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ディクテの仕事場
論理思考技術としての弁証法成立へのスケッチ
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仕事場からの声



 フォネティサイズ(phonet’icize) 
 音声どおりに表わすこと。弁証法による証明では、日常の現実的側面(正)である「おかあさん」という発話は、理論的側面(反)で オ(o) カ(ka) ア(a) サ(sa) ン(n)の最小単位;音素 phonemeの一音の命(いのち)から成り立ち、このそれぞれ異なった単位の一言をディスコース(discourse)とよぶ。実践的側面(合)であるキーボーディングと画面から「おかあさん」とディクテ(談話筆記・口授の同等性)され、音節は文節に止揚される。

(「ディクテの仕事場用語集」より抜粋)


弁証法雑感
 弁証法は思考する入れ物で、箱の中にどのように何を入れるかはその人の自由です。
 ヘーゲルの弁証法は保守派から青年ヘーゲル左派までいろいろな立場で弁証法を使ってきたと思います。
 わが国が戦後左派によって唯物弁証法として左派の中身を強調してきましたが、「唯物」とつけたり、「史的」とつけたり、傾向性をもった考え方をしてきたと思います。
「史的」というのは、文明史の展望を描く点で使い勝手がいい立場にあったかもしれません。
 弁証法は日常大いに使って「ものの見方や考え方」を理念や思想に従って自由に使えるものです。
 テレビを観ていて自民党の二階堂俊博前経産相の記者会見で、弁証法的な論理で会見されていました。
 弁証法の(正)を、佐藤は現実的、歴史的本質(側面)と規定しましたが、これを「経過」(現状分析)と考えてもいいでしょう。これまでの事実、経過をまず始めに「広く認識」し、問題の現実と歴史的経過のコンセンサスを求める。
 理論的本質(反)では「本来こうあるべきだ」という経過に対する反省を行い、ここでの認識は現実を「こうあるべきだったと」、科学的、学問的な立場から立証する。
 実践的本質(合)では解決の指針が示されなければなりません。
 
 正反合は「二つが一つになるのか」というと、「二つが一つになって」そこからさらに三つに分裂すると予感します。つまり、実践的本質の(合)はさらに三つに分裂するのか?
 この三つとは、さらに現実的歴史的本質、理論的本質、実践的本質の三つに分裂する。
 佐藤もここからは推論する以外ありません。弁証法を使う人が自分の論理をリアルに証明することが求められます。
 佐藤は『ディクテーティング研究』第7号で小社経営の戦略であるパートナーシップを展開する意味で、最初の(正)(反)(合)の下に各々現実的歴史的本質、理論的本質、実践的本質がぶら下がり、この現実的歴史的本質を第1分析とし、理論的本質を第2分析とし、実践的本質を第3分析として考えてみました。
 生意気なことを言う気はありませんが、日本人の多くは現実と自分の考えとが「渾然一体」となった塊になった考え方をして、「思うこと。感じたこと」が整理されないで、たとえば起承転結で物事を考える人が多くいると思います。
 ここでは経過の説明を思考から独立させ、本当は「こうでなければならないんだよ」ということを分離し、「渾然一体」となった考え方を整理する思考する力がありません。
 
 国語学者や編集者によって「書かれた日本語文章」に日本語の美しさとすばらしさというか「無駄のない」「簡潔な」日本語に驚き感銘する文章に出会う時があります。
 わかりやすく的確な日本語の表現力に接したとき、心が豊かになったような気がします。
 
 政治は文学と同じです。政治家個人の感情的きまぐれか、性癖によって政治を行なった過去の時代から「文学的性格」として理解している人もいます。そこには政治の権力争いが感じられます。まったく政治は文学的性格をもっています。
 少し脱線しましたが、第1分析から第2分析、第3分析は(正)(反)(合)の(正)である現実的歴史的本質としてさらに掘り下げていきます。
 
 次の理論的本質は第4分析、第5分析、第6分析として理論系列の中で理論をさらに深めて考えていきます。
 ここではレーニンを想像するのですが、独裁者として独裁政治を政治的に夢想したと思われます。自分の考える未来を独裁権力によって「こうありたい」と夢想したのです。
 それはバーチャルな「現実」でした。権力者だからできた「政治の文学」であったかもしれないと感じています。
 この件は、このようにして(正)(反)(合)を第9分析までぶら下げていき、昭和40年代にある研究者が「形式と内容との闘争は第23分析なんですね」と言った対談の一文を今でも記憶しています。第23分析は理論系列です。レーニンの弁証法展開図は第36分析までと想像できます。
 みなさんもこの弁証法展開図をなぞってつくってください。佐藤の考えも符合したのです。
 
