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 ドラッカー先生の明日を支度していくマネジメントへ向かうためにこころを育む。それは子どもたちが成人して仕事に対し向き合うまでのお話といえる。
 仕事とは明日を支度していく人間の行為といっていい。人間として事をかまえた何人にとっても精神と身体の行為といえる。
 特に明日の時代は企業の職場に囲い込まれるjobという文化に対し、NPOとか、市民運動というか、ひきこもりというか、jobという身売り意識に抵抗ある人々というか、親に「働け!」と言われている有能な内面や才能を持ちながら異能として社会の隅にいる人たち、家庭から社会へ参加できない人たち――。
 
 仕事とは「事をかまえてすること」と広辞苑ではいっている。何人も自分自身の生き様で、それはドラッカー先生のマネジメント――務め、責任、実践を自己の生命活動を仕事として把えることから始まる。ドラッカー先生も「行動の原理」ということばを使っているが、本来、人間の行動には原理がある。
 広辞苑で「行為」とは、おこない。「広義では人間のあらゆる動作を指し、狭義では、明らかな目的観念または動機を有し、思慮・選択・決心を経て意識的に行われる意思の動作で、善悪の判断の対象となるもの」、と規定している。
 この場合の行為の始まりの目的観念と意思は、知識から区別された感情と意思である。「協働」への「参加」は協働の個別化の中で生じる交通の未完結として把握され、この有機的組織の発生史、創成史、発展史、自然史をもつ。「協働」の目的はこの創造史が段落して自分にとって真の目的が始まっていく。
 脱線するが、新党結党劇の協働の個別化は抽象の「普遍性」から区別された現実的共同性である。こうして自己精神の生命活動は自己精神と社会的存在の主観から区別された客観、批評家から区別された人間、理論から区別された実践、また頭脳から区別された心臓、自ら影響を及ぼすことから区別された他から影響を受けること、そこには思考から区別された存在、自己精神の自発性から区別された自然のエネルギー、能動から区別された受動、悟性から区別された人間的本質力、人間はこの現実に生命ある人間はそのあらゆる現象を有限なものとして以外認識することはできない。
 
 わが国では義務教育をえて高校や大学に進学する者も多くなった。そして成人して独立と同時に、人間として後天的に仕事をもつ。
 何人も事をかまえてする仕事をもつと、事をかまえてする行為は自己実現(神の命令)で人間の人間らしい「価値」が尊重される。何人もこの価値に敬意をもつ。
 このとき「事」である対象物(モノや精神の成果物)に本来「霊性」でもいいし、「気」でもいいが――を感じる敬意があってモノは本物といえる。それは肉筆絵画とデジタル絵画(本物とデジタルとしての模倣)の相違は気の空(くう)と構図界の転換の姿(そこに在る)といえる。構図、デジタルメディア化においてもそこに意味を学ぶ。神の命令に与えられた生活(暮らし)の中の祝福である。自己実現の喜びだ。
(デジタル模倣については後日、日をあらためて考えてみたい)
 これを一本道と仮に言う。
 しかし、モノに対する賃仕事jobは本来そこに自己実現(神の命令)はない。■■に霊性を与えることも困難だろう。本来、この「価値」を認める生き方もある。にせものはにせものだ。
 しかし、この二つを前提として受け入れなければならない。「清濁合わせ飲む」。ここでは生きていく力にバランスが必要だとは思わない。どういう生き方をするかは自由だ。それはあなた自身だ。得するとか、損するとか、そこには子どもたちにこう生きれという神の命令はない。自分が自己実現へ向かって何事も「仕事として事をかまえてすること」にバランスということばはいらない。適当に生きていけば、適当に事をかまえていけば適当な結果になる。そこで自分の学んだ知識や技術で自分に「認識」できないことであっても、お役に立って生きることができればそれを素直に受け入れることである。(弁証法による実践的本質として理解してほしい)
 どんな道にも努力とは必ず実るものだ。


「知識そのものへの疑問」(『イノベーターの条件』P218)
「もしここで、知識の価値に疑問を生ずるならば、まさにこれこそ、2400年前にソクラテス〔前470〜前399。古代ギリシャの哲学者〕が、知識を思想の基礎とし、世界観そのものとして以来、初めてのことになる。ソクラテス以来、西洋では知識の価値は当然のこととされてきた。ビザンチンからマルクス主義に至る諸々の神学者たちは、何が真の知識かをめぐって争った。しかし、西洋においては、ギリシャ以降、知識そのものを否定したり、その価値と意義に疑いをはさむ者はいなかった。

