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 以下は一度ホームページの「仕事場からの声」に使った一文である。
 
市井(しせい)のおばちゃんから学ぶ弁証法

 バスに乗っていると、次のバス停で、二人のおばちゃんが乗ってきて後ろの座席に座った。
 おばちゃんは家族や知人のことについて話し始めた。友人に「先日、こんな事があった」、とその時の状況、情景が詳しく順序をおって話されている。ある人の会話と行動である。
 そして、「あんた、どう思う?」、「私はこう思う」と話は続いている。
 おばちゃんが求めているのは、会話や行動についての「常識」の価値観だ。
 おばちゃんにとっては「常識」的に生きたいし、常識が生き方の価値観で社会技術に含まれる「知識」(マナーやルール)といえる。
 常識から外れることを恐れる。唯一の自分の生き方だ。そして、常識的に生きていきたい。
 また、中高年になって家族と社会で「おばあちゃん」とよばれることへの抵抗について語り合っている。バスの空席をめぐって「おばあちゃん、ここが空いているよ」と言われたり、また市井の場で「おばあちゃん」とよばれることへのわたしの「良識」についてあなたはどう思うか? 孫の母親に「おじいちゃん」とよばれて抵抗なしに受け入れる企業社会を卒業した中高年男性の意識は家族社会的であるか? けっこうおもしろい市井の話題なのである。
 
 たったそれが生き方の「理論」と言っていい。
 しかし、ここに弁証法的思考がある。
 今の若者にこのような思考態度があるのか、どうか?
 インターネットからの情報(インテリジェンス)が話題になって弁証法的思考が行われている。それは時代の意識として集積する。
 まず現実的・歴史的本質を説明する。
 次におばちゃんにとっては「常識」が理論である。マナーもおばちゃんにとっては価値観といえる。自分の生き方は家族の「殻」から出られない。
 まさしくおばちゃんにとっては常識をもって測定する。それは一応、理論的本質といえる。
 そして、こうした事実に対し、おばちゃんは実践的な生き方をしている。
 おばちゃんの思考はその精神のあり方において正しい思考をしている。
 こうして知識や専門知識を必要としない生き方を守ってきた。
「常識」と弁証法の距離は慣習的な日常性の生活意識と知識やその専門性の科学性に基づいた「間」の距離である。この距離は日常性を越えた自分の信じ込んだ思いという意識で、知識の性向を持つ。
 老人ホームの社会では、家族から自立して高齢者はまた違う生き方をしている。家族関係のドラマの局面を演じている。
 それなりに豊かな社会で自分は納得して生きている。
 こうしたおばちゃんの常識から外れた政治家の失言(身体検査も含めて)には手厳しい。
 一般に選挙で当確を獲得するのもおばちゃんの測定にかなっていなければならない。
「コンプライアンス」はこうした人々によって守られてきた。
 人と人のコミュニケーションで大切なことは、現実的・歴史的本質である「経過」を詳細に伝えることだ。ビジネスマンの報・連・相はおばちゃんから学べ。

 弁証法における現実的・歴史的本質は、こうした経過の説明がいかに大切であるかを知らねばならない。そして、それがどのように鏡映していくか、そこに人生がもっともっと豊かになって、子どもたちに伝えていくことができるか。

 平成22年12月の下旬に町田の書店、久美堂で『新しい社会 公民』、これは義務教育中学生の社会科である教科書を購入した。
 どのようなことばが扉にあったかというと、冒頭はこれが終わってから述べる。

 この最後に、「社会科の学習をふり返って」
「大きな変化のなかで
 わたしたちはこの3年間、地理、歴史、公民の学習をしてきました。地理では日本と世界の各地がどうなっているのかを、歴史では日本を中心に昔の人たちがどのように暮らし、社会をよくするためにどのような努力を重ねてきたのかを、公民では社会のしくみがどのようになっているのかを学んできました。この3年間を終え、わたしたちは何を考えたのでしょうか。
 わたしたちは今、いろいろなことが大きく変わっていく社会のなかに生きています。科学技術の進歩はめざましく、グローバル化といわれるように世界は限りなく近くなり、豊かさもモノばかりでなく心の豊かさも強く求められるようになりました。このような大きな変化の時代に対応するためには、世界の現状を学び、過去を知り、社会のしくみを理解することがいっそう重要になるのです。

 社会の進歩のために
 社会をよりよくしていくために、わたしたちが尊重し、守り、維持しなければならないことが三つあります。一つは基本的人権の尊重です。これによって個人が尊重され、自由な活動や幸福で平和な生活を送ることができるのです。二つめは平和です。戦争になると、多くの悲劇と犠牲者をうんでしまいます。わたしたちは、「戦争のない状態」にしていくよう努力しなければなりません。三つめが民主主義です。国民主権による民主主義がなければ、国民の意思にもとづいて政治のあり方を決めることができなくなってしまいます。基本的人権、平和、民主主義をさらに世界規模で発展させようと努力していくことが21世紀の地球市民には求められています。

ちょっと脱線するが、40歳や50歳になったらこの文章について生徒に40分から1時間説明でき、またこのような知性をもってこの文章とは異なった「自分の文章」を書く力があるか? 
 それはそのまま今の中学校教師に力があるか?
 義務教育教科書はその国の国民の最低の教育水準を要求されております。最高知性の大学教授たちによって執筆されています。もしあなたが自分の専門分野の教科書がもし書けたとしたら、それはあなたの実力です。
 ぼくたちの暮らしは誕生したその社会や世界が大きな歴史の変化のなかで動いています。だからこの社会をどう生きていくか、それは自分の問いでなければなりません。いろいろな生き方があります。その生き方は一本道が限りなく続いている道と、何本もの曲がっていく道もあります。
 ただ自分の思いというものがあれば、そうした道を一本道とよんでいます。到達の仕方のこころって何だろう。何を思っていかねばならないのか、ただそれだけだと思います。
 こうした考えを自分の人生として生きていくには、考え方の方法があるのです。自分の進むべき道を迷わないためです。佐藤は歴史の先達から学びました。歴史の偉人です。自伝を読むと生き方も学ぶことができます。それは自分の生き方にしなければならないと、佐藤は思いました。
 
 本題に入る前に

日本経済新聞(夕刊) 平成23年1月14日

境界性パーソナリティー障害
リストカット・摂食障害…
高い自殺リスク
未遂者の6割 鬱など併発、診断難しく


 1月上旬、警察庁は2010年の国内の自殺者は3万1560人と13年連続で3万人を超えた、と発表した。自殺者には鬱病の人が多いといわれるが、最近の調査で自殺未遂者の約6割が「境界性パーソナリティー障害(BPD)」と呼ぶ精神疾患と診断されたことがわかった。専門家は「自殺対策には鬱病だけでなく境界性パーソナリティー障害の対策も必要」と警鐘を鳴らす。

