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2006年SOHO知識労働者の歴史的現在――長い不況からの脱出

1.真正パートナーシップの再興

 この4、5年「パートナーシップ」のことばがいろいろな所で使われ、一人歩きし、そして広がってきました。
 2007年 ぼくたちSOHO知識労働者は対等のパートナーシップ(夫婦の絆)を更に深め、真正パートナーシップとして再確認すべき時がきたと思う。
 お客様、本局、子局と真正パートナーシップの絆を広げ深めていきます。
 本来(真正)パートナーシップは「夫婦関係(絆)」として、生きていくための生命活動の交換と協働として捉える。真の夫婦においては、お互いに譲渡しえないもの、相互の生命活動交換の絶対に譲渡しえない協働のための「媒介物」でもある。
 ドイツ哲学の用語でもあり、翻訳語である「協働」は(独 Zusammenwirken、Zusammenは、一緒に、共に、という意味。wirkenは、効果、成果を上げる)という意味。
 現在、メディアミックス&ソフトノミックス/の最新のビジネスモデルとして使っているが、ダンスパートナーに対して編集者を支援するパートナーとして「共同の課題へ向けて成果を上げよう」というビジネスモデルである。チームワークで助け合って対応している。
 論理的な問題か、ことば上の行為が行われるときにみられるパートナーの動き方、身ぶり、動作なども含まれる。それは受動に対して発動という意味で、行動、活動、所業、所作などの積極的な行為。
 パートナーシップはいま最先端の「ビジネスモデル」として小社において再生展開されている。
 協働という日本語のことばはない。
 協業はコラボレーションと言え、あえていえば合作の権利が発生する。


 生命を持った意識は、社会共同体にもあてはまる。
 ぼくたちの生命活動と協働の働きは、生命要素として社会的、経済的、物質的に捉える。
 それは、意識を持ち、意識して行動する個体として関係していく。
 また譲渡しえない生命活動の交換と関係を奪われては、酸素を奪われると同じように相互に切り離しては死滅する。
 生産的生命活動相互の交換、協働は社会全体との関係(分業・役割分担)の中でのみ成り立つ。
 知識労働者として編集業務工程の分業化というパートナーシップ(外部委託による業務の役割分担)で組織的対応として実現している。
 パートナーシップの本質それ自体から規定される事物の発展は、4つの局面(本質・形式・働き・目的)を通して、最初の生み出す本質の概念が目的因(ミッション)として抽象される。
 人間社会の土台から出発した相互にこころを開くパートナーシップによる生命活動の交換と協働は、人間社会で事物の生み出すすべての契機でもある。それは活動、運動、行為の「場」でもある。ぼくたちは編集権を持たないでパートナーを支える。
 ぼくたちは正当な手段と目的をもって自身の史的な場における空間と領域を意識し、組織全体の関係と自らの連関を保たなければ死滅してしまう。
 生命活動協働の本質は、3つに分裂する。
 一つは、人間としての人間社会との交通(精神的 身体的 物質的コミュニケーション)を現実的本質として捉える。
 二つは、自ら(知識労働者)の現実的、歴史的な時代の生命意識(知識)がある。
 そして、三つ目は、実践的本質として自らの現実的生命活動(行為、協働、知識労働)をもつ。
 これらは生命活動本質の現実的様態として捉え、協働を通して精神の類的行為(小魚が集まって「クジラ」となる)を目指す(止揚・抽象)。
 自分のおかれた現事実と自分の意識として知恵(知識)を分離(二元論)したままではなく、自己の同等性(同一性・アイデンティティ)を獲得する。
 協働への生命意識として自らを規定し、自己のこれまでの日常である点は「協働の場」へ飛び込んで自己を認識する。生命活動協働の概念の本質は上記三つに分裂する。
「行為」として、「実践」として「自分である」同等性・同一性(アイデンティティ、一元論)を得て意識された自分のミッションとしてアウフヘーベン(止揚)する。
 魚にとっては水であり、人間にとっては空気である。空気や水がなくては生きていけない。夫婦はパートナーとしてアイデンティティを認識する。パートナーシップの原風景である。

 目的因の「諸個人の協働」は実践する人々の個別化の中の多様な交通から「矛盾」が生まれる。実践的本質の矛盾は対立と衝突の中で発展、変容し、分裂したり死滅したりを繰り返す。その矛盾は未完結の歴史として把握していく。そして、それは有機的組織(人間の集団)の現実的な社会の中の自己と社会の歴史をつくる。
 本局は実践において万世一系の営業精神を、窓口をひとつにして統合し、契機、過程、完結を結んで繰り返して進む。

