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 いまメディアミックス&ソフトノミックス/の起業時の定款がすぐ出てきませんが、定款に企業内教育、社会教育、家庭内教育、生涯学習、もう一つか二つあったかもしれませんが、今朝は家庭内教育がテーマです。
 
 佐藤が小学3年生か4年生ぐらいの時、学校から帰って座敷で母は洋裁をしていた。かばんを置いてすぐ母のところに行く。これが日課だった。
 母は父との結婚前の郵便局の仕事の「出来事」を話してくれた。
 たとえばこんなことだ。
 仕事が終わる5時過ぎ、母は郵便局が逓信省管轄であった戦前、電話交換の仕事をしていた。そう紐電話交換機であった。声を聞いて誰かが分かる。株式相場売買取引の電話であったようだ。
 いま一般企業でも午後5時を過ぎると電話をしても受け付けてくれず留守番電話になる。
 これは地方公務員においても今でもそうだ。
 これは原則である。母は黙って局の担当者につなげたらしい。
 こんな話を母から聞いても小学3、4年生の正明にはよく理解できない。母はその時、この会社を起業した時と年頭所感にも書いたが、原則と非原則の話であるが、母の話のポイントは「黙って」つなげたことだ。何も話しをしてつなげることではない。お客は5時の締め切りを過ぎて焦っていただろう。損するか、得するか、そんなことは関係ないが、母は交換機の前にまだ座っていてその電話を受けて担当者へつなげた。
 母は正明にこの原則と非原則について自然な話だったが、いま思うと、こういう話し方も多かった。
 日刊工業新聞の良いところは、わが国産業社会の先端の技術や製品の「事例」をニュースとして報道していることだ。われわれが何を気づきとするか、何を一般的に参考にするか、自分の進路としている者も多いだろう。ニュースリリースで記事を書いていると思うが、どんな製品をつくったかは分かる。しかし、どんな設計でどう課題を解決し、そこにどんな思考による技術解決をしたのか、いつも中途半端な記事の内容である。

 今朝はきのう祥子からの電話で祥子が子どもを保育園に入れたいので、保育園の見学に行きたいという。佐藤は保育園に預けるのは2年後に入れてもいいだろうと思っている。
 これまで母親の山形に距離的に甘えることはできないで、自分一人で頑張ってきたことを佐藤は評価した。祥子の悩みは子育てから仕事をすることを理由に解放されたいという気持ちを垣間見た。しかし、佐藤が2年間はべったりとくっついて子どもを育てることを望んでいる。
 一般的な世の新米母親と同じ感覚であることにがっかりした。
 子育ての楽しみ方とは、母と子が少しは同じ目線で話が成り立っていく母と子のコミュニケーションである。そこに確かな愛があって、三つ子の魂百までも、というふうになるのだろう。
 社会の最先端ニュースを技術であれ、経営であれ、現下の経営者の必死な気づきを提供してこそ、新聞には価値がある。これは経営者にとっては考える葦である。この支えがあって経営者は進むべき道を探る。これは小学校や中学校、高校、大学とそこで学んだ正しい教科書から学ぶ理念が積み重なって知恵となって、自分の生き方に返ってくる。
 こうした事例の積み重ねが現実の把握を可能にする。
 母は子に得する生き方を教えるか、損する生き方を教えるか、またその半分のバランスを教えるか。
 佐藤の母は生き方を教えてくれていたと思う。洋裁しながら退屈しのぎに正明に話してくれる。
 ある時は、郵便局の当直で、仲間が深夜眠っている時に、トイレかどうかわからないが、その部屋を音もたてず静かに迷惑をかけないように部屋を出て行った話や、いろいろな話を母はしてくれた。正明にとっておもしろくもない話である。夜勤の仕事が終わって早朝に帰宅し、日中仮眠をとっている父が寝ている時は、外へ出て遊ぶように正明に言って、今、思うと気を使っていた。