人間関係が不安定
 10年12月、神奈川県在住の佐藤夏子さん(仮名、24)はおかゆや野菜スープ以外は食べなくなった。これまでになく激しい怒りを感じるようになり、友人を殴ることも。
 5年前、大学入学直前に市販薬などを大量に服用して救急車で病院へ運ばれた。境界性パーソナリティー障害と診断された。気持ちを抑えられなくなると、向精神薬を大量に飲んだり、腕をカッターで傷つけたりした。今回のような摂食障害もたびたびあった。大学はほとんど行かず退学した。
 入院して精神療法を受けるなどして症状は少し落ち着いた。最近ではアルバイトもできるようになった。友人は多く、相談をされると気分がよくなる。ただ対人関係がうまくいかなかったりして気持ちが落ち込むと「リストカット」するという。
 境界性パーソナリティー障害になると、言葉や行動のとらえ方が偏って感情をうまく制御できず、他人に依存しすぎるなど人間関係が不安定になりがちになる。空虚な気分が続いて死にたくなったり、衝動的にリストカットや摂食障害、向精神薬などの大量服薬などで自分を傷つける行動を起こしたりする。思春期から35歳以下の若い人に多く、女性が男性よりもやや多い。
 米国の研究では全人口の0.7〜2%が診断基準に当てはまるとされているが、もともとの気質や性格との区別が難しい。多くが鬱病やパニック障害などのほかの精神疾患を併発しており、正確に診断されないケースもあるという。東京都立松沢病院の林直樹・精神科部長は「鬱病と診断され、処方された向精神薬を一度に全部飲んでしまうなどの問題がある患者が、実は境界性パーソナリティー障害もあることが多い」と説明する。


精神療法で改善も
 リストカットなどの行動は、対人関係の不安や人とのつながりを保つためとみられがちだったが、最近では実際に自殺に至るリスクが高いとの指摘がある。松沢病院に入院した自殺未遂の経験のある患者155人のうち、56%が境界性パーソナリティー障害と診断された。3年間の追跡調査では、何度も搬送されて自殺にいたるケースが約1割あった。「境界性パーソナリティー障害患者の自殺率は1割ほどで鬱病とほぼ同じだが、鬱病などを併発するとさらに自殺リスクが高まるようだ」(林部長)
 早期発見と早期治療が重要だ。症状を和らげるための薬を飲んだり、カウンセリングや精神療法を受けたりする。薬は抗鬱薬や睡眠薬などを組みあわせて治療を受ける。
 現状では米国で開発された精神療法「弁証法的行動療法」がもっとも治療効果があるとされる。国内で同療法の臨床試験をした心理士の石井朝子さんは「生きるためのスキルを学び、実際に体験して獲得していく方法」と述べる。臨床試験では対象者22人全員に症状の改善効果が認められたという。
 弁証法的行動療法は、まず、数人のグループで講義のようにして対人関係や感情を調節する方法を学ぶ。同時に個人カウンセリングで足りない部分を補う。患者が衝動的な気分になったときなどに電話でのカウンセリングをすることもできる。
 同療法を実施する長谷川メンタルヘルス研究所の遊佐安一郎所長は「患者は感情調節がうまくいかないことが多いが、この治療ではうまく感情を調節できるようにしていく」と説明する。
 ただ、精神科医や看護師、作業療法士、臨床心理士など複数の医療者がチームを組んで実施する必要があり、「今の日本の医療体制では本格的に実施するのは難しい」(林部長)。
 08年には産業カウンセラーの辻松雄・代表が中心になり国内で初めて、境界性パーソナリティー障害の家族会が発足した。月1回、会合を開き相談や勉強会などを実施している。辻代表は「患者は多いにもかかわらず、治療が難しく患者や家族には情報が足りない。病気に対する周囲の人たちの理解も必要だ」と説明する。

境界性パーソナリティー障害(BPD)と鬱病の比較

BPD
鬱 病
症 状
感情調節がうまくいかず、自傷行為や自殺未遂を繰り返す 抑鬱状態や睡眠障害がずっと続く
発症率
0.7〜2.0% 6.3%
自殺率
約10% 長期間繰り返す人で約10%
治療薬
抗鬱薬や睡眠薬などを服用する 良く効く抗鬱薬がある
精神療法
感情調節などをするスキルを身につける弁証法的行動療法 認知のゆがみと行動を変える認知行動療法など。


 ちょっと脱線するが、平成22年の春から息子は作業療法学を専攻する4年生になって研修に入った。大学側から指定されたのは精神科の病院だった。「おとうさん精神科の病院の初任給は30万円なんだよ」と言うから、「くだらんことに関心もたないで、そこはやめておけ」と言った。
 息子を見ているとあまりに幼すぎる。息子は家庭で教育したが、まだ思考として自立できていない。
 大学では卒研のあと、卒業論文があって息子にテーマを聞いたら『在宅脳卒中後遺症者自身が求める自立と社会参加への支援』で、論文は脳卒中後遺症者をICレコーダーで取材し、それをまとめたものであった。脳卒中後遺症者の日常生活を何段階かに分類し、ケース(事例・症例)として社会参加を含むレベルを抽象し、それに対する作業療法学のテーマと支援のあり方を課題解決として、息子が卒論のテーマとなったら息子は当面この研究テーマをもって仕事に入っていくことを望んだ。
 取材した方の協力で、でも、患者は「大学院へ進学してほしい」という人もいたようだが、息子は就職して5年後ぐらいに大学院へ行きたい、と計画しているらしい。「おとうさんヨボヨボしていられない」。
 
 腰から下が理学療法士の分野、腰から上が作業療法士の分野で、精神科は作業療法士の分野である。
 父としてはまだ息子と一緒に歩みたい、という希望を持つ。上の娘とも小学生の時は跳び箱の跳び方のビデオをつくって出演させたり、中学生になって『マイバースディ』の校正のお仕事と関わり娘に読ませた。占いの月刊誌であった。娘は娘の道へ進んだが、バカ息子を普通の息子にしなければならない親の責任がある。
 14歳で大人になるのは境界性パーソナリティー障害の一例である。
 
 今は高齢者のおばあちゃんに好かれる作業療法士になってもらいたいと思っている。
 
 しかし、新聞記事「境界性パーソナリティー障害」は佐藤の守備範囲である。はたして息子と共通の課題を持てるかどうか。
 弁証法による思考の方法論は精神科医のあるべき思考の神髄でもある。精神科医も揚子江のこちら岸からあちら岸は見えない。
 ヘーゲルの世界理性にはそこに本質的な思考の安定があったが、20世紀の歴史はロシア革命やヨーロッパのファシズムを生んだ。
 しかし、上記新聞記事は治療法としての精神療法に弁証法的行動を求めている。
 これは佐藤の言う弁証法の実践的本質なのである。
 