 知識に対する攻撃は、13世紀にフランチェスコ会〔イタリアの聖フランチェスコ(1182〜1226)が創始したカトリックの修道会〕の神秘論者によるものが、一度あっただけである。しかしそれも、大思索家トマス・アクィナス〔1225〜74。イタリアの神学者、哲学者〕によって退けられた。そしてそのころ、彼らと同じフランチェスコ会の聖ボナベントゥーラ〔1221〜74。イギリスの神学者、哲学者〕が、すべての知識は真理につながり、あらゆる知識が神聖化されるとの今日のわれわれの考え方が確立した。
 それでは今、はたしてわれわれは、西洋の基礎ともいうべきこの原理を捨てようとしているのだろうか。

 われわれが知識の価値に疑問をもちうるのは、まさに知識の成功のおかげである。知識の価値が疑われるようになったのは、それが行動の基礎となり、主たる経済資源となったからである。
 ソクラテスは、ソフィストたち〔古代ギリシャの弁論家、価値の相対性を説く〕に対抗し、知識は応用ではなく、行動への適用は知識の誤用であると主張することによって、知識を善として確立した。知識の目的は知識そのものであり、知識の価値はそれが英知となることにあるとした。しかるに今日では、口では何と言おうとも、われわれ自身の行動が、応用こそ知識の目的であり、あるいは少なくとも、知識の価値であることを示している。ソクラテスの主張は、もはや適用しない。
 かくして、明日のイズムは、知識をめぐるイデオロギーとなりうることになった。明日の思想と政治哲学においては、資本主義とマルクス主義において、金すなわち物が中心的位置を占めていたように、知識が中心的位置を占める。もちろんこれは推測にすぎない。
 しかし知識の応用が、知識の中心、知識に関わる全活動の中心、知識の体系的な探求全体の中心になったということは確実である。さらに知識の応用が経済と社会の基礎となり、あらゆる社会的な行動の原理そのものになったということもいえる。
 この変化は、あまりに大きな断絶である。知識自身のあり方に影響を与えるとともに、知識そのものを、思想と政治哲学の中心に位置づけることになる」(part4 問われる知識と教育 知識そのものへの疑問 P218)

 大きな意味で日本的ものづくりのあり方を受け入れなければなるまい。それを自覚しなければならないだろう。わが国の西欧化が日本人性の観念の領域に浸透し、新しい日本人のあり方もものづくりを通して変化していくだろう。それは知識の生活への応用を創造的に論理性の獲得を通して目指していくのではないかと思う。

「これは、知識が自らを最終目的とするものから、何らかの成果をもたらすための手段に移行したことの必然の結果である。これまで知識とされていたものは、単なる情報にすぎないことになった。今や、かつての技術とされていたものこそが知識である。現代社会の動力源としての知識は、適用され仕事に使われて初めて意味をもつ。仕事は、専門分野によって定義することはできない。目的は、常に学際的たらざるをえない。」(知識の政治学 知識の性格変化――目的から手段へ)

「知識に関わる者は、知識に関わる意志決定が、政策上のリーダーシップに関わる問題であって、知識だけに関わる問題ではないこと、したがってそれが知識に関わる者の手中にはないことを納得しない。意思決定の力をもたされていないにもかかわらず、責任だけ負わされるなどということは、さらに承知しがたい。だが、この責任を負わないかぎり、彼らにはいかなる発言権も与えられない。いずれにせよ意志決定は行われる。与えられた道は、責任をもって意思決定に参画するか、誰かの意志決定を受け入れるかの二つに一つしかない。」(part4 問われる知識と教育 知識ある者の責任 P221)

日刊工業新聞2010年(平成22年)4月7日
「指示待ち」官僚 国力損なう
経産相、職員・学生に異例のメッセージ

「指示待ち、受け身の官僚は国力を損なう」――。直嶋正行経産相は6日、同省職員と入省をめざす学生に向けた異例のメッセージを公表した。民主党の「政治主導」路線で意欲をそがれた官僚にエールを送る内容。同相は「政治主導は官僚の提案を拒否しているのではない。それを整理して考え方を決めた」として「官」の復権を訴えた。
 メッセージには「あるべき公務員像」として挑戦、カイゼン、現場主義の3原則を掲げている。同相が指示し、省内の若手を中心とする議論の結果をまとめた。「われわれ(官僚)の商品は政策。顧客は国民だという当然の考えを確認した」(人事課)という。
 同相はすでに同期の一斉昇格を廃止、Ⅰ種Ⅱ種の区別を撤廃した人事評価や民間企業への出向など「霞ヶ関の中でも先進的」(同)な制度を導入している。今後は同相の示した3原則を人事の評価軸に据えるとしている。