 小社の『ディクテーティング研究』では第6分析の途中まで描きました。
 それは未来の、未来というのは3年から5年ですが、その未来を現実的に予測し、どんな問題が潜んでいるか、思考することを止めました。
 それは自分の描く「こうなったらいい」という予測にしかすぎず、「未来の方針」である実践的本質とは理論的な経験(根拠)のないものに依拠していたのでした。
 
 会社その他での対応策などどのような論理で構築していくか、そんな時弁証法はお役に立つと思います。
 二階堂俊博先生は、どのような認識から自らの思考方法をもったのでしょうか。
 
 平成19年1月8日日刊工業新聞は報道した。
バブル経済の発生・崩壊
内閣府、実証研究に着手
政策の教訓へ

 内閣府は4月からバブルの発生・崩壊から克服までの日本経済を実証的に分析する研究事業に着手する。海外研究者を含む研究チームを設置し、バブル経済に関する歴史的事実を整理するとともに、政策・学術論争などの分析を行う。関係者の証言収録にも挑戦する。世界でも希有な経済事象として後世の研究につなげるとともに、今後の経済政策への教訓を導き出す。

 実施する研究事業の名称は「バブルの発生・崩壊からデフレ克服までの日本経済とマクロ経済政策に関する研究」。25年にわたる日本経済の変化と経済政策を分析対象とする。経済社会総合研究所の研究事業として07年度予算案に9900万円を計上する。
 研究は専門家によるアドバイザリーボードを設置して実施する。海外からも研究者を招き、10数人で構成。座長には政府税制調査会の会長に就いた元経済社会総合研究所所長の香西泰氏を招く。ボードの下に複数の分科会を設置し、総勢で数十人の専門家が研究・分析に当たる。
 研究活動は3項目に分けて実施する。一つはバブルの発生から崩壊、デフレ経済とその克服までの経済的・歴史的事実を整理・記述する歴史研究。二つめはそれぞれの過程を実証的に跡づけるための証言集の作成。官民の当事者による証言を集めバブルの構造や経済政策についての史実に迫る。三つ目は論争集の作成。バブル経済の発生原因などに関する研究や主張を分析し、後世の研究につなげる。新年度となる4月にはボードを正式に設置。併せて国際シンポジウムなどを開催し、研究事業をスタートさせる。08年3月までに研究成果をまとめる。
 
 現実的歴史的本質は、この系列において3つに分裂する。
 細分化した事実の分析として整理し、事実を分析、次に背景となった人々の思いや考え方を「歴史的理論史」として整理分析し、実践系列においては国民はどのような行動(経済財政政策)をとったかを整理していく。
 次の理論的本質も3つに分裂する。
 経済思想史の分析を3つに分けて分析する。現実的歴史的理論分析、次にその理論的論争の整理、そして背景となった経済財政政策の理論がどのようにとられたかを実証する。
 概ね思考方法は理解できる。
 このように弁証法は考えていく。
 
 中国共産党は(正)(反)(合)の単純な脱イデオロギーの図式で考えているようです。職業政治家として国内の特殊性もあると思います。
 しかし、中国共産党と付き合っていく上で、この弁証法はお互いの話し合いの論理に適していると感じています。日中関係の未来は明るい。
 一昨年12月末、日本経済新聞の報道によれば「マルクス・レーニン主義・毛沢東思想研究所」を改組し、「マルクス主義研究院」を設立したと報道されました。現代中国を分析する上で関心をもつ。
 弁証法は保守派にも使える思考方法です。
 日本の21世紀の政治は、老人たちから若い世代へ民主政治として文学から卒業する必要があるように思います。保守派の弁証法と日本共産党の弁証法(脱イデオロギー)は相性がいいと思います。

(「2007年SOHO知識労働者の歴史的現在」から抜粋)


 