 中学生『公民』、『歴史』の義務教育ははたして正しいかどうか? 次へと進む。
 
 この公民の教科書は第一章「現代社会を探ってみよう」です。そこで現代のわたしたちの社会や暮らしはどのようにつくられてきたでしょうか。現代の社会や生活の成り立ちがわかれば、今社会では何が問題になっているのか、どうすればよいのか、その手かがりを見つけていくことができそうです。学習が広がり深まることでしょう。
 調べる方法もいろいろあります。

■教科書の記述はこのあと「調査の基本的な流れ」と後述されている。
 ここでは調査の流れの三段階を一段階ごとに考えてみる。

『調査の基本的な流れ』
1テーマを決める
 テーマを見つけるにはいろいろな方法があります。例えば、(1)写真を見比べたり、(2)統計資料を比較したり、(3)年表のなかで気づいたこと、疑問をもったこと、もっと知りたいことなどを見つけるのもよいでしょう。また、先生や友だちと相談しながら、学習のねらいに合ったテーマを考えてみるのも一つの方法です。

 例えば、「私は誰か?」「自分は何になりたいか?」「自分はこんな仕事がしたい」
 あるいは「これらの現象は何を意味し、どんな現象の傾向をもつのだろうか」こんな研究をしてみたい。「こんなことに自分は疑問をもつ」「未来はこんなこともできるようになる。だからこんなテーマで研究して開発し夢を実現したい」
 
 しかし、自分は何をしたいかわからない人もいる。何になりたいかわからない人もいる。ただ漠然と会社員になって働いているだろうことを予感している者もいる。けれどこんな仕事より、こんな仕事のほうがましだというか、漠然とした好き嫌いが自分にはある。それが何だかわからない。自己の有がなんとなく拒絶する。
 自己の有とはスピノザのことばだ。いのちをもったすべての動物にも、たぶん生物にも自己の有があるだろう。生か死の瞬間に自己の有を自覚する。
 
 ここからは自分にとって、なりたい未来、夢、仕事など、そこからテーマが生まれる場合も、親の仕事をやってみたいと思う者もいるかもしれない。
 自分はどう生きていくのか、定まっていないのである。
 それもわかる。人間は30歳までは好きなことを学ぶために学ぶ、もいいだろう。どんな体験も自分の精神の一部の構成要素になる。あなたはこだわって生きていかねばならない。それはこだわる事柄が人生の一本道であることを祈る。そこにはこの一本道が細い道からより大きな幅のある道へ考える広がりをもたねばならない。ここからでも自分の未来は獲得できる。どんな道からも獲得できる。
 ここには社会の底辺の落ちるところまで落ち、そこから這い上がっていくこともできる。
 そういう人と、会社員で生活しながら作家になることもできるし、音楽家になることもできるだろう。人によっていろいろな方法で自分の未来をつかむことができるだろう。
 個人的なことだが、佐藤は落ちるところまで落ち、そこから這い上がってきたタイプだ。方法はその人のやり方がある。ここには損も得もない。人生の生き様なのである。
 人生に損と得があると思う時代錯誤の人もいる。こういう人は社会を恨む。原因は自分の考え方にある。原因が結果なのである。死に物狂いの努力だけが地底から這い上がることができる。エネルギーがいっぱい蓄積されていくだろう。
 背景には高学歴化がある。就職を運と考える人と、そんな人もいるかもしれない。
 
 だから地底の苦しみをエネルギーに変えて、確かな力をつけ、這い上がるエネルギーを燃やし、一歩一歩獲得してこそ、それは本物を手にすることができる。だから努力を失ってはならない。自己の努力だけを信じよ。怠け者の見分け方も見ることができる。自分はみんなと違ったところが、違うところから来た自分であることを発見する。生命力とでも言おう力を発見する。
 選択とは期限がきたら解消する。他力本願だからだ。生み出した生命力とは違う。自ら生み出した原動力という生命の力がないからだ。それは社会的存在でないことも理由である。
 
 教師は一人ひとりの個性を見つめているかというとよく分からない。多くの子どもは大学を卒業しても自分は誰か? 知らない者が多い。そういう意味で佐藤が思うのは大学を卒業しても30歳まではお勉強の時間と思う。
 高卒で自分の能力や才能などがどっちへ向いているか、進学の道へ進むのもいいだろう。
 大学を卒業しても日常の忙しさにかまけて卒論のテーマを頭の整理箱に封印してはならない。できれば卒論のテーマにこだわることができる進路を目指すべきだ。それが30歳頃まで続く。
 時代の新しい知識や技術を学び、社会における自分の生き方が定まってくる。学生時代とは違った社会で生きていく自分の生き方に集中できるようになる。自分の生き方を定め、方向を見出すのは40歳を過ぎてまもなくである。40代、50代は男の働き盛りである。
 
 少年14歳で人格が完成する人とは生き方が違う。
 企業の人事部が人間のどこを見て、どう評価するか、その企業の半世紀を定める。
 
 自己精神を見つめて人生一本道であることは自分の好きな、魅力の持てる分野を目指すことが一番自分にとって自然だ。ぼくたちの社会の文化には豊かで多様な知識と技術が必要である。それを自己のものにしていく学習を積み重ねていくにはどうしたらよいか、こうして自分の進路を見つけていく。
 言っておくが、選択しろとは言っていない。自分の思いが生き様となって、それをある現象とすれば、そこから自分だけの姿が生まれる。姿とは形式である。こうして一本道は確立する。形成していくといっていいだろう。

2 調査方法を考え、実施する
 テーマが決まったら、最もふさわしい調査方法を考えましょう。例えば、身近な大人の人に聞いてみる、図書館や博物館に行って調べる、インターネットを利用することなども考えられそうです。その際、何を調べるか、聞き取るかなど学習計画を立て、見通しをもつことが大切です。

