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 この小文は一度ボツにした。

 方便というか、便宜的というか、自分にとってどうでもいい感傷的考え方にすぎない。
日常生活でこのような一面を社会に対して示すときがある。裁判の判決文などその例でまじめさを感じない。歳をとったらただの「おっさん」になる生き方だ。
 自分らしく生きたい若者もいるだろう。この一文はそれへの応援歌ではない。

日本経済新聞 平成20年9月3日夕刊
明日への話題
「数字」から「人間」へ
作家 長部 日出雄

 世界経済を危機に陥れたサブプライムローンという問題が、専門知識のない当方には全く理解できない。素人の目からすれば破綻するに決まっている話に、どうして世界中の専門家が引っ掛かったのか……。このような「金融商品」なるものを考え出した人も受け入れた人も、マックス・ヴェーバーが資本主義の発展の最終段階に登場すると予言した「精神のない専門人」であるとしかおもえない。
 ヴェーバーがフライブルク大学の国民経済学科教授に就任したとき、その学科は未だ哲学部に属しており、やがて法学部に移って社会科学としての独立を果たした。これが一般の人間にとって幸せなことであったかどうかは解らない。(そもそも古典派経済学の始祖アダム・スミスが学んだグラスゴー大学でも、経済学は道徳哲学の一部であった)。教授就任においてヴェーバーはこう述べた。
「人間に関する科学──経済学がそれです──がなによりもまず問題にするのは、経済的・社会的な生活条件によって育てあげられる人間の質だ、という認識であります」(田中真晴訳)
 かれにとって経済学は、財貨よりもまず「人間」に関する学問であったのだ。
 サブプライムローンによって世界経済を危機に陥れたエコノミスト、或いはまたわが国の医療制度を崩壊に導きかけている政治家と官僚に共通するのは、専ら数字上の計算に終始して、最も本質的な人間の姿を完全に無視していることである。
「数字」から「人間」へ──。今やそういうパラダイムの大転換が行われなければ、人類に明るい未来はない。専門知識を持たない素人の当方には強くそう危ぶまれる。

■サブプライムローンは数学を経済学思想の主軸にした。10万年に一度の誤差が数学的に出ると言われる。科学は人間にとって生きていくための道具にもなるが、科学に人格や道徳が必要である。科学が道具になってしまった社会、資格取得も道具の典型的な例だが、数年で破綻してしまった。
 こうした道具化する知識と人間の生き方との間にはバランスが必要である。法律的には正しくても、人々から批判されるような側面があれば、それとのバランスが必要である。資本主義の下で法律に違反していないことを、つまり法的にくぐり抜けて、社会的な人道的な批判がそこにあるとすれば、それはバランスだと佐藤は考えている。
 構造改革は必要である。国民の生活がまず第一である。構造改革と「国民の生活」は対立しない。それとのバランスだと佐藤はいっている。そんな政治家は自民党にはいない。成熟した人間性を感じない。個性ある政治家の印象や「国民の生活」のバランス感覚も感じられない。
 何をするのも完全な律法的な条文に違反しないからといって人道的に反することは批判されねばならない。現実社会では、佐藤は何事もバランスが大切だと言いたいのである。
 しかし、こうしたことは佐藤にとって処世訓にしかすぎない。自分の思うように生きていく。そのほうが自分に正直で自由だと思っている。
 高度経済成長期のように生きていくのに「うまく世の中を渡れた」と考えるのはその人の自由だ。だが、バランスがあるか、50歩下がって厳しく問う。メディアミックス&ソフトノミックス/は正直・率直・誠実・個性を経営理念としている。細いが長い道を切り拓いていく。

 佐藤の学生時代の問題意識でしたが、サークル文化活動や○○運動でも、なんでも「言い出しっぺ」の責任として活動の終焉を迎えるとき、かかわった友人たちへ宇宙へ向けての各人の精神的解放の楽園を示すことが「言い出しっぺ」の責任であると考えてきました。それは生きていく存在へのことばをもたない人もいますが、各人の、人間の生命活動には進むべき道への解放を示していくことが必要だと考えるようになった。
 小さいことだが、テレビ局での連ドラシリーズの打ち上げ、その他、番組の終わりと新しい起点への思いなど……。

 個人的な佐藤には「現実を否定し、現実的に生きる」という考えが学生時代からあった。
「一にして多、多にして一」の(仏教的な)方便といえるし、都合のよい便宜的な生き方ともいえる。
 子育てにおいても自力本願の子どもに育てるか、他力本願の子どもに育てるか、母親の力は大きい。書店で育児書を「選択」するのはあなたの自由だ。三つ子の魂、百までもである。自己の生きる道を生み出していけ。

