識」的に生きたいし、常識が生き方の価値観で社会技術に含まれる「知識」(マナーやルール)といえる。
 常識から外れることを恐れる。唯一の自分の生き方だ。そして、常識的に生きていきたい。
 また、中高年になって家族と社会で「おばあちゃん」とよばれることへの抵抗について語り合っている。バスの空席をめぐって「おばあちゃん、ここが空いているよ」と言われたり、また市井の場で「おばあちゃん」とよばれることへのわたしの「良識」についてあなたはどう思うか? 孫の母親に「おじいちゃん」とよばれて抵抗なしに受け入れる企業社会を卒業した中高年男性の意識は家族社会的であるか? けっこうおもしろい市井の話題なのである。

 たったそれが生き方の「理論」と言っていい。
 しかし、ここに弁証法的思考がある。
 今の若者にこのような思考態度があるのか、どうか?
 インターネットからの情報(インテリジェンス)が話題になって弁証法的思考が行われている。それは時代の意識として集積する。
 まず現実的・歴史的本質を説明する。
 次におばちゃんにとっては「常識」が理論である。マナーもおばちゃんにとっては価値観といえる。自分の生き方は家族の「殻」から出られない。
 まさしくおばちゃんにとっては常識をもって測定する。それは一応、理論的本質といえる。
 そして、こうした事実に対し、おばちゃんは実践的な生き方をしている。
 おばちゃんの思考はその精神のあり方において正しい思考をしている。
 こうして知識や専門知識を必要としない生き方を守ってきた。
「常識」と弁証法の距離は慣習的な日常性の生活意識と知識やその専門性の科学性に基づいた「間」の距離である。この距離は日常性を越えた自分の信じ込んだ思いという意識で、知識の性向を持つ。
 老人ホームの社会では、家族から自立して高齢者はまた違う生き方をしている。家族関係のドラマの局面を演じている。
 それなりに豊かな社会で自分は納得して生きている。
 こうしたおばちゃんの常識から外れた政治家の失言(身体検査も含めて)には手厳しい。
 一般に選挙で当確を獲得するのもおばちゃんの測定にかなっていなければならない。
「コンプライアンス」はこうした人々によって守られてきた。
 人と人のコミュニケーションで大切なことは、現実的・歴史的本質である「経過」を詳細に伝えることだ。ビジネスマンの報・連・相はおばちゃんから学べ。

 弁証法における現実的・歴史的本質は、こうした経過の説明がいかに大切であるかを知らねばならない。そして、それがどのように鏡映していくか、そこに人生がもっともっと豊かになって、子どもたちに伝えていくことができるか。



「自分らしくを生きる」生き方を求めて
 ぼくたち自身のことだが、娘にぼくたちの結婚にいたったその時のこころの動きや周りの人の感じ方や意見にどのように考えて結婚したかを、娘に話した。娘が結婚についてどのように考えて親の考えをどのように受け入れるか。そして、佐藤のサラリーマン時代の苦しみや毎日のおみやげだった100円のキットカットの持つストーリーは、いまここでは詳細にいえないが、その時娘は3歳か4歳だったと思う。しかし、娘はお母さんと相談して翌日の唯一のおやつにした。娘はキットカットには4つの山があり、朝目覚めてすぐに1つの山を食べ、そして午前中に一つの山、午後2、3時ごろに一つの山を食べて、寝る前頃に残りの4つ目の山を食べた。それを思い出して話すと、祥子も大切に食べたことを思い出して言った。忘れてはいなかった。
 娘が保育園に入った頃、強い女の子のいじめらしいことがあった。親としてとても悩んだ。
 小学校の思い出。父として子どもの成長とともに父の仕事を娘の成長に合わせた問題意識を事業として企画したり、営業したり、そして中学校へ進級した時の私立か公立かの高校受験の悩み等々……。
 そうした親のこころの情景について淡々と話して聞かせた。
 娘のこころの思春期にどのように鏡映したか、その情景の経過を話してあげた。
 今、佐藤は娘の結婚や息子の大学生活に娘や息子と対話を通して、そのこころの情景を語ることによって人生というものが自分にとってどのように継続していくものであるかについて、そして親がどのように生きてきたかを話している。
 今、ぼくたちはどのように「自分らしくを生きる」生き方を求めていくか。
 やがて娘の結婚と息子の就職、子どもの誕生、親として年老いていくこの時間を、これらの情景とどのように向き合い、ぼくたち夫婦がどのように生きていくかについて、自分らしくを考えている。
 佐藤は人生と仕事を哲学していきたいと思う。
 どんなふうに「自分らしくを生きていくか」。
 毎日の新聞に暮らしの欄があって、人生さまざまな生活のドラマが描かれている。
 参考にしたいものもあるし、自分がどうこの生活と消費について個性的に生きていく自分らしさを求めていくか、ここには宗教と哲学が根底に流れているような気がする。
 新聞を見ていると、定年退職後のアイデアについての情報が氾濫している。
 しかし、文学には定年退職後に自分に向き合う文学は見当たらない。
 なぜ作家は文学するのか? それが遠くにいるのだ。文学は一人で楽しむためにだけあるのか? 自分の人生と向き合うこころの情景が描かれていない。自分の今の生活を客観視でき、考えることもできるぼくたち自身の生活じたいの今を描く絵画芸術も少ない。街に出て人々はどんな思いで通るのだろう。生きている喜びが描かれていない。政治のニュースが新聞にあふれている。しかし、社会の片隅が描かれていない。子どもたちは芸術から何を学ぶのか? 本物が不在なのだ。
 ぼくたちの「自分らしくを生きる」生き方は、いまだ未来への「希望の原理」を求めて、人生の只今を生きている。