市井(しせい)のおばちゃんから学ぶ弁証法

 バスに乗っていると、次のバス停で、二人のおばちゃんが乗ってきて後ろの座席に座った。
 おばちゃんは家族や知人のことについて話し始めた。友人に「先日、こんな事があった」、とその時の状況、情景が詳しく順序をおって話されている。ある人の会話と行動である。
 そして、「あんた、どう思う?」、「私はこう思う」と話は続いている。
 おばちゃんが求めているのは、会話や行動についての「常識」の価値観だ。
 おばちゃんにとっては「常識」的に生きたいし、常識が生き方の価値観で社会技術に含まれる「知識」(マナーやルール)といえる。
 常識から外れることを恐れる。唯一の自分の生き方だ。そして、常識的に生きていきたい。
 また、中高年になって家族と社会で「おばあちゃん」とよばれることへの抵抗について語り合っている。バスの空席をめぐって「おばあちゃん、ここが空いているよ」と言われたり、また市井の場で「おばあちゃん」とよばれることへのわたしの「良識」についてあなたはどう思うか? 孫の母親に「おじいちゃん」とよばれて抵抗なしに受け入れる企業社会を卒業した中高年男性の意識は家族社会的であるか? けっこうおもしろい市井の話題なのである。
 
 たったそれが生き方の「理論」と言っていい。
 しかし、ここに弁証法的思考がある。
 今の若者にこのような思考態度があるのか、どうか?
 インターネットからの情報(インテリジェンス)が話題になって弁証法的思考が行われている。それは時代の意識として集積する。
 まず現実的・歴史的本質を説明する。
 次におばちゃんにとっては「常識」が理論である。マナーもおばちゃんにとっては価値観といえる。自分の生き方は家族の「殻」から出られない。
 まさしくおばちゃんにとっては常識をもって測定する。それは一応、理論的本質といえる。
 そして、こうした事実に対し、おばちゃんは実践的な生き方をしている。
 おばちゃんの思考はその精神のあり方において正しい思考をしている。
 こうして知識や専門知識を必要としない生き方を守ってきた。
「常識」と弁証法の距離は慣習的な日常性の生活意識と知識やその専門性の科学性に基づいた「間」の距離である。この距離は日常性を越えた自分の信じ込んだ思いという意識で、知識の性向を持つ。
 老人ホームの社会では、家族から自立して高齢者はまた違う生き方をしている。家族関係のドラマの局面を演じている。
 それなりに豊かな社会で自分は納得して生きている。
 こうしたおばちゃんの常識から外れた政治家の失言(身体検査も含めて)には手厳しい。
 一般に選挙で当確を獲得するのもおばちゃんの測定にかなっていなければならない。
「コンプライアンス」はこうした人々によって守られてきた。
 人と人のコミュニケーションで大切なことは、現実的・歴史的本質である「経過」を詳細に伝えることだ。ビジネスマンの報・連・相はおばちゃんから学べ。

 弁証法における現実的・歴史的本質は、こうした経過の説明がいかに大切であるかを知らねばならない。そして、それがどのように鏡映していくか、そこに人生がもっともっと豊かになって、子どもたちに伝えていくことができるか。

(「2008年SOHO知識労働者の歴史的現在」から抜粋)



 先日、NHK総合テレビを観ていると、ある小学校で国語の授業が行われていた。
 小学校5、6年生の国語の授業である。
 そこで小学校の教師はこんな授業をしていた。
 交通信号をなぞって青の考えと、赤の考えとを対立させ、そして子どもたちにその結果「自由に考えてごらん」という授業テーマだった。
 子どもたちはいろいろ考えただろう。しかし、佐藤は奇妙な授業に閉口していた。
 子どもは「分裂」を起こしただろう。いったいどういう授業内容なのか、教師を教育者として疑った。教師は聞きかじりの「知識」で弁証法的思考の授業をしたかったのだろう。
 なぜテレビカメラが入ったのか? 
「弁証法」とは何のことか、この教師にとってチンプンカンプンであった。
 こうした小学生に対して教育者の立場を考えてみると、学校教育現場の恐ろしさと子どもたちにとって深刻な不幸を感じた。
 物象化(連想)から青と赤を対立させ、結論を求めるという小学校の学校教育の恐ろしさを与えて、「どう思うか」を子どもたちに求めたものだった。