 政治的ショーなど「戦略的夫婦」や「政治的で資本の論理による夫婦(絆のない野合)」など、そこにパートナーシップの精神は存在しない。
「夫婦の原型」は世俗的な夫婦であるだろう。
 純粋な民主主義が存在しないように、純粋なパートナーシップも存在しない。しかし歴史的、世俗的で政治的な民主主義が存在している。
 だが、本来民主主義の現実的、政治的成熟とはどこに測定眼をもつのか。
 多様な「存在のあり方」を求めて、ぼくたちは存在と信頼を生み出していく。
 ぼくたち自身の組織的エンジンとして真正パートナーシップとして再興し堅持し、望ましい「信頼」(あるべき企業理念)を積み上げていく。
 ぼくたちのパートナーシップの歴史は、これまで組織内外の「夫婦関係(絆)」を今こそ再検証し、この理念の現実化を通して、強く言えばパートナーシップの理念を無限の精神に「解消」し、新たな「真正パートナーシップ」として再興していく。
 真正パートナーシップの理念の実践とは、企業としての営業精神(統合)、それは実践(行為)の哲学として堅持し、更に高めていこう。
 多様な自立した生命意識は、現実的で実践的、生産的意識の相違を持つ個別化の対応(行為)を通して、「矛盾」として発現していく。
たまに「行き違い」があるかもしれない。常に反省して克服(止揚)していきたい。
人間として「経済学的合理的夫婦のモデル」は「夫婦や家族」から労働力(賃労働)として「職場に囲い込む」家族と職場の分断、資本の論理による分断から生まれる。
職場の人間関係の拒否すべき悩みから解放されて自由に生きられる。
SOHOの人間観は家庭と仕事を結びつける。家族への愛は仕事と矛盾(在宅ワーク)しないように社会的存在として仕事を通して自己実現を目指す。ディクテート(口授)や書籍を通しての人間や人生、知識などいろいろなことを学び、自分の人間的成長と仕事を結びつける。
知識労働者としての醍醐味である。
社会的存在の「有」があるとすれば、社会的、経済的に今こそ、自分らしくぼくたちの時代の知的で普通の身の丈大の間の境界線を楽しく歩むことだ。ぼくたちの生み出す知的で文化的でありたい生き方である。
 2006年、インターネットの最新技術の発展の現在、ウェブ2.0を取り入れ先進的で最新型へ「私の仕事場」を改造し、創造して快適に働こう。
 コストを削減し、納期(電子送信)、流通、労働時間などを短縮し、e労働生産性の向上を実現している。社会やパートナーへ貢献して自分の所得を増大しよう。



2.広島の語り部たちに元気の「気」を!

 3、4年前、暑い8月の日にNHK総合テレビは、広島の語り部について放送されていました。
 作家 大江健三郎先生は、語り部たちに対して、原爆体験者の体験談に、「語り部は、わたしはこう聞きました」と言って、語り部を始めるよう、お話されていました。
 語り部のあり方を聞き書きする談話筆記者と投影しながら言語過程説を唱えた時枝誠記先生は、「曲解」という述語を使った。時枝先生はフッサールの論理学研究から影響を受けて言語の構造を伝達の機能に基づいて解明しようとした。
 詳しくは、別のところで述べるが、「聞き書きのあり方」について考えてみる。
 いつ頃か、ウエブオフィスが登場したときから、トランスクリプションが「仮納品窓口」に納品されたが、ディクテ・コンストラクションができる前は、テープ起こしの原稿の真似事が出るようになった。
(A面開始)から段落改行してディクテが始まっていくのだが、何の意味かわからず、山形に納品時には(A面開始)を削除するように言ってきました。山形にとって余計な仕事だったのですが、時枝先生の曲解の思想は、むしろ聞き書きに対して、「わたしはこう聞いて筆記しました」と言うべきだと思いますが、佐藤の背景となる思想は、フッサールの影響を受けた時枝誠記博士の曲解の思想に基づいています。
 トランスクライバーは、「わたしはこう聞き書き(談話筆記)します」と言ってディクテを始めるべきなのか。
 語り部のあり方と聞き書きのあり方について、考えてみたが、原稿というシンプルな構成の形式も必要だと思っている。
 ここには、トランスクライバーのアイデンティティがある。曲解に対する考えもあるが、トランスクライバーの権威についてもある。
 しかし、「わたしはこう聞き書き(談話筆記)します」というべきなのか。
 裁判所の速記者の立脚点(良心、道徳および倫理)に投影しながら、マスコミ業界においてディクテートは、いかにあるべきなのか。

 録音状態の不良はぼくたちトランスクライブ(録音再生)の危機を生み出している。
 専門職としての役者や声優、アナウンサーは特別に発声の訓練をされてきたと思う。発話は明瞭で聞きやすい。録音が明瞭であればディクテは快適に進む。歳をとると声質が変わり談話の明瞭感が失われていく。
「言いよどみ」「言いごもり」「言いにごり」の中で漢字を引き出してディクテしなければならない。繰り返しフレイバックして聞き返す。
 平成5年8月31日『日刊工業新聞』の全面広告、三菱電機「声別不問」電話音声Q&A
システムは、69種に及ぶ声別を表現、その中に「引き入れ声」【ひきいれごえ】(息を吸い込むようにかすかに出す声)や、「濁り声」【にごりごえ】(にごった声、はっきりしない声、だみ声)、「 低声」【 ていせい】( ひくい声、こごえ)( 『ディクテーティング研究』第6号 32頁、33頁 1995年4月発行)などもある。
 トランスクライバーは高齢者の発話や早口発話に悪戦苦闘する。50歳以上の中年男性が3人集まると声質が同じように聞こえ、声分けにも苦労する。どんな内容の言葉を使ってどのような専門性からお話されているかなども声分けの参考のひとつにする。この中に女性が一人でもいると、声分けが楽になる。「言いよどみ」「言いごもり」「言いにごり」は、聞き間違いを誘発するが、さらに録音が不良であればトランスクライバー泣かせだ。
「談話に正確」ということが大切である。
「混乱した一文」は常にぼくたちにつきまとう。百点満点をとることはめったにない。いつだって「とどかない」。大学の先生と四つに組んでいる。「術」を教える前に知性を磨け。「術」の前に良心がある。自分の専門性を活かして磨いた知性をさらにここ一番で光ることだ。いろいろなテーマの録音著作物が入る。「自分をつぶして、つぶして磨いて光る」。トランスクライバーは毎日自分の良心をこころの中で測定して納品している。デットラインが気になり、良心と時間の戦いなのだ。
 録音状態が不良だと1時間5時間前後で終了するところ、3倍も4倍もディクテの時間がかかる。
 ぼくたちは出来高制で、時給は最低賃金に抵触する。泣きが入る。