 戦前はマスコミといえば、講談、浪曲が中心だった。佐藤家にはこの種のレコードが山のようにあった。手回し蓄音機で聞くものだが、黙ってこのレコードの浪曲を聴いていると、子どもながらしんみりしてくる。松下幸之助先生は講談や浪曲から人生のイロハを学んだという。人の情を子どもながら感じた。講談や浪曲から知った。人生の教えというか、人としてのこころの持ち方、人間社会って本来なんだろうと思う。自分の感情が開発されていった。それはやさしい愛とか、自分にご褒美をあげる理(ことわり)ではない。
 母は思い出すままに正明には話しとして事例を選び、教育してくれた。みなさんも娘時代に、あるいは結婚してから人生を学んだ「事例」を、佐藤の母は「かあちゃんはこう考えたんだよ」と正明にたくさん話してくれた。学校での友達とのつきあい、さすが父とのやりとりという「愛」については話してくれなかったが、息子や娘が就職することになると、あるいは学校での子どもの「悩み」など、母とコミュニケーションを求めるが、何を親は人として、人の道を教えるのか、損することか、得することか、そこに人間の実像が現れる。子どもは同化模倣の本能として親から親のクセをふくめて学ぶ。会社での生活、親は子の悩みにどう「自分は生きていくか」人生を教えなければならない。おそらく、35歳ぐらいまでは子どもだ。普通は35歳ぐらいまでは親を乗り越えることはできない。だが、相談できない親になってはおしまいだ。
 これは親の自分が体験した仕事の局面を「事例」として自分はどう向き合い、何を考え、何を手立てとしてそこをくぐり抜けてきたか、その生き様を教えなければならない。おとうさん会社で働く人、お母さん家で専業主婦では、戦後は娘時代までオフィス生活を送ったが、しっかり考えないで、責任ある立場にもならず、おもしろおかしく過ごしてきても、そこに真の人生は見えない。自分が前向きにぶち当たることをしなかったばかりでなく、何も学んでいない娘も多い。それでは子どもを育てることはできないのである。
 
 きのう祥子に電話で子どもを保育園に入れるのはまだ早い、と言った。簿記を勉強しようかと言うから、簿記(決算書)の見方という本を買ってもいいし、そんなことよりも今はチャンスとして赤ちゃんと一所懸命向き合い、赤ちゃんから子どもってどんなふうに育っていくのか、それを人間の成長ってなんだろう、と考える祥子になってもらいたいと思った。
 きのうの余韻で山形に話した。佐藤が常に心配していることだが、山形がどんなこころでメールをもらい、メールを読み、何を感じ、また電話を受けて聞いて、また電話でこたえて、どういう判断のもとにメールを書き返信し、それは佐藤と相談することか、つまり会社の方針を出すべきことか、あるいは山形の判断でできることか、社内の混み具合の判断、予定担当者のキャスティング調整など、したがって納期はどのように設定するか、それは過重な労働を強いいることはないか、今後にどのような意味を持つか、みんなに影響することなのでどんなこころをもって毎日仕事をしているか。
 まず、それを祥子に教えろと言った。それが仕事の判断をともなう入口なのである。
 トランスクライビィングをすることで人に教える知恵をもったか。
 仕事のこころとは理論一般と現実の特殊性をひとつのものとして土台はあくまで人の道として教科書的な正しい理論にもとづいていなければならない。
 佐藤の希望としてみなさんにはお知らせしているが、会社の役職につくことが目的ではない。赤ちゃんでいっぱいの祥子にみんなの仕事を保証し、みんなの支払いを保証し、自分の給料分も自分で働き、生み出し、さらにそのうえ経営していく力をつくっていくには、くだらん社長室長になることや、取締役になることを求めているのではない。自分で仕事を通して生きていく力だ。みんなのリーダーになっていくには、先が見えるところまで佐藤は頑張ってきたが、来年10月には3本ある融資のうち2本は終わる。もう1本は完済が見えてくる。この今を土台に自分の目指すべき目標が見えてこなくてはならない。
 それで背負う荷物を軽くして、祥子が経営に参画するなら、借金を背負う自信があるのか、みんなの所得を保証することができるのか、それは正しい道を正しく歩めば、正しく実現する。
 単純にいえばそういうことだ。ここに個人的な趣味や性向やクセをなくし、教科書どおりに近づいていけば背負う負担は少なくなる。誰か外の経営相談所へ行っても教科書どおりの返答が返ってきて、自分もそうかと理解認識し、正しく解決していく意欲や考え方のそういう意味での普遍性、そこにはクセのない正しい考え方ができるようになる精神の強さを持つことができるか。
 佐藤がテーマとして一貫して持ってきたのは、事業の魅力である。子である祥子に事業の魅力を訴求すること、働くみなさんに魅力を発信すること、それは経営する者の責任なのである。親の仕事の魅力を持ち続けることは事業承継者にとって必要なことだし、スタッフにとっても魅力でなければ事業の継続性は失われる。
 これが前提だが、こうしたことは母が子に語るコミュニケーションの一般的な常識なのである。子は親がいなくては育っていかない。一般的な魅力は子が育っていく成長段階とともに変わる。子に乗り越えられないように常に学んでいかなければならない。子は親を乗り越えていかねばならない。
 いや、わたしは賃金労働者に育てることが理想の人間であるとすれば、ここからは難易度はすこし低下する。悪いけど、気楽な稼業の人間をつくることになる。
 子どもは親を超えていくのが自然だ。当たり前だ。親は子の道の人生という道を外れることなく、真っ直ぐ歩けるように集中できるようにどこまで手助けできるか、子も外から条件づけられた存在である。だから外からをできるだけ軽減し、自分の意思が自分を切り拓いていけるように、その魂を教育することが家庭内教育の原点となる。
 たぶん祥子を認めるのは、みなさんの仕事量を祥子が保証できる力だ。これが真の力なのである。ここが力がなければここで正攻法の相撲をとる根性がなければ、得したいと思ったり、損をするのは怖いと思ったり、そんな教育では子どもを勇気ある子どもに育てることはできない。
 だから自分の人生を「事例」として子どもに、お母さんは自分の事例をこんなふうに考え、こんなふうに向き合って、そしてこんな生き方をしてきたと、あなたは言えなければならない。でも、子どもの未来なんて、大学を卒業してもまだ見えない。