 P.F.ドラッカー先生はご著書で随所にconcept コンセプトという、あえていえば政治用語を使っている。はたしてこうした認識があるのかどうか、コンセプトとは理念とか、原則が市民社会や政府の社会階層へ展開される政策のことである。言っておくが、商売の販売用語ではない。ホームページでも言及したが、自民党の石破政調会長は、政府の政治政策を「商品」と言った。経済商品ではないのである。ドラッカー先生の指摘に対立するならそれでいいかもしれないが、それでは政治政策とはまったく関係のない概念だ。
 小売店や量販店で販売される商品とは異なる。
 小売店や量販店では企業のコンテンツとして生命科学的にいえば、プログラムされた商品が陳列している。政治と経済の諸問題がどのような諸政策によって社会問題がソリューションされるか、思想や理念、原則が見えない。
 コンセプトには広告用語として既成概念を破る考え方という意味もある。
 あるべき公務員像が自公政権下ではまったく欠落していた。政策立案能力もなかったし、最近政権交代前の20年間はわが国の政治と経済がめちゃくちゃに破壊した。
 自民党には「人づくりのあるべき精神のあり方」が見えていない。だから国のあるべき方向も持っていなかった。
 考える道具としてのことばの規定が欠落しているし、政治思想が「国民の生活が第一」になっていない。二大政党制の政治下におけるあるべき公務員を描くことが必要だし、あるべき理念を求めて自分なりに国家像(進路)をもつことだ。優秀な官僚の登用があって国家の未来の姿を描くことができる。
 
 メディアミックス&ソフトノミックス/はjob賃仕事を認めていない。ぼくたちの仕事の文化はworkだ。ぼくたちは労働時間の規定をもたない。
 
 workはドラッカー先生のマネジメントを学んだ。人間社会の基本はパートナーシップである。パートナーシップを協働として概念規定した。夫婦の家庭、家庭の暮らし、社会のあり方、集団の役割分担、共同体の役割分担、地方自治のあるべき姿、国家のあり方、国際社会のパートナーシップ。
 近年この姿を犯すものとして企業のあり方が問われる。
 小企業といえども社会を構成する一員としてあるべき姿に立脚していなければならない。
 現実政治がいかにあるべきか? 政治のリーダーシップが問われている。新しい政治の自己体系化である。
 
 パートナーシップは適材適所が望ましい。明日の社会のあり方だ。何事においても仕事をする行為の対象は平等で機会の平等と理解してほしい。出版社における編集者はマルチテクノロジストだ。鏡として学べ。
 パートナーシップの適材適所は顧客から指名されて自己実現する。メディアミックス&ソフトノミックス/が出来高制から出発したのは、広く深く組織の内在的発展の原動力としてここに依拠した。労働時間の規定をもってはいけない、と考えている。自己精神の「抽象的普遍性(あるべき姿)から区別された現実的実践は常に未完である。だからバランスということばを必要としない。
 組織の装置としてのメディアミックス&ソフトノミックス/はこれまで特定の業界に棲家を求めた。存在感を示すためには知識労働者の組織化が必要でもあった。それは売上高に結果する。出版業界のサーカマスタンス(周囲の情況)に影響されている。
 組織については後述するとして、事をかまえてする仕事に対して異能の側面もあるだろう。しかし、一定の所得を確保しなければならない。適材適所の間の悩みもある。ここでは、「合格点」を最低のラインとする。現実的に素直に受け入れる生き方である。我れの自己精神から区別された汝の……。知恵を出して自分らしい働き方を夫婦で話し合え。
 この区別はどこから来たのか、どこへ行くのか?
 だが、現実の変化にいかに生きていくか? それは知識の性格が変わったことによる。
 常に自己精神から出発し、自己精神へ回帰してのみ認識は成立する。この時、真理は何よりも科学を生み出し、科学は真理を再検証し、だから真理は自己精神の無限へ解消される。この繰り返しがドラッカー先生のマネジメントの本質でもある。ここには常に明日を支度していく広義の余裕をもった務め、責任、実践という現実的な生命活動をもつ。
 そして再び、この人間の生命活動とは佐藤にとって自然で普通の「生きる生き様」でもある。何人にとっても生きているということはどういうことなのか? 
 