 書店やインターネットで好きな書籍を探してみる。
 中学社会の「歴史的分野」(日本文教出版)では「聞き取りを行う」の中で「メモを取りながらレコーダーやビデオカメラでも記録して聞き取りを進め」などの記述もある。
 そして、「聞き取りをまとめる」。イラストがあってその吹き出しには「聞き取りのさいに使用したレコーダーで録音した音声やビデオで撮影した映像なども保存しておきたいですね」……。
 大学生になると卒論などで研究対象の課題を定めてレコーダーなどで取材し、その聞き取りを文字化して聞き取りをまとめることも必要だ。
 そればかりではない。原書の翻訳においては自分で翻訳することが重要になる。佐藤はこれまで「日本語で考えるな」「英語で考えろ」と言ってきた。英語の原義の広がり、深さ、さらにはことばの働き、ことばの放射、ことばの限定(意味)など、構文からことばの機能(働き)にヒントをえて事業企画の広がりと深さを日本社会に適応していく。それは原書から学んだことを細部の機能(働き)を営業種目として抽出したり、当然機能であるのでそれは事業それ自体の原動力となる「概念要素」となる。
 ここまでできたら事業企画の概念も、そこには概念の本質、形式、機能(働き)、要素となり事業企画の目的が見えてくる。それを事業の形式の分化としてひとつの事業が生まれるだろう。それを統合していくことも大切だ。
 大学卒業程度でもできる。それがもしあなたの知の集大成であるなら、自分と事業のマネジメントは一致して、毎日の務め、責任、実践の道が見えてくる。たわいのない日常は平凡であるが、その平凡こそ非凡に転化する。そのとおり事業のゴーイングコンサーン(事業の永続性)なのである。
 こうして金のなる木に陽にあて水をやり世話をして育てていく。
 脱線するが、金儲けではないぞ! 事業第一、自分は最後、金のなる木は組織とその構成員、業者、顧客である。それが事業第一である。自分を第一にしたら、やがて企業と自分が行き詰まり、事業も行き詰まる。その通り、自分は組織(スタッフ)と顧客に生かされて生きていく。
 ここから自然と事業理念が生まれてくる。失敗することは大変良いことだ。社会のために良いのである。組織を裏切り、社会を裏切り、顧客を裏切り、その結果なのである。自分を第一にした天罰なのである。安定した経営はこうして生まれる。企業としての経営課題も個人的ではなく、社会的な課題の中で解決していく。
 
 図式化していうが、単純に考えてほしい。起業してすぐのボタンの掛け違いである。受託企業(SOHO)なので組織第一と言った。企業のゴーイングコンサーン(企業の永続性)はキリスト教の教会から学んでいる。自分を犠牲にして「支払い」のすべては組織――会社(企業)第一と考える。こころして会社第一である。会社とは経営とスタッフ、業者、顧客を第一と考えていい。自分が第一でないと言っている。自分は最後の最後なのである。自分の中にもう一人の自分がいる。いつも、自分を見ている。もしこれが真に真実なら組織第一での経営になる。お支払いで迷惑をかけない経営である。個人責任保証の原則である。経済、政策など情況、企業として会社の力、自分の力を思慮深く知ることである。こうして組織としての真に顧客第一の土台が実現する。毎日が顧客第一の好循環の風が社内を吹く。ドラッカー先生を知ることになった数10年前から仕事の組織について学ぶことになった。この数10年、組織と仕事の相互の関係に関心を持った。こうした背景は何人も組織とのかかわりの中で働くことができた。エージェンシーもまた組織としての仕事の道具である。もう少し学びたい者はドラッカー先生の『テクノロジストの条件』(ダイヤモンド社刊)「仕事の組織」について学ぶことをお勧めする。小社は事業承継者教育が課題だが、組織の生命が集まり散じたスタッフによって支えられてきた短い歴史だが、陽にあて、水をやり、ここまで育ててきた。仕事の組織を私的に利用したら、組織も自分もどちらも滅びる。公(法人)の生き方でもある。自分が「組織」であるなら自己の崩壊と共にどちらも滅びる。
 スタッフの報酬は寿司屋の昼の1.5ランチから長期デフレと、いわゆる出版不況で1998年の不況で1.2に下落した。比較優位は好循環のキーワードである。


 未来の仕事は専門知識と専門技術が必要だ。自分の仕事がどんな広がりと深さを持っているか、それを調べるには書籍がいちばんいい。
 学校で教えてくれることは基礎知識にすぎない。
 若い青年であるなら海外旅行もいいだろう。先進国ではどんな仕事があるだろうか。海外へ出かけることも青年には必要だが、インターネットで書籍を探してみることも君の人生の仕事のひとつだ。
 1960年代の日本産業資本主義の成長期は就職して外国書を翻訳することだけが仕事だった友もいた。知恵と技術を学んだのである。
 企業が新規事業を開発するため先進国の産業を学んだのである。わが国において、どのような市場への新規参入の条件を考慮し、新規技術を理論武装し、そのためどの程度の投資が必要となるか、どのように市場を開拓していくかなどのマーケティング、日本社会へのアップローチ、顧客への訴求のあり方、そのため経営の組織はどのような姿か? 市場の発展とともに育っていく組織のあり方が組み込まれているか? 
 これらは一冊の原書の翻訳から始まった。
 今では経済のソフト化、サービス化、デジタル化、環境問題等、戦略的に考慮されなければならない。過去の時代と異なった新規事業開発は事業の理論武装だけではなく、日本市場にマッチングしてどの業種、どの業界を市場とするかなど、先進国の理論的定型をそのまま持ち込んでも失敗する。
 
「3はまとめを発表する」となっている。
 これは佐藤の言う弁証法での思考ではない。
 だから君は「どう生きていくのか」「だから君は社会においていかなる役割をもって生きたいのか」
 だから君は日々の生き方にどんなミッションというべき務めと責任をもって生きていくのか?
 それが君の事業計画と君のミッションでなければならない。
 
 人生、目標をもてるのは40歳を過ぎてからだ。十分大人としても君の周りの人たちは君の存在を認め、また君の役割に期待するだろう。
 
 その通り、何人も社会のお役に立って、ご褒美をいただき、生かされて生きていくことを実感するだろう。
 そういう意味で、14歳で大人となる人格を発達障害児と佐藤は見ている。佐藤は死刑廃止反対論者である。
 人生60年を第二の人生と考えている者もいる。だから実は社会の発展とは半世紀、一世紀の個人、家族、社会、経済、政治などの発展の中で人格とは形成されていくものだ。
 いま企業が直面しているのは人事部の革命なのである。
 わが国産業資本主義を止揚し、新しい社会へ進むには深刻な問題を企業内部に抱えている。

3 まとめと発表をする
 調べたことをさまざまな方法でまとめてみましょう。まとめ方や発表方法にもいろいろあります。例えば、レポート、新聞、ポスター、冊子、作文、ホームページの作成、寸劇や紙芝居として発表するなども考えられます。

 中学社会歴史的分野でも時代の移り変わりを調べようが第一編である。調査計画の立てる、調べる、調べたことを整理する、発表する。

「まとめ」ということは、思想や意見を考え出すこと。整理するには、君の考えを計画を立て考え出すこと。折り目正しく、分化し整列させて形にすること。学生であったら各項目の相互関係を結び、これは自分の意見を「作り出して」、形成することである。これは君の意見の形式となる。