 ノンフィクション作家の佐野眞一先生は、色紙に「語って説かず」と表している。資料に耐えうる第一稿の制作を心がけている。百円ライターにならないよう自分と戦っている。
 広島の語り部に指導者はいるのか?
文化の流れや深さをつくっていくのは、生きる人々のこころを正しく精確に伝え、歴史の資料として高め後世へ伝えていくことだと思う。未来に生きるぼくたちの仕事なのである。
 広告やPRにおいても出稿原稿の第一稿に携わるぼくたちは、「マスコミの内部から今の現実の暮らしから未来の暮らしへ仕掛け」がつながっていく。

 ここに「本物と偽物」の違いがある。
 俳優の緒形 拳氏は「演技しない演技」と語っている。
「あるがままに自然をみつめ、自然(思考の心理過程)を自分で考え、“自然”を獲得する。
この自分の考える自然が到達した新しい目指すべき“自然”が現れる」。それを自分らしい言葉で綴った時、演じる時、それは自分を対象化した、という。
どんな仕事でも仕事はいろいろと自分に語りかける。「話すこと」と「書くこと」の繰り返しの関係性を「変容」として把える。「 知」の良心を失ってはならない。これが自己対象化の意味である。
 最近は「感想文」をよく目にするが、思考の深さがたりない。
 そして、人生をかけて繰り返し繰り返していくことである。それは「否定の否定」といえるかもしれない。
 俳優 緒形 拳氏は演技について人生をかけて繰り返し、繰り返し考えられたと思う。佐藤もそうだが、過去に対象化した自分の文章を読み返すといちばん学ぶことができる。
 スポーツ選手も職業俳優もこうした人生だと思う。
「あの時は、こう考えたが、いまはこのように考え方を改めた」ということを繰り返していく。「生み出す力」は「偶然のヒントやアイデア」ではない。自己を見つめて求める力だ。
 禅(The Zen)に「自己を習う」という言葉がある。それは自己を「否定して否定する」繰り返しの中で空を求めるが、弁証法は「否定の否定」といえる。
 それは空ではなく、「有」だと感じる。

 時枝誠記博士の「曲解」と「テキスト相互連関性」の思想的、芸術的な相互の働きは、新しい未来への「共創造」へと向けていこう。
「談話、語り」の真実と文字テキスト。「話すこと」と「書くこと」、そして、「演じる」こととはどういうことなのか?
ぼくたちは、新聞社、出版社編集部のパートナー(バックスタッフ)としての立脚点を確認する。

曲解 きょくかい
【解説】もともとは、言語過程説を唱えた独創的国語学者時枝誠記の術語。時枝はフッサールの論理学研究から影響を受け、言語の構造を伝達機能にもとづいて解明しようとした。発話、言語交流においては、話し手は表現手段である言語(コード)を組み合わせて文(メッセージ)を作りそれを聞き手に送ると、聞き手はこの文に自分の言語をつきつけて解読する。その場合、話し手の意図どおりに理解されれば正解、間違って理解されれば誤解であるが、曲解はその中間にあるもので、これには聞き手が話し手の意図を強いてねじまげて理解する場合から、話し手と聞き手の持っている各々の言語(同じ日本語でも生活経験により各日本人の言語内容はかわってくるから、同一言語内に様々な言語があることになる)が違うために無意識的に話し手の意図が変形されて受容される場合まで含まれる。言語交流において聞き手が話し手を完全に理解することなどありえないから、むしろ曲解のほうがふつうに行われていることになる。
しかし、曲解が問題になるのは、文学テキストの場合である。日常の言語コミュニケーションでは話し手の意図が伝わってしまえば、それがどんな言葉で伝えられたかは問題でなかったり忘れられてしまうことさえあるが、文学テキストは「いかに」書かれてあるかが味わわれることによって新しい現実が(あるいは現実が新しい姿で)開示されるものであり、作家の意図はテキストの(表現手段の)構造として実現されている。ほかでもない、このためにテキストは作家から独立して一人歩きしはじめると言われるのである。この独特の構造性ゆえにテキストは様々な解釈が可能になり、したがって一つの正解より様々な曲解が成立することになる。創造的な曲解は原テキストの異本を生みだし、原作者の気づかぬ側面を顕在化させる働きを持つ。曲解の創造的役割によってテキスト(たとえば)古典は新しい生命を得、ここに「共創造」が実現するといえる。原テキストの構造はこれまで生み出された曲解とこれから生み出される曲解の総体ともいえよう。
(磯谷 孝 東京外国語大学教授 昭和57年5月4日発行 至文堂)