 ものづくりのいかなるプロセスにおいても自己を対象化していくことにこだわることだ。対象物に厳しく客観的に向き合い、もう一人の自分が自分を見ている。たとえばそこには仏がいて、自分をいつも見守ってくれているし、自分を常に見ていてくれる。もう一人の自分は神の命令に素直に従っているかどうかを見ている。そうした仕事をしていくことだ。
 NHKの朝の8時「ゲゲゲの女房」がどのような完成度をもつか、見ている。
 
 また脱線するが、中世やルネサンスの知において原因は結果の親であった。もう一度繰り返すが、時間の原因はどこから来たのか? いまわれわれが認識するところでは、時間の始まりも終わりも知らない。つまり時間の前に時間があったように結果の前にはそれを生み出した原因があって、だから原因の原因はどこから来たのか、「にわとりが先か、たまごが先か」の矛盾そのものであるように事物の現象にはそれを生み出す働きだけを認めることはなによりも有限的認識の矛盾を生み出す。ホームページにおいてテキスト相互連関性について指摘したが、キリスト教は西暦をリセットした。リセット前とリセット後の概念を生み出した。
 生命活動において小さなリセットから巨大なリセットまで個人的と社会歴史的なリセットがある。小さな個人的な生活習慣のリセットから今日のように経済システムのリセットまで自己精神の構成物質は人間社会史の中で生きている。それは意識を持った社会共同体にもあてはまるし、意識をもたない天体にもあてはまる。
 
 指名されて「優秀」とする。これは得意不得意を超えている。知識の性格の変化に対応できる力でもある。合格点は「次もお仕事が続いて」合格点とする。
 私は私の原因を探す。
 音楽的認識においては転換であり、社会科学的認識においてはリセットである。常に未完結として把える。けしてバランスではない。突き抜ける自己のエネルギー(原動力)がある。人間的な余りにも人間的な生き様であって、子どもたちの児童書に描かれた科学者の伝記から学ぼう。人物歴史書やテレビ人物歴史ドラマなど学ぶものは身近にある。どのように描かれているか、いわゆるバランスには呆れる。思考停止症候群といっていい。
 
 人間としての生命活動をどのように把えていくか? 
 何人の生命活動も「生命活動の交換」として把える。それは本来、譲渡できないものである。しかし自然権が付与された。いわゆる権利である。それは近代において権利譲渡といわれるようになった。後世の哲学者には異論をもつ人も現れるだろう。
 ここではドラッカー先生のマネジメントの本質――務め、責任、実践はworkとjobに分裂した。
 母と子、親と子、家族や兄弟姉妹、人生の数々のステージ――子の誕生、入学、進学、結婚等々、そこには「無償の贈り物」もあるだろう。権利譲渡は発生しない。しかし、その共同体においても無償の譲渡がおこなれている。母親が赤ちゃんにおっぱいをあげることも権利譲渡ではなくて愛だ。愛と権利譲渡は本来対立するものだ。親の満ち足りた愛に育つ子ども、そして成長、成人しても親と子の絆がある。佐藤は政治とカネについて言っている。
 しかし法律はどのような境界を哲学としているのか? 母や兄弟や親友から無償の愛としていわゆる「借金とはいえない(認識できない)借金」があったとする。法は権利譲渡の規定が曖昧だ。社会的に規定できるわけがない。それは夫婦の性においても親子が、子がいくつになっても親の子に対する愛についてもむずかしい。親が具合が悪く車に乗せて病院へ行き医師に病状を説明する子もいれば、90歳を過ぎても親は自分で医師の診断を受ける親もいる。
 どこまでが自由で、愛があって、愛が社会的に広がり、どこまでが生き方として社会通念上認められ、愛が愛としてどこまで与えられて認められ、他人に迷惑をかけない愛の自由がどこまで認められ、しかし成人になった子の学費をめぐって学費を子に投資したとして権利譲渡を主張する親もいれば、親の務めと責任と認識している者もいる。本来愛の物差しはありうるのか。ヘーゲルのいう「存在」の哲学を受け入れる。
 またそれに悪意をもつことはどこに問題があるのか? ただ言えることはjobとworkの思想の根源的な相違である現実の人間の姿という感情である。                         

(平成22年4月25日)



生産的生命活動相互の交換(交通)