 教科書は考える「方法論」が冒頭に出てくる。
 歴史教育や社会公民の教育についても歴史教育は都立高校においても必須科目になるが、義務教育の中学校においては上記に記した調査の基本的な流れを学ぶだけでは不十分だ。
 なぜ歴史教育が必要で、社会科公民を学んで「発表」することが義務教育の目的であったりしてはならない。自分が歴史から何を学び、公民から何を学び義務教育では、だからどう生きていくのかを子どもに教育されないでいる。発表が目的なのである。
 子どもに発表を目的と教育するのか? どう生きていくか、を学校教育は根底に据えていない。
 だから、どんな大人になるのか? 教育されないでいる。
 生き方に形はない。どんな生き方であってもいい。学んでそれを活かす生き方を教えなければならない。暗記したのを発表したのか、よくできると評価されるのか。
 一部に知識は道具であると考える人もいる。
 だが、歴史用語にしても、公民の扱う用語にしてもそこには自己精神の物質である、ことばのいのちというか、精神を構成する言霊(ことだま)というか、精神の原動力というべきことばのエネルギーが燃えて、それが自己精神を推進する。思想が気づきを生み出し、それを概念化するには哲学を学ぶ。生み出す哲学の過程を思想として追認し、自分を一新してのみ発揮させることができるし、よく理解して生きる力に変えることもできる。40歳を過ぎるようになると自分の思想で自分の書いた一文から最も良く学ぶことができるようになる。自分の思想を発展させていけるようになる。自分のことばを持てるようになる。「合」のあり方だ。知識は道具となって自分と分離している。暗記した知識を振り回している。
 人間の知識(自己精神)は道具をつくる。道具を作り出す。人間は道具をつくる。「特異」なものをつくっていないか? 人間が作り出した会社は仕事の道具である。知識と道具の関係である。「ものづくり」の基本とは「である」ではなく、「作り出す」知識(精神)の基本ということだ。「転倒」していないか? 「ものづくり」には魂が入るぞ! 世界における「二番手国家」の本質なのである。
 しっかり考えて、真似をしないで、もの(会社)を作れば、正しい(魂が入った)経営ができるということだ。
 
 だから生きていく力が足りない。
 多くの人は哲学と関係なく、ことばと自分が分離している。哲学の本質と感情とは関係ない。低位で論理的序列として人間の感情がある。人間とは事柄の物象化により精神は構成される。多くの人は感情で書く。知性の改善はスピノザから学ぶ。
 この場合、文系と考えてほしい。作家においては作品は虚構だが、そこにはことばの魔術を物象として描かれている。社会科学は哲学によって発生した。論理なのである。
 一方では歴史は文学としての人物歴史物語と科学による歴史の認識に分けられる。
 文学においては検証を必要としない。知識や論理から見れば幼いひとりよがりも垣間見る。
 知識の不足を指摘する気もない。芸術は概念用語を使っては幼さをさらけだすだけだ。
 ことばとは物質であって、だから物象化している。手品師になってはいけない。ふまじめなのだ。
 ことばには人を動かす力があって、初めてことばと言えるのである。力のないことばは王様のご機嫌を現わす感情の現われと思う時もある。

日刊工業新聞 平成22年12月14日
広角

未来予測が経営の羅針盤
オムロン会長 立石義雄

(1) ビジョンの重要性
手本ない時代
 日本経済は手本のない時代を迎えている。戦後の日本は欧米先進国を追いかけることで、経済大国の地位を築くことができた。ところが、その先どこへ向かうべきかが見えない。特にリーマン・ショックを契機に世界経済の構造的変革が顕在化した。為替や外交、資源調達、環太平洋連携協定(TPP)など現実の諸問題にどう対応すべきか、かじ取り役のリーダーにはビジョンを示すことが求められている。
 この混迷の時代に多くの経営者は、自分の企業を最も成長性の高いマーケットに乗せるべく新しい成長構造をどう造るかに悩んでいることだろう。そのためには自らが未来のありたい姿、つまりビジョンを描き、それを元に事業や技術の領域を決めることが重要だ。
 例えば、企業の生産活動は従来の大量生産から環境対応型に転換が進んでいる。これまでは二酸化炭素(CO2)排出を増やしながら企業は成長してきたが、これからは排出量を減らしながら成長しなければならない。


課題を先読み
 このような社会が必要とする課題を先読みできていれば、解決のための技術・製品を他社に先駆けて投入できる。日本企業には社会変化に伴い、新しい時代の価値観に合った製品や、ビジネスモデルの創造が求められているのではないか。
 オムロンは創業以来、チャレンジ精神を発揮して、社会に必要とされる新たな価値を創出するベンチャーでありたいと努めてきた。そのためには社会がどのように変化していくかという“モノサシ”が欠かせなかった。
 当社創業者立石一真は「経営者は将来を考える人である」をモットーとしていた。1970年に未来予測「SINIC(シニック)理論」を発表。オムロンはこれを元に事業や技術開発の方向性、領域を決めており、いわば“経営の羅針盤”として活用してきた。


理論の存在価値
 シニック理論は科学と技術と社会の間には円環論的な関係があり、その相互関係を体系づけている。一つは新しい科学が新しい技術を生み、それが社会に影響を与え、社会を革新する動き。もう一つは社会のニーズが新しい技術の開発を促し、その技術が科学に刺激を与え、必要な科学の誕生を促す。この二つの方向により社会が進歩していく。同理論では05年から個人の価値の多様化を背景にした「最適化社会」が始まるとしている。同理論の存在価値は半世紀近くたっても経営の座標軸として変わらない。
 予測した未来から現在の企業や自らを見てみるのと同時に、現在の企業や自らの延長線上に未来を描いてみると、実態と仮説にギャップを発見できる。それをフィードフォワードという今ある結果から将来の予測や仮説を修正していく作業を繰り返すことで未来が見えてくる。このことがビジョン経営にとって一番大切なことだ。

 思考する弁証法の「方法論」における「理論」とは
 ランダムハウス英和大辞典 第2版では、

理論【theory】
1(立証・確立された)理論,(…という)学説:Darwin’s〜of evolutionダーウィンの進化論/Einstein’s〜of relativityアインシュタインの相対理論/the atomic〜原子論/the quantum〜量子論.


類語 theory 既知の事実・現象を明らかにする,立証された,または確立された説明,hypothesisある現象または関係を説明するための仮説:This idea is only a hypothesis.この考えは仮説にすぎない.