3.真正パートナーシップを発揮し、サブオフィスと一体となった
個別化の創造性を活かしたトランスフォーメイション戦略を展開しよう

 本局がサブオフィスを作ります。本局は営業活動の中枢を担ってきました。
 有性遺伝(企業間提携)での拡大ではなく、無性遺伝(譜代大名)で拡大しますが、今後「生物学の論理」を適用して拡大していき、新規事業の開発の芽を模索していきます。その組織拡大の思想はライフサイエンスの論理(観)の物象に求める。
 サブオフィスの構築は、内容からいって事業分野の再構築へ向けたトランスフォーメイションというべきもので、一刻一刻音声ファイルが入稿し、その他宅配便や電話など入り状況も変化して、仕事の形はスタッフと共に生み出すアメーバのように変化する香盤表のやりくりなどの前線です。
 本局がサブオフィスを構築するのは、本局と支社の関係ではなく、地域を管轄する営業所のイメージでもありません。過去の子子局(ここきょく)制でもありません。デットラインを抱えたやりくりです。
 本局と一体となったサブオフィスとの営業トランスフォーメイション(協働)というべきで、あえて言えば、全事業分野と新規事業の隙間の開拓を目指して、本局からサブオフィスの自立した政策を視野に情報社会化した人間社会史の社会的文化的技術的集積(余計なことですが、マルクスは資本の集積から出発した。それはインフラの形成と発展の分析だった)によって自身と自分のタスク(任務)を展開すべく自己を対象化していく。
 生命活動とその営みは、現下の経済的には社会システムで財(モノとサービス)の営みや交換をつうじて、それは提供された財の加工に付加価値をつけ、中間生産財(部品)を社会の一員(独立自営業者)としてぼくたちは生み出し、自己精神の外化(知識労働者)としてモノを生産している。結果、生かされて生きていく。おカネは後からくっついてくる。お客様から感謝されてこそ、続いてもいく。
 トップが分かっていないと悲劇が生まれる。「どんな人間か、どんな仕事をするか、どんな成果をあげるか」に焦点を合わせる。自然体で「こころを開く」お仕事を続けている。
 対等のパートナーシップにより社会共同体へ現実的な情報社会的様態の交換と協働を通して実現参画している。自らの仕事に対する自己規定(自己精神と社会とのアイデインティティ)も求められる。


 本能に基づく動物は直接本能で生き、食い、群れてそして本能で巣をつくり子育てもするが、人間は人間社会で交換と協働を通じて集落(社会共同体)をつくる。孤立しては生き(衣・食・住)ていけない。助け合って仕事をしている。
 存在論的な「食うために働く」という動物的で非知的な考え方と一線を画し、人間社会で人間はいかに生きていくか主体的な「生き方」と「働き方」を求めて自己の能力(教育・学習)を開発していき、企業社会と共に生きる社会的存在と認識し、仕事を役割分担で自分の仕事場を守っている。情報化社会なくして何人も生きていけないことを自覚する。


 現実的な企業社会の様態は旧来の企業体に新しい要素(働き)をつけくわえる段階に入った。

 もう少しわかりやすく説明すれば、サッカーのように走りながら目標へ向かって攻撃の態勢を多様な形で展開していくもので、原因を固定しないで、同時多発へ適時適材のタスク(任務)を通してトランスフォーメイション戦略をもって活動していく。それは内外自在のパートナーシップで実現する。

 本来、歌舞伎の演出用語でもある「早替わり」(quick change)でもある。観客の眼前で衣装はもちろんメーキャップ、結髪までも替え、大道具なども含めて場面をすべて異なったイメージに転換させる変形の概念である。
 また、ときどき「半立ち」(はんだち)もありうる。これも演出用語で読み合わせと立稽古の中間的段階の稽古で、俳優がせりふを覚えきれずにいる段階で台本を手にしてだいたいの動きを追いながら読み合わせを行なう稽古のことで、デットラインに間に合わせるスタッフへの緊急の「突っ込み」もありうる。
 スタッフの労働衛生を前提に正常なキャスティングを心がけていきますが……。
 トランスフォーメイションの変形の概念はこのような意味を持っています。ディクテの仕事場にも何が起こるかわかりません。リストラ前の旧報酬料金で対応していきます。
 個別化の創造的働き(機能)を付加して知識労働者らしい主体的な生き方と働き方を生み出していこう。
 現下の企業社会の様態は激変した。ぼくたちの取り巻く情報通信技術環境も変わった。
 今までの仕事に対する思い込みを一切捨て、新しいデジタル時代へと対応していかなければなりません。出版社の頼りになるバックオフィスとしてweb2.0の技術で革新していきます。
 ぼくたちの仕事とその仕事の変化――ナレッジワークスカルチャー(知識労働文化)として仕事に最先端の技術文化を取り入れ豊かに生み出していこう。この分野においてエンジニアリング思想で工夫・改善し、新しい働き(機能)と結びつけて世界最先端の「仕事場」を創造していこう。わが国の情報通信技術を活用すればできるようになるのではないかと思います。
 アメーバ営業伝統の歴史は、その本質は「一点突破の全面展開」で小社公式文書に明記されたのは、平成8年1月です。パートナーシップの理論をご参照ください。
 アメーバ営業の精神は、小社の経営理念である正直・率直・誠実・個性で、同業他社から区別された品格と品性でもある。仕事に対し、自己を対象化してSOHOらしく各人・自分がより文化的な自由――自分だけの楽しい自由を享受できるようになろう。
 今日の経営基盤を支えています。