 人間の生命活動の本質規定は生命活動の相互の交換と把らえ、次に生命活動とは本来譲渡できないものであり、人間の存在として「人間の実存」を認識し、だから生命活動の交換が前提され、そして、生命活動とは絶対に譲渡できない媒介物である、とヘーゲルは考えた。
 規定できないものとして人間の生命活動相互の交換(=交通)を把える。
「媒介」とは「或るものを他のものを通じて存在させること」。ヘーゲルは「直接的に存在しているものが、実は他のものによって条件づけられて存在しているものであり、すべてのものは直接性と媒介性を含む」と考えた。だから生の受苦として愛がある。
 現代法は絶対譲渡できないものを「囲い込む」(職場・特定)ことによって方便とした。jobの成立である。
 非哲学的な「バランス」が闊歩する。人間を資源と言い換え、「市場」を発明した。
 人間を「囲い込む」と、いわゆる就業規則を発明した。本来の人間性にルールや名札をつけた。やがてインターネットを通してわが国国民も番号で呼ばれるようになるかもしれない。企業の不祥事は自由(良心)を剥奪した人間に対し、口をそろえて社員を「指導」「管理」するという。社員は方便としてのみしか生きていけない。ストレスからくる社会病理は実は企業の病理でjob特有の労働者にとって方便はバランスをとる生き方に変わった。半分悪意があり、半分善があるのか? 法にはこの哲学的な境界が矛盾したものとして存在している。国家の社会的閉塞感、腐敗、衰退のシグナルである。
 近々、人的資源というモノの物品は番号で整理したほうが効率がいい。
 ここには広辞苑でいう仕事という行為のこうした法の境界が矛盾したものとして「善悪の判断の対象となるもの」とした。剥奪されたものと自己の有との間にある。本来、仕事という行為はこの善悪の判断が自己に属するものとして、けして譲渡されないものだ。
 だが、現実的な法は企業内弁護士によって解釈されている現実もある。「在る」という事実だ。法は感情で裁くのか?
 ドラッカー先生の「在る」(配置)という知覚的認識をリセットする政治政策の問題とするのか。
 佐藤は「現実を否定し、現実的に生きて(法)きた」。佐藤の生き方として把える。バランスではない。法例研究をどう位置づけるのか? 

 この間、堤 未果氏の『ルポ 貧困大陸アメリカ』(岩波新書)を通読した。
 第5章 世界中のワーキングプアが支える「民営化された戦争」145頁――「これは戦争ではなく派遣という純粋なビジネスです」
 仕事のこころを失ってカネ(貨幣)のための賃仕事である。
 人間の生命活動相互の交換は何人も明日を支度していく自分の行為という仕事だ。本来人生に退職ということばはない。自分のマネジメントを失っている。善悪の判断の対象として正義の戦争をいう。世界の一般大衆はバランス(方便)をもってのみしか生きていけない。一方に加担するとか、しないとか。責任を曖昧にする以外、進路はない。常に法は矛盾したものとして存在している。
 検察審査会が何の権利によって「ヒトの命(いのち)」を裁くのか。方便か? だから政治的なのか?
 
 何人も「親に頼んで誕生した」者はいない。「テキスト相互連関性」についても同じだ。立法と裁判は矛盾を一方的にリセットした。他方、人間に対する愛が生まれた。社会的な愛だ。「資格」という矛盾に満ちた方便の社会になった。「現代文学の敗北」はこの他方のリセットという知覚的認識において社会的愛を探求することなく、利己的な実存や宗教観を原因とするのか、どうか?
 つまり、規定できないものとしての人間の生命活動相互の交換を把えていない。ぼくたちの日々の暮らし――家庭で親子で世代間で、コミュニティーで、インターネットで交換=交通している。リセットは方便となった。人と会わなくていいのは便利なことになった。
 人間の社会的存在における社会的な愛が実現する実体とは何だろう? 人間に対する愛によってもたらす人間性の回復という実体って何だろう? 学問や科学が「人間の夢」という実体を持たない虚構の世界へ入ってしまった。実体とは方便として貨幣でもある。この貨幣の裏側(人間の実存の幻影)には物語があって、目(知覚的認識)をつぶって、みなドラマを演じているにすぎない。虚構の世界はまともな社会か?
 仕事のこころは明日を支度していく自己のマネジメントにある。
 
 ドラッカー先生の知覚的認識を整理しなければならない。
 
 要素規定としてドラッカー先生の知覚的認識では、
「デカルトは一歩進め、全体は部分によって規定され、全体は部分を知ることによってのみ知りうるとした。全体の動きは部分の動きによって規定されるとした。さらには全体は部分の総計、構造、関係をはなれて存在しえないとした」(テクノロジストの条件 6頁)
 ドラッカー先生は、因果から形態へ で、「今日ではあらゆるものが因果から形態へ移行した。あらゆる体系が部分の総計ではない全体、部分の総計に等しくない全体、部分では識別、認識、測定、予測、移動、理解の不可能な全体というコンセプトを自らの中核に位置づけている。つまるところ、今日のあらゆる体系において中核となっているコンセプトは形態である」(テクノロジストの条件 6頁)生物学がその典型である、と言っている。
 
 近代経済学が砂上の楼閣として仲良しサロン化した。

 目的論的世界観で先生は、「今日ではあらゆる体系が目的律を核とするポストモダンにおける諸体系のコンセプトは、全体を構成する要素(かつての部分)は全体の目的に従って配置されるとする。ポストモダンにおける秩序とは、全体の目的に沿った配置のことである。こうしてこの宇宙は、ふたたび目的によって支配されるもの、すなわちかつてデカルトが捨てた世界観へと戻った。だがここにいう目的とは、中世やルネッサンス期のそれとは異なる。かつての目的は、物質的世界観、社会的世界、心理的世界、哲学的世界の外部にある絶対的存在だった。これに対しポストモダンにおける目的は形態そのものに内在する。それは形而上のものではなく形而下のものである。宇宙の目的ではなく宇宙のなかの目的である」
 