(平成22年10月11日)


 家庭内教育の続きである。(理論的本質)と考えてください。
 松下幸之助先生の『心得帖シリーズ』6冊は、オムニバス(omnibus ;映画や劇などで、いくつかの短編を集め、一貫したテーマでまとめた作品。▼「みんなのために」という意味のラテン語が、「乗合馬車・自動車」を経て転用されたもの)
 生きていく個人と組織の普遍的な概念である。松下幸之助先生のまとめ方について学んでもいい。
 母が子に、師が弟子に、大学での教授が学生に、ここには口授(くじゅ)、広辞苑によれば、口伝えに教えを授けること。口受(くじゅ)、口伝えに教えを受けること。
 こういう意味がある。ディクテーションは口授による筆記といってもいい。発話者が専権もっている理由である。
 できたら自分の体験、自分が感じてきて勉強になったこと、それは受け身ばかりでなく、能動的で、前向きに勝ち得て学んだこと。人生で学んだこと。それをオムニバス風に構成して自分を裸にして子に授けること、といってもいいだろう。松下幸之助先生から学ぶ。
 佐藤の母は人生の、いろいろな仕事と暮らしの局面を切り取ってオムニバスとして毎日話してくれた。子どもを教え導くのは母の役割が大きい。何枚もの浪曲のレコードはこれらテーマの宝庫であった。今テレビ時代劇が代替しているのだろうか。
 しかし、学校まかせであったら、深刻な人格形成の危機に直面する。自分が育てた子ではなく、よその家の子になってしまう。佐藤はあまり学校の教室での先生の力を信頼していない。また学校教育での先生の仕事ではない。親として家庭内で教育するとは魂を子供に授けることである。
 家庭でのお母さんに難しいことは期待できないが、それでもお母さんとしての努力が必要だ。松下幸之助先生から学ぶのはテーマを切り取って、子どもにわかりやすくいろいろなテーマについてつくろって(織りなす)いくことが子どもにとってわかりやすい。母として子どもに伝えるのはこころのあり方(構え方)なのである。このこころは知恵の泉となっていく。人の生き方、人の道といってもいい。
 
 話しことばは一般にパロールといわれる。オーラルディスコース(oral discourse)との間に自分の理念や意思をどうわが子に伝えていくか。
 
 母が子どもに伝えていくのは、明日を仕度していくマネジメント、務め(自分の使命)、責任、実践を通した人生の道、生き様を死ぬまで継続していくことだ。あるいは、わが子に伝えることができるだろうか? 経営におけるマネジメントの起源はここから発する。

パロール Parole(仏)【原義】「言」と訳す場合もある。【発展】パロールは二つの対立概念を持っている。ひとつはラングであって、ラングが言語の制度的・システム的な側面を示すのに対して、パロールは個別的な個人の発言を意味するので、「発話」と訳されることもある。言語はこのようなラング・パロールによって成立することになる。他方、パロールはエクリチュールに対する概念でもあって、この場合はパロールは話されることば、エクリチュールは書かれたことばを意味する。(宇波 彰)