 トランスフォーメイションの原理論は、
 トランスフォーメイション Transformationとは、
 現象と原因の区別は昔から存在したが、この二概念だけでは現象Aに対し、原因がかならずしも求められない。現象Aの原因はaではなく、b、c、……xの姿をとっていることが多いからである。そこでx→AのようにxをAの原因として発見するためにはどうしても変形(トランスフォーメイション)の概念が必要となる。
 
 それは、21世紀初頭の現代ということばのグローバルで政治的(軍事的)、社会的、文化的な大衆民主主義の思想的質的飛翔への実験でもあるのだ。
 ゲーム理論も適用していく。政治もサロン化したり、お茶の間のテレビで劇場化したり、ゲーム化している。SOHOらしくぼくたちの「組織」に変形の概念を付加した。「組織の変容」を恐れず知識産業社会における知識労働者の存在を生み出していこう。それはクライアントに対する多様な貢献ができる組織から「変化」が生まれる。「変形」の持つ可能性なのである。小さく、しかし堅実に実験していこう。

 本局はビジネスの最前線です。本局内部での会話ですが、数年前、曹洞宗禅寺の大本山 永平寺で一泊しました。
 永平寺の見学中に禅の思想の見事だったことばに出会いました。先輩修行僧が新入りの若い修行僧に向かって、「もっと早く」と注意されていました。
 TPOなどの場面でこのことばの意味は深い。
 トランスフォーメイション戦略は、本局においてこのことばが土台になる。禅(The Zen)の眼差しになる。
 規律を持ったTPOで意識的な品格と品性を生み出していきたいと思う。



4.メディアミックス論

「こちら側」と「あちら側」の対話が出来ていないような気がする。
 垣根を破壊した提携が求められるような気がする。
 テレビや映画の本編が新聞社や出版社の雑誌で取り上げられる。最近では、テレビ番組として独立した番組コンテンツが制作されてもいる。
 月刊誌や雑誌などで取り上げられる本編に対する出演俳優や女優さんを迎えて、役柄をどう演じたか、そのこころの動きを描写する。本編での「出来事」や「心理」の描写を描く。また「舞台裏」の思い出などが演じた者によって物語(ストーリー)として独立したコンテンツとして輝いている。人間の人間らしいドラマが描かれていて引きつけられる。
 人間の生き方が勉強になるのだ。どのように役柄が演じられているか、演出の読みも伝わってくる。ぼくたちの暮らしや仕事に重なって、自分の生き様を対象化してその役柄に入っていくときもある。自分のことでは涙も出ないが、描かれた物語には涙とともに観ている。
 ぼくたちの仕事の舞台裏もストーリーとして独立してインターネットとのメディアミックスを実験したいものだ。
「商品開発物語」が知的に描かれている。プロジェクトXが独立したコンテンツになるには「談話」と「テキスト」で織りなし、感動が伝えられる。
 インターネット放送は本編をトランスクライブ(再放送)して魅力あるだろうか?
「あちら側」に思い込みはないか。
 月刊誌で取り上げられた企画の目はインターネット放送でも独立したコンテンツとして成立するはずだ。メディアとして確立できる模索が求められる。
 しかし、テレビ局も「骨までしゃぶっている」。
 広告は広告なのだろうか。インターネットは小売業になっている。
 本編との相乗効果を生み出すために独立できるコンテンツが求められる。
 制作者側の「こちら側」と「あちら側」の企業文化の違いだろうか。
「読みごたえ」をつくるために、コンテンツとしての「売れる価値」。視聴者にとって好感度な関心を引き起こして行動への力になるような制作現場からの声・素材を独立したコンテンツとして出してみたいと模索している。視聴者は新しく発見するはずだ。
 そうしてこそ、新しい時代の小売業は成立するはずだ。