 独立独歩の生き方、勝利の方程式が瓦解していく歴史の過程にある。
 
「ポストモダンの世界観は、プロセスの存在を必須の要件とする。あらゆるコンセプトが成長、発展、リズム、生成を内包する。デカルトの世界観では、すべてが等式の両辺にあって移項可能だったのに対し、ポストモダンの世界観ではすべてが不可逆である。大人が少年に戻ることはなく、船がウラニウムに戻ることもない。大企業が同族の中小企業に戻ることもない。それらの変化はプロセスにおける質の変化であって、元に戻ることはない。
 プロセスにおいては成長、変化、発展が正常であって、それらのないことが不完全、腐敗、死を意味する」(テクノロジストの条件 8頁)

 早朝の静かな空気(呼吸)とリズムをつかめ! 自分を失うことなく――それを距離間をもって自己のマネジメントとして自覚せよ。この一文はドラッカー先生の遺言と読んだ。

 佐藤の考えも修正が必要だ。ドラッカー先生の知覚的認識、形態的世界観に対しこの小論はそれへの思索を試みる。ドラッカー先生に問いたいことは「神の存在」である。そのままにして……。
 いま形式について考えている。広辞苑では、
 【形態】1.ありさま。かたちに現れた姿。形式。2.〔心〕⇒ゲシュタルト。
―がく【形態学】(morphology)1.生物の構造・体制について研究する生物学の一分野。一般に生理学と対置される。解剖学・記載的発生学などを含む。生物の諸類について体制を比較的に研究する学を比較形態学という。2.結晶の幾何学的性質を研究する結晶学の一分科。―けいせい【形態形成】(morphogenesis)生物の発生における形づくりの過程。すなわち、各種組織・器官の形、大きさ、相互の配列などが新しく生じてくる過程。形態形成。
―しんりがく【形態心理学】ゲシュタルト心理学に同じ。
―そ【形態素】〔言〕(morpheme)意味を有する最小形態。
―ろん【形態論】〔言〕(morphology)語の屈折・派生・合成など形態変化を取り扱う文法の部門。語形論。

 英語のform 形 形状 外形
 意味内容(content)と対立する言語の形式的側面 音声的、意味的実質 (哲)形式、認識の作用面、型、組織 形式内容と区別された事物の外部 形式(ある種類の事物を他のものから区別する本質的特徴) (物が現れたり存在したりするときの)状態、形態(一般にその種類)

 独gestalt 姿、形
 用法を見ると、あることを実現する(姿のある)もの、者 あることを形にあらわす(表現する) 心理学でゲシュタット 形態 

 アフリカ大陸の動物たちが草原で群れをつくって生きている情景を想像してほしい。一般的に動物の生態に対する様々な動物の種類が、自然動物社会で息づいて(配置)いる。
 ドラッカー先生の思想的根底には生物的世界観がある。
 何を言いたいのかといえば、直近ではスマートグリッド(次世代送電線網)やわが国国土、地方に暮らす人々、いろいろな地域での暮らし、それからメディアミックス&ソフトノミックス/の組織網、ネットワークとして組織されているが、各々の暮らしを犯すことなく調和するためには統合が必要だ。それはどのようにマイクロビジネスの論理として成り立っているか、働く者一人がマイクロ単位である。しかし、群れで生きていかねばならない。ただそれだけのことだ。このマイクロは細胞として、ヘーゲルが考えたように自分は実は他の者によって条件づけられて存在している。そこにある暮らし(人間の生命活動の形式)は100人が100の色をもつ。

 メディアミックス&ソフトノミックス/は株式会社として出発した。NPOではない。ここには会社理念と仕組み(ビジネスインテリジェンス)、突き抜けていく、やり抜く力を求めた。ここがNPOとの相違である。これがすべて発展の原動力の情念となる。
 愛すべきスタッフ、ホームページ訪問者、すべての人に「生き抜く炎を燃やし、頼る生き方ではなく、さらに自分の底力を出し切った生き方を求めよ。