2(立証・確立された命題と対照して,まだ推測の域を出ない)説,(…という)仮説:
3(数学)…論:ある主題に属する一群の原理・定理など
4(実践面と区別して学術・技術の原理・方法などを扱う)理論,原理
5(実践面の)規制,準則,方法論;法則 [原理]の体系
6 理屈,空論
7 推測(…という)憶測;(個人的な)見解,私見;意見,考え,計画
8『古・廃』洞察;熟考,熟視

 理論では教科書が言うように「調査の基本的な流れ」、「1.テーマを決める」「2.調査方法を考え、実施する」ことで現実的・歴史的本質が重要である。時間の今は過去となって歴史となる。歴史という結果に対する反省をしなければならない。総括でもある。
 先の衆議院選で自民党、公明党は何ひとつ総括しないでいるが、国会討論をみていると、反省を許さないことばも飛び交う。こころを持たない道具になっているのも原因があるが、真に反省することをもって教訓としなければならない。現実的・歴史的本質に傾向性を探り、現実の現象の本質とするが、史的な把握は高校の歴史認識で身につけることができるように教育されている。常に現実とは過渡的である。この過渡的とは発生期、成長期、爛熟期、衰退期、残滓の大まかな歴史の経過をとる。現実が永遠に続くと思いこんでいる人格もある。
 カール・マンハイム『歴史主義』(未来社刊)も言っているが、無時間的意識という。
 特に野党は政治のマニュフェストの扱い方に無時間的意識を排除しなければなないだろう。
 栄枯盛衰なのである。この現実に対する視座は現象の流転でもある。歴史的経過(現実の史的集積)をたどった人間の保守的現実追認の本能が「今」をどう捉えて行動するか、この行動とは未来へ向けた期待でもあるが、これらさまざまな行為が目に見える現象のかたまりとなる。現実を動かしていくのだ。原因を推測するのは心理学者であろう。しかしそんなことは大きな歴史の人間社会史の中でちっぽけなものだ。遺跡となって後世の人々が推測できても、ただそこに在ることをヒントに自分たちの軌跡を知るだけだ。
 しかし、現実的・歴史的本質に法則性があるかどうか。民族の知恵もこうした歴史の知恵が反映している点で民族性を強調するには人生は短すぎる。
 歴史研究者は冷静でなければならない。歴史とはこうした現実の陰謀の集積なのである。「偶然と必然」の哲学もまだ結果(立証)を見ていない。偶然の「運」は勝者の印となる。
 
 佐藤はこれら現実と歴史の中で庶民(市民)としての生き方を求めた。わが国経済の長期低迷の中で経営の安定を目指すには現実的な「当たり前で、相変わらず」の暮らしを求めた。勝った者や負けた者も出た。佐藤は「相変わらず」を目指している。
 
 現実的とはどんなことをいうのか、不況(戦場で弾が飛び交うのは日常的だが、自分の持ち場を死守することが次の現実的を生み出す)の中での生き方である。
 
 自ら生み出すのが革命的行為と仮に言おう。発明によってできるかどうかは、佐藤の社会科学の用語ではない。
 
 結局、理論とは枠組みがあったとしても色はさまざまである。理論の重箱を突っついても仕方ない。
 理論的本質とは現実的・歴史的本質の認識から生まれるのである。1960年代、宇野弘蔵教授の「三段階論」を思い出した。
 現実的・歴史的本質のこの本質はきわめて保守的である。


 理論とは何かで辞典の四項目は
4(実践面と区別して学術・技術の原理・方法などを扱う)理論,原理

と言っている。一般の学者であっても「学術」であるから、教育の視点はいらないとはいえない。
「技術」って何だ。
この辞典で、テクノロジー technologyとは
(芸術・科学などの)述語、専門用語
社会集団が技術文明の恩恵を利用する方法の総体。


テクノロジスト technologist とは
科学技術者、工学者
理論の範囲は広い。社会科学の立場に今は立つ。
文明国のインフラで活躍する人。ということもいえるだろう。顕微鏡で見ると問題(課題)解決も含まれるだろう。
 義務教育「公民」「歴史的分野」は一般に労働者を想定しているかもしれない。しかし、現代社会の高度な工業化、情報化社会へ対応している人材を想定しているかというと、そうは思わない。


4(実践面と区別して学術・技術の原理・方法などを扱う)理論,原理

 現代社会の事務・生産部門などで課題解決していく知識と技術一般概念の枠組みである。
 改善、改良、工夫ができるかどうか、技術と知識の創出の内に封じ込められている。だからどうしなければならないかが「まとめと発表」でとどまり、だから「あなたならどうする」が、教育されないでいる。
 
 しかし、科学と技術上の過程【発明、方法など】応用科学。という枠組みもある。
 したがって問題(課題)解決とは社会科学的には問題と直近の課題と二つの意味を含む。
 
 気になるので脱線するが、いわゆる意味不明の「合理化」に相当する英語として技術的失業、事務部門や生産部門における技術変化や新生産方法の導入によって生じる失業を、unemployment とアメリカではいっている。
 このことばもこれがもたらす社会的結果一般を表現していない。企業としては窒息するかもしれない。テクノロジストは越えていく。マルチテクノロジストとしてのり越えていかねばならない。知識と技術の専門職化と関連知識と技術の新しい動きは市場の縮小という物理的力を吸収していかねばならないだろう。1990年代、労働者像から知識労働者像への変化が見えてきた。知識経済社会が進展している。
 
 日本企業と外資企業にみる相違は内在的なパートナーシップとアウトソーシングの「関係」がパートナーと非パートナーの働きに似ている。日本社会では共に繁栄しようとする意識が強く、細かなご指示を戴いて情報を共有し、共により良い成果を上げるため、電子メールでのやりとりなどを通してとくにコミュニケーションが必須だ。だが、一方的に思える。日本企業の例だが、IT業界では顔が見えない。ビジネスの前提が成り立っていないのである。インターネットは詐欺師たちが荒らした跡地になっている現実に反省がなく、ヘドロを除去し再生しようという問題意識すらないように見える。
 
 触媒の「働き」を「契約」による商習慣で、夫婦の関係に対して、「戦略的協業」というのか、仕事を進めていくうえで、カイゼンや改良、工夫といった相互のコミュニケーションが成り立っているのに対し、わりきった関係の協業として意識する。共に成長しようという意識も感じない。成長していくうえで関係の内在的変容を期待することもないだろう。カイゼンや工夫が仕事を進めていくうえで、共に成長していく気づきにもなるだろう。何かを学ぶことができるだろうか? 
 コミュニケーションの手段として電話もあるし、電子メールもある。ビジネスをどのように把えているのか、会うこともできない。既製品営業は詐欺師を想像する。顧客の声も通らない。


 また話は戻るが、子どもの教育にとっては不親切な教授法だ。頭を整理して実践的本質の教授を必要とする。工夫やカイゼンなどの気づきは実践的本質にとって内在的なものである。
 教科書の執筆者の抜け落ちている思考である。それはもう一度いうが、「(実践面と区別された学術・技術の原理・方法などを扱う)理論,原理」

 執筆者の頭の混乱を指摘しておく。サーカマスタンス(周囲の状況)はできなかったのか?
 気づいたのですが、教師の教え方を変えれば、追加すれば、佐藤の言う実践的本質を子どもたちに教えることができる。工夫すればいい。教師の学習指導要領ではどうなっているのか? 
 