5.資本(カネ)と異なった知識資本の独自の道

 一般企業は上場して規模を拡大していく。利潤を求めていく。
「ヒト、モノ、カネ」を中心に拡大していく。カネ(資本)の論理が貫かれていく。
 ぼくたちは知識労働者としてコンピュータという生産手段を所有し、自らの知識資本で価値を生み出していく。
 確かに作家やアーティストに似ているが、ぼくたちは生涯生業としてプレイヤーである。
 自分に備わった固有の知識や能力を活かし、生産している。
 ぼくたちは自分の思想や感情などの生き方をもってこころや知識と対話を通してモチベーションを発揮できるお仕事を求め、その仕組みをつくってきた。お仕事と自分が常に対話できる仕事の環境を実現している。
 それは、お仕事が楽しく勉強を続けていくことが自分たちのモチベーションを高める。
 ぼくたちは自分と仕事との一致を求める。
 自分の目的と「仕事」とが分離していないか。自己実現できるか?
 目的と手段が分離していないか。
 ぼくたちは正当な目的と手段を求める。目的のためには手段はなんでもいいと考えない。
 数年前、クライアントである政府のある下部組織から無理なことを押しつけられ、言葉じりをなじって、「お前は金儲けのために仕事をしているのだろう」と言われた。電話を通してきっぱりと「けんか」した。しかし、そのクライアントのほかの方からも今もお仕事をいただいている。このお客様のお仕事は、「サービス業」である。中間生産財とはいわない。そして、お仕事の構成バランス(売上構成)を求めて営業している。
 トランスクライバーもコンポジショニストも校正者もライターも一般的には「提供された素材の加工」や校正やライティングなど完成度を求めて、チームワークで「中間生産財」として生産している。専門店の共同企業群という組織だ。スタッフは本局のキャスティングに協力されている。
 ここでは一般企業の労働者と、ぼくたち独立自営業者(SOHO)の異なった、まさしく情報化社会を背景とした働き(機能)をもつ。
 知識産業社会はわが国経済の一角をマスコミ業界を中心に一部の企業と形成されている。
 知識産業社会における資本とは、知識労働者が所有している。
 一般企業の労働者は資本を所有して生産しているのではなく、自分たちは固有の知識という資本を所有して生産している。クライアントは知識労働者に対して、「どんな人間か、どんな仕事をしたか、どんな成果を上げたか」を見ている。感謝されて自己実現する。おカネは後から「くっついて」くる。知識資本は人間的な感情をもつ。
 
 ぼくたちの企業の論理は出来高制であるので不況の時でも知識資本は増強しなければならない。そして、この知識資本は知識労働者が所有しており、貨幣と区別される人間的な余りにも人間的なこころと感情をもって貨幣とは決定的に区別される。
 自分と分離した貨幣は使う者のこころを相対的に反映されることができるが、永遠に知識資本と同じように所有することはできない。知識が資本だ。そして、固有の知識が資本として働く(機能)仕組みをみんなで支えている。みんなの力が大きな力となって安定した仕組みになっている。

 現実社会は人間のこころに貨幣思想は何をもたらしているのだろう。
 ぼくたちの共同企業群は知識資本の増強が企業の拡大につながる。
 共同企業群は企業としての経営と内外の信用、永続性とを必要とする。この働きには企業としての社会的レーゾンレートル(存在理由)として意義をもつ。
 ぼくたちは対等のパートナーシップ(夫婦関係)を求めている。基本的には平等主義が前提になる。知識労働者を囲い込む知恵である。知識労働者が快適に働くことができる対等の夫婦関係(パートナーシップ)でなければならない。
 政府の進める「規格社会」(企業の年功序列制度・ライフプラン)の壁を意識し、サーカマスタンス(周囲の情況)に基づく多様な生き方をひとつにしている。ぼくたちにできて政府はなぜ多様な生き方を受け入れないのか。今の硬直した年金制度に原因がある。旧世紀の遺物だ。年金制度の革命は新しい国力に活性をもたらすだろう。
 自分の感情と分離した生き方を求めない。
 あなたの「お仕事」に自分の感情と分離した「苦しみ」はないか?
 仕事は楽しくなければ仕事でない。
 スタッフのみんなは自分の人生を楽しんでいる。企業の利潤の追求は働く者を苦しめていないか? 利潤の多くはどこへいくのか。
 人生を「苦」だと思っていないだろうか。
 出来高制は自分が働いただけ報酬を受ける。仕事の量は保証されている。人生を楽しみながら働こうではないか。
 知識産業社会の主人公は経営者ではなく身の丈大で分相応の知識資本を所有する知識労働者だ。
 社会的な存在の「有」はあなたの固有な知識と能力を十分に発揮できる「舞台」だと思う。ぼくたちがマスコミ業界と一部の企業に求めたのは、現下の経済的文化のサーカマスタンスといえる。
 