 トランスクライバーのインテリジェンスへの鏡映である仕事のおもしろさはここにもある。新聞や書籍で発表される前に、おもしろい人間のおもしろい「ご馳走」の舞台裏を社会的に食べている。社会という舞台で俳優(主人公)の迫真に満ちた演技を観ている。それを仕事としている。現代という時代に生きる理論的構成要素として学ぶ。
 ぼくたちの「自分らしくを生きる」生き方の環境とトランスクライバーの仕事場は社会が舞台なのである。毎日、仕事という名の「映画」を観ている。ラジオ番組に似ている。耳で観ている。
 しかし、わが国の社会的閉塞感を描く時代の芸術も少ない。ぼくたちの時代の希望と人々の真のつながりの輪も広がらない。
 家庭から職場に隔離されているサラリーマンにとって「自分らしくを生きる」生き方とは、職場にあるのではなく、唯一家庭にしか存在しないのか? と、悲しい歌を唄う。ワークライフバランスの概念はこうして生活と労働が分裂している。家庭(生活)と職場(労働)は本来、場においても分裂している。多くの人はいまだ働くことは受苦で、受苦から解放されていない。生き方、働き方の原型が100年以上も続いている。「多様な働き方、生き方」は政府の作文になっている。
 ぼくたちは本局への労働報告義務は一切ない。拘束することも一切なく成果物の仮納品義務のみである。これがいわゆる「在宅勤務」や「出勤」が伴うサラリーマンとの決定的な相違だ。そして、こんなことは言いたくないが、こうした「在宅勤務」は自分に正直に生きていけないかもしれない。まず「在宅勤務者」の管理をやめることだ。気軽に「出勤せよ」と命令しないことだ。自由な「在宅勤務」でなければならない。職場の担当者と対等・平等でなければならない。
 知識産業社会へ向かって、ぼくたちは「労働」の現実的様態として実現している。生活と労働が融合するぼくたちの働き方は「やりたい仕事、なりたい自分」に、更に「自分らしくを生きる」生き方が自然に調和して働くことは意識的で楽しい。初期の段階かもしれないが、自分に正直に快適に働くことが実現している。
「調和」とは、毎日がある時は娘であり、ある時は妻であり、そして家族にとってお母さんであり、また自分はトランスクライバーやコンポジショニスト、校正者、ライターとして変身している。
「働く」ということは職場へ通勤することだけではない。通勤から解放され自己管理が求められる。真の「個の確立」だ。本来、働くということはこういうことではないのか? 完全能力、実力、平等主義の出来高制で貫徹している。

 独立自営業者と在宅ワーカーの二面性は「規制強化」に対する本局の対応とコンプライアンスを徹底する在宅ワーカーと相互のパートナーシップが在宅ワーカーの「社会的弱さ」を超える本局のITシステムに個々人が統合されて、自ら同等性(アイデンティティ)をもって保有することができるIT環境システム(モノづくり)の高度化(資本主義の高度化)が実現している。
 政府は規制を強化すべきだ。規制を強化して販売不振により倒産に追い込まれるのは至極当然だ。すべての業務がコンピュータに統合される高度資本主義経済の新しい時代が来ている。次世代先進国経済社会へと向かっている。ぼくたちは21世紀の経済社会へとスムーズに移行することができた。
 デフレ経済下の規制強化の中で敗退せざるをえなかったのは経営への投資ができなかったからだ。
 情報化社会でコンプライアンスは双子の兄妹である。その仕組み(構造)とそれを動かす倫理によって成り立っている。食品の衛生管理手法(HACCP)や省エネ規制管理・運用の店舗の商品棚近代化への投資も地元商店街と格差を生み出すだろう。高度資本主義経済(ソフトノミックス)のソフト化、サービス化、デジタル化、システム化が徐々に動いてきている。
 こうした企業社会の背景からも独立自営業者と在宅ワーカーの本局とのパートナーシップが新しい次元へと発展していかねばならないだろう。いわゆる勝ち組の象徴となっている。
 今、企業社会から退場して敗退していったのは、これらの理由が大きい。