 経済学者が政府の経済、財政政策に関与してきた自民党と公明党政権下において資本の論理を優先して社会問題を惹起することばかりだったので、これら経済学者の実践的本質については苦々しい気持ちがあった。
 それは本来正しいことではない。経済学者もまたそういう気持ちだろう。結婚を経済の打算で考える経済学者もいれば、貧しい人々を救おうと考える経済学者もいるだろう。最近はバランス思考なのか、国民の何%が裕福で、何%が経済的危機を背負っているのか?  民主主義政治がもし多数決であるなら、自己の欲によって政治のあるべき姿をひん曲げることは許されない。
 自分の欲によって投票するとしたら、民主主義国家ではないのである。それでアメリカは民主主義国家かというと、大いに疑問だ。
 こんなことは個人の心情でしかないかもしれない。良心を感じなかった。
 
 佐藤の論理表現形式について一言。
「ある考え方」について述べたいが、佐藤の論理表現形式は欧米において誰でもが思考の習慣(形式となって現れているか? 生物的世界観で形相をみることができる)になっている。すべての現象という事物・事柄には、本質、形式、機能・要素・働き、目的がある。欧米人にとっては常識でもある。
 
 日本人にとっては観念でものを考え、それは認識されたものではなく、論理的になっていないものであるが、なんとなく話す内容については欧米人と比較しても劣らない。いいものをもっていると感じているが、形が出てこない。論理的な思考とは出発のはじめに文型が異なる。観念と論理との矛盾で、観念だから形がない。
 ここから形式を抽出することが苦手というよりも、「不可能」なのである。日刊工業新聞(特集)でも形式が後回しになっていて、かたまりから後付けで抽出できると思っている。思考に形がないものに後付けでたまげたものをつくってきた。形式がないと世に出現することはできない。しかし真似はできる。
 形式とは内容である。生み出せないものを生み出したものづくり国家だから不思議な国民といえる。
 内容とは考える上で本質である。内容は本質である。真似はできても、たまげたものだ。それは論理の隙間に入り、機能、働き、要素に色をつける。
 また、人間のつくった物だから内容と区別された事物の色の色彩が強く、二番手でリーダーになりにくい。原因は観念によるものづくりで論理によるものづくりでないのが理由だ。
 インターナショナルな物象化に基づいていなく、民族性を感じる。グローバルな時代のインターナショナルな諸国民にとってわかりにくく国際商品にならない。機能は単純明快でなければならない。操作は物象化の本質である男と女の機能・働き・要素など目に見えなければならない。凸凹の物象化(働き)である。単純にすればいいだけである。
 頭の中が論理的でなく、もやもやしていてここからものづくりを行っている。
 テーマは論理から生み出したものではなく、「このようなものというのか、こんなイメージのものというのか」、感覚であって形(種類)や本質が認識できない。認識の働き(作用)はものの型や組織に現れるものだ。わが国は特異の文化を輩出したが、何の意味か欧米人にとっては認識できない。ただ価値があることは認める。個人としての人間の創造物だからだ。
 
 日本人の得意分野といえるのか、論理による認識と区別される第三芸術といっていいのかどうか、過去の芸術を学び、固有の芸術には形式がある。だから現代人は形式という概念について学ぼう。
 
 わかりやすくいえば形式とは種類と単純に思ってほしい。すべての事物にはカテゴリーというか、種類がある。韓国の一部でも形式と呼ばないで種類と呼んでいる。正しい。
 すべてのものには種類がある。単純に気づきをもってもらいたいので、どんなカテゴリーに入るか? それを本質から抽出する。形式である。働きは形式から発生する。事業ではこの形式(種類)が営業種目となる。
 営業種目は機能、働き、要素が異なる。働きの形式が異なる。
 カテゴリーから営業種目という形状の種類に分類、品目が生まれる。分類された種類の働きを認識する。
 思考には思考の原理がある。思考と行動(実践)には不可分の関係がある。話し合いの進め方にはこの思考の方法論がある。よけいなことかもしれないが、自民党・公明党政権時代の政府の個別審議会ではこの思考の方法が仕組まれているようだ。茶番劇なのである。

形式は種類、形、形状、外形、物影などである。
 また横道にそれるが、
美術の形式は
形式,(美術品の)形の構成(formal structure):絵画における線・色,彫刻における大きさ・空間.(2)形:表現された作品の全体または一部分の立体的な質感や量感.(3)(特にありのままに見た)物体,人,人体(の部分),(それらの)外観,外見(appearance)

生物的世界観としてありのままに見ることが大切だ。特に特徴を見出す。
 形式としての生物的世界観では生物や動物の生存形態にどのような特徴があるか、生物や動物の生態をありのままに観察する。
 
 ファッションについて考えてみる。線としてのデザインや色、ポイントがどのように表現されているか、生地はどんな質感か、その人の知性とセンス、質的生活感が表現されていなければならない。
 好感もてるのは衣服が生活のスタイルを現わしている影としての立体感がほしい。形式として流行りを取り入れても個性を現わしていなければダサイ。時代を語る。時代の精神の在りようを現わすことだ。現代では文明社会の洗練(ソフィースケイト)されている知的で質感としての生活感がありのままに見えて、形式が現われることに特徴がある。思いこまれた形から脱出していく。表現上での意味である。この意味もまた時代で変化するだろう。
 ファッションとして現われていく感覚は市販品の組み合わせでできる。生存形態の多様なものがたりである。
 目に見えないのは思考である。街を走るタクシー運転士のこころの現われたハンドルの「瞬間」のあり様が映画フィルムのコマのように映しだされる。しかし、思考も論理的な目で見ればよくコンテキスト上に見えてくるものだ。
 論理的な文章ほど論理が浮き上がってくる。
 哲学の古典で論理を学ぶことができる。ありのままにコンテキストの流れから現われてくる。論理的であればあるほど現われてくる。この瞬間、こころの中で何を考えたのかが分かる。
 
 衣服をまとうのは人間だけである。絵画から色の組み合わせを学んだりしてもいい。多様化社会というけれどありのままに見た感覚は画一的な衣服が多いが、江戸時代の和服には裏地のチラリがあった。今の時代は自分スタイルということになるだろう。生活の質が現われるものだ。同じ衣服をまとってありのままに見て口から出ることばは人によって違うと思うが。自分スタイルが表現しにくいのか!
 現代の特徴は質的に同色の生活スタイルが現われた大衆消費社会と見る。みんな違うんだ、という事実が現われていないように思う。しかし生物的有機体としての商業主義の眼はデジタルカメラのシャッターである。盗み撮りしている。商業主義と自分スタイルがそこに在るということだ。

仮説【hypothesis】
1仮説:一定の現象を統一的に説明し得るように設けた仮定;作業仮定(working hypothesis)のように暫定的推論もあれば,確かな事実に照らして可能性が高いものもある⇒THEORY


類語:〜testing仮説検証/form[support] a〜仮説を立てる[裏づける].