 だから人間の生産的生命活動の協働(zusammenwirken)、この協働は群れのその生命体固有の維持装置としての働き、機能していく。人間の生命活動の生命意識から生まれ協働を生み出す。自己精神と身体はまずなによりも現実社会の明日を支度していく生命活動の場をへて実現される。それは生き活きとした自己精神であり、現実的な生命意識のある自己精神である。人間社会の生命意識が諸個人の、一緒に協働の効果を上げるための組織としての生成を予感させる。
 この生命意識はその土地固有の民俗や風俗として同化模倣が生まれ、固有な文化と歴史をつくる。形態的の萌芽である。諸個人の協働の生命意識から生まれる知識や技術(道具)、分業が誕生する。家族単位では夫婦間のパートナーシップ(役割分担)が家計の助けとなる。この諸個人の協働がパートナーシップで組織を生み出し強くし絆としていく。zusammenwirken 協働とは、諸個人が共に働く、協力(共同)する ともに作用する 共に効果を上げる 共同作業などの意味もある。夫婦は共同作業の起源である。
 現代では前提として自立した諸個人を市民社会の市民として敬意をもっていかなる組織も人間を物品のように購入してはならないだろう。現代という意味である。
 組織とは働く者の道具である。ぼくたちの生命活動の組織としての道具が道具として独立していなくてはならない。道具に助けられ、支えられこそすれ、けして都合の良い「利用」をしてはならない。組織という道具が永遠のいのち(企業のゴーイングコンサーン;企業の永続性)だと思え! だから仕事の組織に生かされて生きていく。キリスト教の教会が永遠のいのちであるように。
 企業という私的な組織の起源がここから始まった。キリスト教と資本主義の近代思想がここにある。スマートグリッドもまた本来の道具である。
 
 グローバル時代となって「形式内容と区別された事物の姿、ある同属の種類の事物を他のものからの区別できる本質的特徴をもつ」ものも現れてくるだろう。地方の方言による意味のニュアンスなど、その他、ここから生まれる。民族による事物のあり方や使い方の物象化がこうした相違を見て理解する。近頃のテレビの料理番組での炊飯器の使い方も注目している。
 NHKテレビで見たが、最近若者たちの音楽やファッション、美容に現れたビジュアル系トレンドが紹介され関心をもった。若者の形態的世界観もおもしろい。化粧は歌舞伎や演劇に学び、今を演じよ。いかなる表現からも意味を学ぶ。

 これを生命活動相互の交換の形式と把らえ、生命要素と仮にしておく。生産的生命活動相互の協働の原型である。パートナーシップのあり方を考える。
 
 これら現実的な生命活動相互の交換の現実的様態はこうして
 現実的・歴史的本質――人間の交通
 理論的本質――現実的生命意識
 実践的本質――現実的生命活動
この目的因である実践的本質は上記が全的に統合されて把えられる。上記これらの項目は本稿の形式と把えてもよい。

 生命活動相互の交換(協働)の目指すもの(目的)

 譲渡しえない生命活動の交換と関係を奪われては酸素が奪われると同じように相互に切り離しては死滅する。こうしてここでは目的因とする。
 生産的生命活動相互の交換=協働(zusammenwirken)はここでは部分(配置)の連関の中でのみ成り立つ。そこに在る(配置)ことだ。ドラッカー先生のことばでいえば、プロセスを重視する。ここで佐藤のいう協働はパートナーシップと同義である。
 若いビジネスマンに勇気を与えるとしたら、自分の仕事とその業務プロセスにこだわっている人、予感している人にエールを贈る。このプロセスへの気づきや工夫から自己の成長のプロセスが生まれる。研鑽のテーマだ。こういう意識をもった働き方をしていけ。
 佐藤は動物園か自然動物園の自由を尊重している。だが人間社会史は理性の歴史を希求してきた。もっともっと自由でなければならない。そのためにたのしく感動の中にいなくてはならない。
 ぼくたちは上記の意識からここへ来た。そして、どこへ行くのか。
 独語でgattungとは種類、種属のことで、ぼくたちはわが国の未来へ向けて、その類的行為を求めていく。真に利害のもたないそこに在る(配置)生命活動相互の交換=協働の中からそれは生まれる。
 自らの葬送が種属の類的存在を希求する人々も出てきた。崇高な思いへと高まっている。
 今、こうした動きも見ている。
 
 生き様は常に未完結である。何人もどう生きたいか! という「死生観」の見えない考え方では大衆として遠吠えに聞こえる。
「バランスある生き方」はこの社会の閉塞感そのものだ。類的行為を傷つけることではなく、自分のマネジメントの知識を武装して、どんな時でも生き抜く力(情念)を燃やすことだ。突き抜ける力、生命意識の生命力だ。
 子どもの教育にも日々の生活の習慣からリズムのある自分のマネジメントを子に与えよ。大人になっていく訓練だ。自分のリズムが音楽(メロディー)を獲得したら、個性が出るようになる。感覚が身につく。子どもは社会の宝だ。指示待ち族を越えていく。子どもはゾウの生き方、リスやアリの生き方、牛やブタ、いろいろな生き方を見つける。会社員になっても自分の生き方を見つける。
 国民には仕事の夢を与えなければならない。生きていく夢だ。何人も自己の生命活動にとって夢をリーダーは与えよ! 選択と集中は働く者の夢を奪った。タネを播(ま)かなければ育ちもしないし、収穫もできない。
 