 ほかに目を移せば「ねじれ国会」は弁証法とは全く関係がない。弁証法的思考の外(そと)に知恵を出さなければならないだろう。弁証法的思考を青と赤の対立と考えるのは、思考の停止である。奇妙な論法だ。新しく外に「方法論」を開発すべきだ。それに対する批判も小人の論法だ。外(そと)に気づきや知恵を出せ。
 現実的・歴史的本質として政治の「見える化」は、すべての政府審議会議事録を公開して、民主政治の土台を構築すべきで、まさしく弁証法的に公開すべきだ。
 現実的・歴史的本質が主権在民の視点でどのように扱ったのか、国民の前に明らかにすることである。
 小社は経営の「見える化」に取り組んでいる。スタッフへ公開している。

 学校教育で教育者として子どもたちにどのように「考え方を教えるか」、「ものの見方、考え方」をどのように教えるか、まずそれは学校教育の基本だと思う。
 佐藤の高校生時代、大学の入試問題として、ある新聞社の論説委員の『ものの見方、考え方』という書籍から出題されていた。こうして高校生になっても変で奇妙な出題が行われていた。
 生徒に混乱を与えた。

 こうした学校教育に保護者として親は子どもをどのように教育すべきか、ものの見方、考え方をどのように家庭教育で育てていくか。
 家庭という場は、家庭とは最小単位の現場でのコミュニケーション力を同化模倣していく場である。そのコミュニケーション力(現実的・歴史的本質)とは無限の力を持つ。
 現場・現物が気づきの宝庫で、学ぶという姿勢は、子どもの時代の生命意識(理論的本質)を育てる。
 それは個性ある現実的生命活動(行為・実践、実践的本質;自分らしくを生きる)へと導く。

 お母さんは「きょう学校でどんなことがあったの?」
 どんな授業が行われてきたかも、子どもに復習させなければならない。
 おもしろおかしいことに子どもが関心があると思われるが、授業がどのように行われたのか、ノンフィクション作家の佐野眞一先生の言うように「語って、説かず」の習慣をどのように子どもに教育するか、最も大切なお母さんの仕事である。ここに芸術性の萌芽が潜む。観察する目――気づきを学ぶ。
 お母さんはできるだけ子どもから真実を聞き取らねばならない。ここでは自分の感情などもあったり、話がすべってことばに衣装をつけたりさせないことだ。
 子どもの語ることが客観的である習慣をつけさせなければならない。
 そうしたことは教師の評価をお母さんは客観的に把握することができる。
 子どもには学校であったことを、まず始めに客観的に描写できる力を育てることだ。
 人文科学と社会科学の境界を知ることができる。

 上記の弁証法では現実的・歴史的本質を正しく描写する力を子どもに与えなければならないだろう。
 そして、お母さんは小学校の5、6年生に理解できる範囲で家庭教育が行われなければならない。
 子どもの現実的な生活(生命活動)の場である「きょう、学校であったことを詳しく客観的に描写できる力」を教育することだ(仕付ける)。コミュニケーションを活発にする気づきがここに生まれる。
 お母さんは「それで○○ちゃんはどう思ったの?」「あなたはそれをなぜそう思ったの?」
 子どもの成長に合わせて、「どうしたら良いと思ったの?」と聞くのもいい。
 子どもは自分の考え方に鏡映して、自分の考えを言えるようになる。自分の考えに生命(いのち);哲学が生まれる。
 鏡映とは弁証法においては理論的本質(子どもの生命意識)である。
「あなたはどうしたかったの?」(実践的本質;子どもの生命行為)、自分の意見をいえる個性を育てることが大切だ。

 政府の発表文書の現実的・歴史的本質を公開しないやり方は、「気づき」を圧殺する権力者の性癖である。庶民は常に見ている。「民主主義は多数決だ」という自民党の頭の論理構造は小学生の知的レベルだ。成熟した民主政治へと発展させなければならないだろう。

 家庭教育では人間についての倫理や道徳についてもさわりを入れる。市場経済学者の経済思想に、生きている人間の生身の姿が見えない。
 弁証法による「ものの見方、考え方」の基本がここにある。
 思考方法は親・子・孫へと100年その家族に遺伝する。

 根源性論者はコペルニックス的転回をしても弁証法の思考へいたることはできない。
「アレもだめ! コレもだめ!」という社会進化のモラル的な社会的規制(環境プラン2)は、いわゆる「生」の本能から生まれるものではなく、それは根源性論者の本能の記憶の生き方だが、反対に子ども時代からの教育をとおして、世界理性の苦悩(努力)から生まれる。
 それは知(理性)への気づきである。
 現実を否定し、現実的に生きていくことこそ、人間らしい生き方ができると思うのだが。

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