 現実的な社会と距離をたもち、「現実的」に生きてきました。「現実的」とは佐藤のなかで考えて、そして行動しました。漱石のことばに「意地をとおせば窮屈だ」と社会と自分との関係について語っていることばがあります。それは生きていくには誰でもが呼吸をし、世の中の水の流れが、けして自分にとって心地よいものではありませんでした。
 いま世の中の流れに意地をとおすまでもなく、自由に呼吸することができるようになった。個性的で本質的なもの(深海)以外、自己の「感情」(浅瀬)のレベルが、目の前に現れてきて、たのしく、自由に生きています。
「西田哲学」の仏教的方便である「絶対矛盾的自己同一」は混沌を含有する。欧米言語と対話することがあるとすれば、日本人の哲学する自己精神の言語的な意味でも厳格さが欠落している。
 辺境で、ローカルな感傷にすぎない。浅瀬で生きているかぎり農村で野菜づくりをしているほうがふさわしい。
 バランスと哲学は相容れない。当初この原稿をボツにした理由でもあった。
 かつて、自己精神が孤島か深海でさまよったのはサーカマスタンス(周囲の状況)ゆえであった。西田幾多郎の限界は当時の日本社会が閉鎖的な社会であったことも想像できる。
 佐藤の目指す方向に水が流れるようになりました。現実社会は経済の高度成長期の否定すべき時代よりもいま社会の上層気流の空気の流れに沿って生きていける時代になってきました。日本人がグローバル化により、精神の鎖国から開国へとパラダイムが転換していることを上層気流といった。
 レオン・トロツキーの『文学と革命』はいま『文学と社会の構造改革』として読み直すとグローバル化する社会の芸術思想の課題が見えてくる。
 高度成長期は人々が狂乱した時代でした。それゆえ学習の大切さをいっている。

 小社設立から3年目に組織形態をつくりました。
「雇ってもいなく、雇われてもいない」生産関係は現実に生きていく人間の、ビジネス社会での苦悩の表現でした。メディアミックス&ソフトノミックス/で働くみなさんは佐藤の「感情」として「企業の本物の社員」です。身内の対等のパートナーシップです。哲学的には「仏教的方便」にすぎない。真の人間関係といえるのか? 資本の論理をこえて限りなく真実を求める関係へと育っていかねばなりません。カネの切れ目は縁の切れ目か? ビジネスという関係の側面でお互いに「快適」な関係に育っていけるか? 佐藤にとって資本の論理と自己との戦いだ。選択する道はここにはない。スタッフのみなさんは最高意志決定権をもっている。かつて深海に生きていた記憶をもって自己をみつめる。
 ある編集者のビジネス感はパートナーシップをアウトソーシングの関係と誤解している人もいる。
 日本人にとって仏教的方便が快適さを保つバランスなのか? 哲学は方便よりも自己に厳しい。世界の孤島といえる日本人特有の社会意識の内的変容が必要だ。日本人の気づきへ鏡映による変容である。
 ジェルジ・ルカーチの「外からの意識の注入」が内的変容をもたらす。
 同じハンガリー生まれのマイケル・ポランニーのいわゆる「暗黙知」に対し、レオン・トロツキーはいまならどのように言うだろうか? かれの『文学と革命』は生きている。それなりに豊かさを獲得した今、ぼくたちは「根源性」(無時間的意識──時間の経過や環境に対して内的変化をしない)を温存すべきものか? 
 戦後アメリカからの民主主義思想がもたらした外からの意識の刺激(注入)は、こんにちを迎えてグローバル化の歩み(外部環境)に適応していかねばならないだろう。
 日本社会の変革を求める構造改革は、それは意識の変革を必要としている。意識の変容(学習)へと向かうことだ。それはけして根源性の牙を研ぎ、穴堀りすることではない。

 バブル経済の崩壊でパラダイムは転換した。
 いまこの日本社会で、ある意味で責任をもった生き方ができるようになり、現実を自己のなかでより良い環境をつくり出し、また環境に対して正面から向き合い環境を自己の個人的な行為の自然な方向へ向かっている実感をもてるようになりました。
 当時は現実的社会との距離を意識していました。否定的な現実でした。
 自己精神のバランスを保つことはできませんでした。
 環境がつくった佐藤の性格にもいまは手足をのばし、自然体で向き合うことができるようになった。
 しかし、自己と社会の距離感は自己のなかで知的な葛藤をすべきだし、悩み考えて行動を生み出すべきだと感じています。
 社会と自己との間には当然誰でも距離感があります。しかし、ここで生きていくには自己の自然体を必要としました。それが正直・率直・誠実・個性でした。
 バランスとは自己と社会との知的な距離感ともいえるでしょう。いま社会は社会理性(世界理性)を求め、歓迎すべき社会へと変化しています。
 佐藤のことばでいうなら、原理・原則・基礎・基本・ルール・手順・順序が現実の社会原理となりました。パラダイムの転換です。ここにバランスの内容(距離感)があります。
 サーカマスタンス(周囲の状況)への気づきこそ、自己変容の過程(学習)ではないだろうか。自分の身の丈大をどう把えるか?
 いま上野千鶴子先生の「おひとりさま現象」がおもしろい。佐藤はエルンスト・ブロッホの『希望の原理』を求めて、彼方の老後をみつめている。

明鏡国語辞典【ほうべん 方便】(1)仏教で、衆生を真の教えを導くために用いる仮の手段。(2)ある目的を達するために用いる便宜的な手段。
広辞苑【ほうべん 方便】(1)〔仏〕衆生を教え導く巧みな手段。真実の教法に導き入れるために仮に設けた教え。源蜻蛉「仏のし給ふ──は」(2)目的のために利用する便宜の手段。てだて。「うそも────だんご【方便団子】佐渡で、嘘つき祝をいう。様々な穀で団子を作って流す。──りょく【方便力】〔仏〕仏が巧みに工夫して衆生を導く智慧の力。

(平成20年9月8日、9日「営業情報」【本局から】に投稿したものに加筆・修正しました)





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