 知識労働者の現実は知識産業社会の幕開けの現下のサーカマスタンスを受けている。
 いろいろなジャンルのお仕事や大きなテーマのお仕事が入る。知識労働者はいろいろな分野のお仕事をしている。編集者との二人三脚で良好なコミュニケーションの確立が求められる。品質の優れた原稿をつくるには、編集者のご協力が欠かせない。
 クライアント様から電話でお仕事をいただく。一通りお話しを聞いて編集者へこちらから伺う。それは著者名(インタビュー、対談、鼎談、座談会)など、テーマ(仮題)、録音時間、納期などを伺ってキャスティングの参考にする。スタッフの香盤表と相談しながら、どういうテーマでどのようなことばを使ってどのように話されているか、その難易度を測定して担当者を決定する。担当者の専門性を参考に決定される。著者のお名前や今回のテーマ(仮題)をお聞きし、取材メモ(参考資料)の有無、録音時間など調べものの時間や担当者の専門性と能力が適材適所にキャスティングされて納期に間に合う。
 原稿の品質は録音状態とトランスクライバーの実力で決定される。
 知識資本は取材の背景となる資料や取材メモなど提供されて、編集者の多様なニーズに応えられるコンピテンシーとして知識なども開発していく。知識は魔法ではない。
 最近はICレコーダーを活用して取材され、音声ファイルでの入稿が増えている。インターネットで送信され受信できるようになった。
 URLから直接、時空を越えてダウンロードできるようになった。以前はカセットテープをピックアップするか、宅配便で送っていただいてきたが、夕方、編集者がその日の取材から帰ってアップロードされて、関西のトランスクライバーに連絡し、1時間後、直接ダウンロードしてディクテに入り、納品をすばやくできるようにもなってきた。
 だが、徹夜は翌日の納品予定を抱えていて次のお仕事に影響を与える。香盤表のやりくりをしていますが、トランスクライバーは「休む」ことも仕事だ。
「いつでも どこでも」モバイルコンピュータを使って取材後アップロードできる。
 お急ぎの場合でも、取材メモなどがデジタルメモとなっている場合は、快適なディクテとなっている。情報通信技術のイノベーションはコスト面をとっても効率を高めている。
 
 また編集者が原稿(トランスクリプション)の品質を心配されて独自の微妙な表現や専門用語など羅列された取材メモやノートを用意して出して(送って)いただく。音質の明瞭な録音でも音声情報はテキスト(文字)に対して人間にとって80%の認識力が普通だ。映像、テキストと音声のマルチメディアでは100%の認識も可能だろう。原稿の品質が左右される。
 録音の不良はトランスクライバー泣かせだ。トランスクライバー5年経験すると発話の特徴をつかまえてディクテできるようになる。知識があっても経験がないと聞き漏らしや聞き間違いなど耳に入ってこないこともあり、現実的に録音状態に左右される。

 編集者とのパートナーシップは「共同の課題へ向けて成果を上げよう」という関係である。
 本局は知識労働者が孤立しないよう心配しているが、それは編集者のご協力をいただくことが良好な関係を生み出すと考えています。カセットテープでの2倍速録音は標準録音にダビングし直し、ディクテに入ります。標準の録音には取材の全録音時間がかかります。職業トランスクライバーのディクテマシンはプロ仕様の標準速度でなければ互換性がありません。時間がかかります。
 手前味噌な言い方ですが、知識労働者は出来高制で時給を改善することにもなります。
 効率を高め、納期を早め、労働生産性を高めることができます。



6.弁証法雑感

 弁証法は思考する入れ物で、箱の中にどのように何を入れるかはその人の自由です。
 ヘーゲルの弁証法は保守派から青年ヘーゲル左派までいろいろな立場で弁証法を使ってきたと思います。
 わが国が戦後左派によって唯物弁証法として左派の中身を強調してきましたが、「唯物」とつけたり、「史的」とつけたり、傾向性をもった考え方をしてきたと思います。
「史的」というのは、文明史の展望を描く点で使い勝手がいい立場にあったかもしれません。
 弁証法は日常大いに使って「ものの見方や考え方」を理念や思想に従って自由に使えるものです。
 テレビを観ていて自民党の二階堂俊博前経産相の記者会見で、弁証法的な論理で会見されていました。
 弁証法の(正)を、佐藤は現実的、歴史的本質(側面)と規定しましたが、これを「経過」(現状分析)と考えてもいいでしょう。これまでの事実、経過をまず始めに「広く認識」し、問題の現実と歴史的経過のコンセンサスを求める。
 理論的本質(反)では「本来こうあるべきだ」という経過に対する反省を行い、ここでの認識は現実を「こうあるべきだったと」、科学的、学問的な立場から立証する。
 実践的本質(合)では解決の指針が示されなければなりません。
 
 正反合は「二つが一つになるのか」というと、「二つが一つになって」そこからさらに三つに分裂すると予感します。つまり、実践的本質の(合)はさらに三つに分裂するのか?
 この三つとは、さらに現実的歴史的本質、理論的本質、実践的本質の三つに分裂する。
 佐藤もここからは推論する以外ありません。弁証法を使う人が自分の論理をリアルに証明することが求められます。
 佐藤は『ディクテーティング研究』第7号で小社経営の戦略であるパートナーシップを展開する意味で、最初の(正)(反)(合)の下に各々現実的歴史的本質、理論的本質、実践的本質がぶら下がり、この現実的歴史的本質を第1分析とし、理論的本質を第2分析とし、実践的本質を第3分析として考えてみました。
 生意気なことを言う気はありませんが、日本人の多くは現実と自分の考えとが「渾然一体」となった塊になった考え方をして、「思うこと。感じたこと」が整理されないで、たとえば起承転結で物事を考える人が多くいると思います。
 ここでは経過の説明を思考から独立させ、本当は「こうでなければならないんだよ」ということを分離し、「渾然一体」となった考え方を整理する思考する力がありません。
 