2(議論の)前提.仮定.
3(仮言命題)前件(antecedent).
4(単なる)仮定,憶説,推測.

 理論的本質は「一定の現象」という現実的・歴史的本質から、この「現象を統一的に説明し得る」必要がある。その仮定を仮説という。暫定的推論から確かな現実的・歴史的本質の事実に照らして裏付けられた可能性が高いものもある。

 ぼくたちが日常仕事としているのはトランスクリプション(データ)の制作である。
 内容は仮説をたてる作業、裏付ける作業のお手伝いでもある。
 イノベーションによる科学・技術進歩は次世代シュミレーションによる理論的本質を裏付ける仕事となった。特に自然災害予知について注目されている。
 
 国会の質問で自民党が、資本の本性について論及し、国民にとってはこの本性が「最悪」である「理論」そのものにとって、国民の感情を逆なでしていること――悲劇は喜劇なのである。バカだから気づいていない。本来どうあるべきか?

日刊工業新聞 平成22年12月24日
統計数理研
2連携組織立ち上げ
天文や医療・金融 異分野融合ネット化
 【立川】統計数理研究所は次世代シュミレーションNOE(ネットワーク・オブ・エクセレンス)と調査科学NOEという二つの連携組織を立ち上げる。次世代シュミレーションNOEが理化学研究所基幹研究所などと、調査科学NOEが大阪大学大学院人間社会科学研究科などと、それぞれ連携協定を結んだ。研究手法を開発する同研究所が中心となることで、天文や医療、金融などの異分野をつなぐ先端研究機関ネットワークを構築する。
 
 次世代シュミレーション
 調査科学
 2011年1月1日付で次世代シュミレーションNOEの中心組織としてデータ同化研究開発センターを、調査科学NOEの組織として調査科学研究センターをそれぞれ新設する。
 データ同化研究開発センターではシュミレーションモデルに観測データを組み合わせるデータ同化技術と乱数発生技術を用い次世代シュミレーションを開発する。気象分野では地球の気象モデルを衛星の観測データで修正したり、生命分野では遺伝子の連鎖モデルに個人の遺伝データを組み合わせて一人ひとりの遺伝子ネットワークを推定することを目指す。センター長には樋口知之教授が就任する。
 調査科学研究センターはセンター長に吉野諒三教授が就任。個人情報の保護意識など社会環境に応じた統計調査手法の開発や同研究所が53年間続けている日本人の国民性調査の分析、国際機関との連携機能を担う。
 気象や生物、社会科学など、研究分野ごとにそれぞれの研究文化や手法が発展してきた。気象観測機やDNAチップなどのセンサーが安価になり大量の情報を収集できるようになったため、情報科学や統計数理との融合領域が発展している。この研究領域では分野は違っても研究手法は共通した部分が多く、統計数理研究所が中心となることで異分野の研究者の交流や相乗効果を担う。

理性 Reason(英)、Raison(仏)、Vernunft(独)。
【解説】哲学上の基本用語でありながら、種々の意味がある。まず(1)感性に対応する概念として、知性と同義に用いられる。すなわち感性が外界の印象の受容能力であるに対し、理性は認識や理解の能力。つぎに(2)人間の実践能力として、感性的欲求や本能・衝動による行動方向に対し、当為の意識による行動方向の規定者、行動能力をいう。さらに、(3)感性および悟性とともに認識を構成し、これを完成する能力。すなわち、感性が表象能力、悟性が範疇の能力であるに対し、理性は理念の能力として、感性と悟性との成果に体系的統一を与える。特殊なものとして、(4)世界の究極の原理、自然の法則性を意味する。たとえばヘーゲルの世界理性(Weltvernunft)はこれである。(5)総括的用法として、人間の基本的諸能力たる、思惟・意思・感情の規範的な規定者。(山本正男;当時東京芸術大学長)

 少し整理しよう。
 一般的に誰でも人は自分の中にもう一人の自分がいつも自分を見ている。人間社会史に宗教が生まれたのも人間社会が歴史を持ち、社会として延長していく壮大な人類史の成果だった。キリスト教、イスラム教、仏教も「もう一人の自分」である。人間社会史を図式的にいえば、より良い住み良い社会を目指して、人間同士や国家間の戦いもなくして平和な朝、おはよう、と迎えようという願いを、もう一人の自分は信じる。「もう一人の自分」が「理論的本質」と図式的に考えてもよい。
 神は人間に愛が必要なことを与えてくれたと思う。神学であったり、禅であったり、いろいろあるだろう。
 もう一人の自分は歴史的に理性になった。山本正男学長は「規範的な規定者」と言っている。歴史的な理性は哲学する。民主主義の論理も誕生した。こうして近代の市民が誕生した。佐藤の弁証法は市民社会における個としての近代の自立として自己精神の在り方の方法でもあるだろう。
 山本正男学長はなぜ「規範的な規定者」と言ったのだろう。宗教を規範的に規定しているとは、わが国では思えない。「おおむね一致」して佐藤は自由で、気持ちよく自由だ。佐藤が自分が自分で獲得した自由なのである。つまり自由とは自分が自分で獲得するものである。
 私は誰か?「自分が自分を探すことである」。 何人からも規定されない自分の測定できない感情が時間という延長の歴史、人間社会史の天文学的一員を意識する。
 今、生きている自分、どう生きていくか、という自分、みんなと生きていきたい自分。それはもう一人の自分が求めた正・反・合なのである。現実的・歴史的、今という時代の本質。どんなふうに鏡に映った自分が理論的本質。自分は自分の生をどう生きていくか、という実践的本質。
「規範的な規定者」とは、「合」の憲法でもある。それは現実的・歴史的本質から求められていくものだ。だから組織というみんなには「自分の憲法」が必要だ。
 佐藤は死刑廃止反対論者である。「合」として原理、原則、基礎、基本、ルール、手順、順序に従う。
 
 1枚の紙に「神」「原理」「憲法」……と自分で書いて、聖なるところにこの紙を貼って、佐藤はそれに合掌する。佐藤の自己精神の精神性である。
 それを「規範的な規定者」というか? 佐藤は「自ら従う」。

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