 佐藤は毎朝ウエブの「営業情報」へディクテーション(談話筆記)している。望ましいのはテーマのリズムやメロディーの塊が観念としてこみあがってくると、それをこころに見て整理して談話(歌詞)している。概念は数ミクロンの区別された境界をもって構築していく、概念のことばがコンテキストをつないでいる。いわば概念形成だ。
 抽象的な概念によってコンテキストは構成されている場合が多い。ここまで観念の塊を整理するにはキーボーディングに練習して慣れていくことはできなかった。常に仕事は考えることで、いまも山形の変換ミスの指摘はその概念、コンテキストとコンテキストを結ぶ境界のことばの蒸発につながっていた。
 佐藤はコンピュータで書けないが、それはこうしたことが非効率で会社業務においてはできなかったことが理由だった。今、それでも山形とけんかしながら続けている。パートナーであっても60%程度の許容力で受け入れるべきだ。
 それは結婚するパートナー選びについても60%と思う。許容力は会社の職場にもあるだろう。そこにも考えるヒントがあって、協働とは仲良しクラブのことをいっているのではない。尊重し合うことだ。
 
 最後に総合失調症やうつで数年苦しんでいる人もいるだろう。最後にプレゼントのつもりで一筆する。
 総合失調症やうつから脱出するには、自分の観念に現実的な生命活動相互の交換を弁証法へ高め、適用することだ。自分を認識する。精神病理と「正常」な精神の境界を観念の「かたまり」にしておいては脱出できない。
 それは上記の生命一般の現実的・歴史的本質、理論的本質、実践的本質に分裂させ、統合することである。病院のデ・ホスピタルで生活のリズムという生命活動の自己のマネジメントを再構築(再建)し、リズムを回復(復活)させる。作務や食事、務め(家事)を担い、暮らしのリズムを修復し日課にして務める。行動(行為)の原理を習う。気づきを本能としてもち、改善や工夫に関心をもち、平常心を養う。プロセスにおける「気づき」は生成、成長、発展の原動力だ。自己体系化の契機でもある。ドラッカー先生は「これらのないことが、不完全、腐敗、死を意味する」と。そして社会復帰できるよう自分の養生に務める。責任をもつ力、精神力(生命力)はやり抜く力だ。自己精神の再生――新しい生成、成長、発展のリズムを獲得する。また周りの理解――それは母なる愛に似ているが少しずつ自分をみつめて再生できる。
 こうして精神の核となる思考方法を持て! 外からの情報を自己精神の構成物質として再編していけ! 
 これは大切だぞ。痴呆症に思い出させることをせず、自分の外に関心をもたせ、外部からの注入だけが精神の正常化に結びつく。
 今は過去にこだわるな。またの機会が望ましいがゆっくりと過去、現在、未来をつなげていく。指示待ち族には希望という未来の世界が欠落している。何を自分の仕事とするか、この病の奥行きは広い。自己精神は日課としての務め、その責任、それを繰り返すことだ。責任を取る生き方ができるようになったら病気は完治する。自分を誤解している人が多い。自分の「持ち場」とせよ! ドラッカー先生もいうように本来「行動には原理がある」と言っている。気づきを求める。
 生命意識が整理できないから総合失調症やうつから脱出できないのである。精神科医も分かっている医師とクスリに頼っている医師がいる。
 自己精神が整理されないままで観念のままになっている。自分の観念世界を整理することは自己変革の橋を渡らなければならない。ある女性国会議員のようにヒステリーになってしまう。精神科医の前では無防備になり、こころを許してこの目前の橋を渡る勇気が必要だ。政治においては笑い者となったが、普通の人々にとって母なる愛と母への信頼だけが目前の橋を渡ることができるかもしれない。若者に愛を! 精神の病は社会問題化している。
 朝のNHKテレビ小説「ゲゲゲの女房」の主人公の思考を学べ。自分に適用していけ。この模倣から気づきの突破口が生まれる。そう祈る。
 
 商品しかつくれない官僚には目指すべき国の姿というクスリを与えよ! 夢と希望こそがクスリだ。わが国社会の閉塞感は経済システムの橋の向こう側に夢と希望がある。 社会として効果あるクスリは新しい夢と希望の国家の未来だ。あなたの生命活動に夢と希望があるか? 仕事に希望のもてない社会になっている。リーダーの責任だ。

(平成22年4月27日)
                     (平成22年5月1日 加筆修正しました)



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