 パロールとディスコースの思想(概念)の間を考えてみよう。

(平成22年10月14日)


 子育てで家庭内教育が現れてくるのは、人間の生命活動において口伝えに食べもの(料理の文化)を与えることと、子に口授による人の道を授けることである。バカでないので思慮深く清潔に読んでくれると思うが、個人として未来の市民として人格をもつ人間としての人格形成が必要だ。親と子の前提なのである。
 一言つけ加えておけば、家の臭いをもたないことだ。
 ソフィスケート(洗練)するには知的でなければならない。古い家の「家族制度」を改革することだ。
 
 場面転換といおうか、事をあらたにする時、自己精神をそっちのほうへ向けていく。日常テレビを見ている時に思うのだが、こころの中でオープニング音楽や精神統一するための区切りを自分流につくって子どもであっても事をあらためて話しはじめることが必要だ。
 人によって違うが、自己の観念が現実とべたついて整理されないままになっているとすれば、未来に向かって成長していく子にとっては悲劇といえる。グローバルな時代においてはこうした過去の精神構造、少し厳しい表現を使うが発達障害の渦からなるべくわかりやすく論理的な話し方にこころがける必要がある。
 こうした傾向は国会論戦で観念と現実がべたついている発達障害児というべき野党の議員にいまやグローバル社会においては悲劇的な人格形成の危機を感じる。
 だから事をあらためてこころの中でオープニングメロディーで自己精神の扉を開くのもよいだろう。子どもの教育にとってはとても大切なことだ。
 
 時間(T)+時間(T)=時間(T)である。Tは増えもしないし減りもしない。時間は時間なのである。先日西欧哲学においての西暦について人間社会の存在の時間の起点から延長したのが人類史における始まりであった。人間社会とは人間社会史と把える。西暦以前は「時間の集積」として起点の時間前にした。延長は人間社会史の時間の記録でもあった。それは人間存在の記録でもある。
 オバマ政権誕生以後、クリントン国務長官はロシアで「リセット」を談話した。
 わが国においては天皇誕生の元号をもって時間の天皇の時代の時間の区切りとした。古代日本人にはこの宇宙の時間が「人間」の人間社会史の始まりとして神話をもって起源としたが、それは民族の民族としての時間の延長でもあった。
 ぼくたちの哲学においては西暦を併用している。グローバル社会においては共通の時間を、共通のことばで共有している。無限な時間における有限な時間は時間のリセットから延長が始まる。
 時間概念はこれぐらいにして、時間における法は、リセットの始まりでもあった。観念と現実がべたつくと人間の人間社会における基本的人権の思想形成がどのような時間という歴史形成の中で生まれてきたか、観念論者は時間を歴史的にとらえることができないで、切り取ったリセットの時間を原理だと錯覚してしまう。思想は無限なのである。思想に対する人間の思考の苦悩が原理を育てる。
 35歳にもならない子どもの「チーパッパ」が検察審査会という。
 時間軸というのはリセットの有限な法の時間意識でしかない。
 企業内弁護士は法の法例を事例という方便を職業としている。方便とはうそも方便なのである。「チーパッパ」は罪を人間の本質的なものとして裁くか、法に法のリセットが必要であるか、そんなにむずかしい問題ではないと思うが、日本人の子ども程度の感覚だ。だから、観念と現実がべたついていると言ったのである。
 
 法律はどうでなければならないか、法律とは何かを時間で説明した。
 
「事例」についても今では国としての戦略的な経済成長とグローバル社会の歴史的現在として企業の事業企画がどのような経済活動の中でどんな意味をもつか、そういう意味でこの事業企画を佐藤は「事例」としてとらえているし、また一方、懲りない悪の象徴として法例を事例として裁判される場合もある。それはリセットを求めるのではなく、法の抜け道を探しているといおうか、犯罪が成立するか、リセットなのか、犯罪が成立するのか法の厳格な解釈が必要で、疑わしくは罰せずの原則もあるだろう。
 
 母の「事例」も個人的なものと社会という生命活動の交換と協働が生み出したものと、今思うと二つあった。しかし、法には他人に迷惑をかけなくても罰せられるものもある。他人に迷惑をかけて罰せられない場合もある。法における刑量ってなんだ。こうした、うそも方便に組みしない。時間の延長で法律は非哲学的になっていくだろう。西欧哲学の土壌もないのだから。
 