 国語学者や編集者によって「書かれた日本語文章」に日本語の美しさとすばらしさというか「無駄のない」「簡潔な」日本語に驚き感銘する文章に出会う時があります。
 わかりやすく的確な日本語の表現力に接したとき、心が豊かになったような気がします。
 
 政治は文学と同じです。政治家個人の感情的きまぐれか、性癖によって政治を行なった過去の時代から「文学的性格」として理解している人もいます。そこには政治の権力争いが感じられます。まったく政治は文学的性格をもっています。


 少し脱線しましたが、第1分析から第2分析、第3分析は(正)(反)(合)の(正)である現実的歴史的本質としてさらに掘り下げていきます。
 次の理論的本質は第4分析、第5分析、第6分析として理論系列の中で理論をさらに深めて考えていきます。
 ここではレーニンを想像するのですが、独裁者として独裁政治を政治的に夢想したと思われます。自分の考える未来を独裁権力によって「こうありたい」と夢想したのです。
 それはバーチャルな「現実」でした。権力者だからできた「政治の文学」であったかもしれないと感じています。
 この件は、このようにして(正)(反)(合)を第9分析までぶら下げていき、昭和40年代にある研究者が「形式と内容との闘争は第23分析なんですね」と言った対談の一文を今でも記憶しています。第23分析は理論系列です。レーニンの弁証法展開図は第36分析までと想像できます。
 みなさんもこの弁証法展開図をなぞってつくってください。佐藤の考えも符合したのです。
 
 小社の『ディクテーティング研究』では第6分析の途中まで描きました。
 それは未来の、未来というのは3年から5年ですが、その未来を現実的に予測し、どんな問題が潜んでいるか、思考することを止めました。
 それは自分の描く「こうなったらいい」という予測にしかすぎず、「未来の方針」である実践的本質とは理論的な経験(根拠)のないものに依拠していたのでした。
 
 会社その他での対応策などどのような論理で構築していくか、そんな時弁証法はお役に立つと思います。
 二階堂俊博先生は、どのような認識から自らの思考方法をもったのでしょうか。
 
 平成19年1月8日日刊工業新聞は報道した。
バブル経済の発生・崩壊
内閣府、実証研究に着手
政策の教訓へ

 内閣府は4月からバブルの発生・崩壊から克服までの日本経済を実証的に分析する研究事業に着手する。海外研究者を含む研究チームを設置し、バブル経済に関する歴史的事実を整理するとともに、政策・学術論争などの分析を行う。関係者の証言収録にも挑戦する。世界でも希有な経済事象として後世の研究につなげるとともに、今後の経済政策への教訓を導き出す。

 実施する研究事業の名称は「バブルの発生・崩壊からデフレ克服までの日本経済とマクロ経済政策に関する研究」。25年にわたる日本経済の変化と経済政策を分析対象とする。経済社会総合研究所の研究事業として07年度予算案に9900万円を計上する。
 研究は専門家によるアドバイザリーボードを設置して実施する。海外からも研究者を招き、10数人で構成。座長には政府税制調査会の会長に就いた元経済社会総合研究所所長の香西泰氏を招く。ボードの下に複数の分科会を設置し、総勢で数十人の専門家が研究・分析に当たる。
 研究活動は3項目に分けて実施する。一つはバブルの発生から崩壊、デフレ経済とその克服までの経済的・歴史的事実を整理・記述する歴史研究。二つめはそれぞれの過程を実証的に跡づけるための証言集の作成。官民の当事者による証言を集めバブルの構造や経済政策についての史実に迫る。三つ目は論争集の作成。バブル経済の発生原因などに関する研究や主張を分析し、後世の研究につなげる。新年度となる4月にはボードを正式に設置。併せて国際シンポジウムなどを開催し、研究事業をスタートさせる。08年3月までに研究成果をまとめる。
 
 現実的歴史的本質は、この系列において3つに分裂する。
 細分化した事実の分析として整理し、事実を分析、次に背景となった人々の思いや考え方を「歴史的理論史」として整理分析し、実践系列においては国民はどのような行動(経済財政政策)をとったかを整理していく。
 次の理論的本質も3つに分裂する。
 経済思想史の分析を3つに分けて分析する。現実的歴史的理論分析、次にその理論的論争の整理、そして背景となった経済財政政策の理論がどのようにとられたかを実証する。
 概ね思考方法は理解できる。
 このように弁証法は考えていく。
 
 中国共産党は(正)(反)(合)の単純な脱イデオロギーの図式で考えているようです。職業政治家として国内の特殊性もあると思います。
 しかし、中国共産党と付き合っていく上で、この弁証法はお互いの話し合いの論理に適していると感じています。日中関係の未来は明るい。
 一昨年12月末、日本経済新聞の報道によれば「マルクス・レーニン主義・毛沢東思想研究所」を改組し、「マルクス主義研究院」を設立したと報道されました。現代中国を分析する上で関心をもつ。
 弁証法は保守派にも使える思考方法です。
 日本の21世紀の政治は、老人たちから若い世代へ民主政治として文学から卒業する必要があるように思います。保守派の弁証法と日本共産党の弁証法(脱イデオロギー)は相性がいいと思います。

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