 サラリーマンは新興国との競争に疲れているのか、現下の変化に戸惑っている。失礼だが知的に洗練され「文化的」ではないのだ。デフレ経済の一面なのか、目標とすべき夢の楽園が見えてこない。そして、サラリーマンのワークライフバランスは均衡を失って家庭回帰への「閉塞感」に直面し希望を失っている。多くの家庭は生活に負けている。

 佐藤が目指している生き方といえること、思想かもしれないが、歴史的に社会主義者が求めた経済的な物質的解放というテーマは、社会環境を歴史のプロセスとして捉えた時、その時代に生きる「いま生きている哲学」を根底に弁証法的に生きて、その精神が社会的合意に基づく個としての「精神の社会的解放」を求めている。物質的解放という満足感は歴史的発展のプロセス(段階)として考え、ぼくたちは未来への希望を民主主義の原理に根ざすもので資本の市場原理(一面的な経済活動)にのみ依存するものではない。アメリカ民主主義との相違かもしれないが、人々にこころの格差を生まない「希望の原理」と「資本の原理」のバランスといっていい。日本民族の先進の知恵と文化を生み出すことだ。「気づき」を外へ概念化せよ! 
 政治的な知恵の不在が現実の悲劇を生んでいる。それは自然動物園に似ている。
 誰にでも自由な経済活動の環境は必要だ。ルールなどの法規制をしっかりと確立すべきだ。動物と人間社会史の相違といっていい。
 バブル経済崩壊後のパラダイム(価値観)の転換と、一方で世界市場へ向けたグローバルな経済活動が行われている。
 国境を越えて海外も地方のひとつとなるだろう。しかし、日本人にとって日本はこころの故郷になる。結局、この島国に帰ろうと思うかもしれない。いつでも帰って来れる故郷にすることだ。故郷は高度な先進文化の発信地でもある。インターネットは未来をつくっていくだろう。
 ここにはぼくたちの「自分らしくを生きる」生き方が流れている。
 ぼくたちは知識産業社会を目指し、日本というこの国が希望に満ちた豊かなこころの社会を目指して、この国で生活し、働いて文化を生み出している。西欧の文明と対話し日本人として真にグローバルに日本語で語ることを誇りとしている。
 ぼくたちは先進のデジタル技術をコンピュータと統合し、欧米と同じインターナショナルな働くことばを使って最新のテクノロジーで武装し、わが国においてSOHO知識労働者として出現している。
 海外からインターネットで日本語の文化に接することができるようになった。

 そして、もう一言、佐藤祥子は仕事というドラマの主演俳優になっていない。営業の物語であるドラマの筋書きを楽しく工夫して創っていけ! 企業社会で自分が輝く「自分らしくを生きる」生き方で大切なことだ。これは自己実現へのほんとうの道なのである。
 仕事も暮らしも同等のことばで生活のすべてが一つだ。その通り、生活と労働は融合している。
 独立自営業者とサラリーマンの生き方、働き方の境界で意識的に生きていけ! 企業活動の現実的様態に生きる知的な生き方だ。生活と労働が融合する自分にとって武装せる「自分らしくを生きる」生き方を目指し、自己精神のあり方を求めよ! やがて「本気」が生まれてくると自分を意識し、働くことの楽しさを掴むことができる。生活と労働の融合の真の意味なのである。自分が本気になれると自己精神の体系も生み出されてくる道になる。働く(仕事)ことを哲学しろ! どうやって「自分らしくを生きていくか」。こうして人間力が生まれてくるだろう。初めて経営の扉を開くことができる。
 自分が企画し、その営業を創造する喜びを知る。自分づくりが始まる。こうしてキャリアデザインを描いていく。ここでは自分の好きな仕事ができる。
「生活」において常識を超えて、常識の境界で生きていけ。生活と労働をひとつにして知的に生きていけ。

Copyrights(c)Mediamix & Softnomics Co., LTD. All rights reserved.