日本経済新聞(平成22年10月21日)
法人税の税還付加算金 今後は減る?
適用法律で差「修正を」 検査院

 税金を納めすぎた法人が国税当局から還付金を受ける際、適用法の違いで還付加算金に差が生じることが20日、会計検査院の調査で分かった。検査院が過去2年間の約260法人に対する還付状況を調べたところ、国税通則法を適用した場合、法人税法などに比べ還付金が10億円減ることが判明、財務省に加算金が少なくなる通則法に合わせるよう求めた。
 検査院の指摘通り計算方法が統一されると、一定額を納税したすべての法人に影響するため、法人に戻る還付加算金は大幅に減ることになる。
 法人が税金を納めすぎている場合、確定申告後に国税当局が還付のために税額を変更する更正の請求をしたりすると、国税通則法が適用される。一方、年度の途中で納める中間納付制度や、仕入れにかかる消費税で還付がある場合、法人税や消費税などの各税法が適用される。
 還付加算金を計算するための起算日は、通則法を適用した場合より他の税法を適用した方が大幅に繰り下がるため、計算期間が長くなり、加算金に大きな差が生じる。2008〜09年に全国54税務署で、還付加算金が多かった266法人に対する計298件について検査院が調べたところ、通則法で計算すれば、加算金の額が10億6509万円少なくなることが分かった。
 財務省は「制度を見直す場合は法改正が必要。検査院の指摘を受け、今後、政府税制調査会で検討することになる」としている。

 佐藤はこの報道記事を素直に受け入れる。
 結論として理論的な民主主義と現実的な司法制度は愚民政治(意識)と素人市民によって崩壊していくだろう。

 母は昨年94歳で亡くなったが、メモがあった。間接的で遠回しな一文があった。
 それは自分のお墓をつくれ、というふうに理解した。ここには家制度の母の人生の総決算というべきことばであった。現代に生きる生き方(生き様)を母は言いたかったと思う。
 生命活動の交換と協働の個人と組織の単位と協働がマネジメントによって自己精神が成立する。
 何人も年金生活者になって自己のマネジメントを喪失してはならない。生きていく道、人の道は死ぬまで続く。あまり言いたくないが、人生卒業したのか、延命しているのか、よくわからない生き方を見る。賃金労働者の終点になっていないか? こんな人類の生き方はない。
 
 あなたは子に何を伝えていくか? 形ある生き方はない。
 世の祖父が孫はかわいいという感覚もない。孫はともに苦楽をともにしていく人生の戦友だ。だから神に祈るように自分の道を自由に生きていけるように、子も外から条件づけられた存在に抑制的で思慮深い愛を孫に持ち続けたいと思う。
 予定どおりならバカ息子も来年春には社会人になれるかもしれない。息子が30歳を過ぎるまでは、佐藤に「おじいちゃん」と言わせないようにしている。バカ息子は佐藤を「おとうさん」と思っている。息子のためにおじいちゃんではないのである。
 娘との妥協案として、「オーパ Opa;独語 おじいちゃん」と呼ぶように言った。
 息子の例をとれば、一浪したので5年間でなんだかんだ学費を含むと2,000万円弱はかかっている。親の思うようにいかない。赤ちゃんは親の計画コースに乗るだろうか? どんな娘に成長するかわからない。でも、オーパがいる。赤ちゃんの人生の戦友でありたい。
 孫を育てる夢もある。真っ直ぐ素直に育ってほしい。
 内輪の話になってしまったが、生き方はその人によって異なる。予定コースか、冒険が偶発するか、それはしらない。広く深い愛で孫を見守って生きたい。
 
 佐藤は高度成長期時代の新卒学生の予定コースを拒絶した。金太郎飴コースと年金問題で政府はその尻拭いを強いられている。ここでは人生には予定のコースはないんだよ。顔が異なるように考え方もみな異なる。
 そういう意味で本稿は子どもの人格形成期に母としての役割が大きいことを言いたかった。多くの人の成長期は一般的な原理をもつ。いっぽうで人間として精神と行動には原理がある。人生は原理の土台に花が咲く。
 発達障害児の多い日本社会で生きていく土台を祥子は子に与えることができるだろうか。
 佐藤はこれは親の祥子たちの仕事でオーパの仕事ではないと思っている。
 佐藤も歳をとっていくが、孫の人生の夢にこたえられる力を持ち続けたいと思っている。
 そういう意味で孫とは途中まで人生の苦楽をともにする戦友なのである。

(平成22年10月19日)



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